その65
抱えた想いが同じだったからといって、フィオの生活に大きな変化が起こるわけではない。
何時も通りに朝起きて食事をし訓練に出て―――翌朝サイラスと顔を合わせ迷惑をかけたのを詫びようとしたら「友達だろ?」と謝らせてもらえなかった。ただほっとした様な安堵の表情を見せていたので、フィオが説明するより早くガレットとの件は耳に入っていたらしい。
砦の住人も何処となくにやついた視線でフィオを見ているように感じるのはけして気のせいではないのだろう。情報が回るのが早いと感じながら、砦の中では上司と部下としての節度を持ち、身を引き締めて行かなければと改めて気合を入れた所―――
「おはようリシェット。」
「おはようございますガレットた…いちょ?」
ガレットがフィオの側に居座るのは何時もの光景だ。けれど隣にやって来たガレットは何時もとまるで違い柔和な笑顔で陽の気を纏い光り輝いていた。
いったい一晩で何があった? 同じ想いであるのを確かめ合いはしたがあの後特別な何かがあった訳ではない。何時もと大して変わらぬ態度でガレットはフィオを部屋まで送り届けてくれただけだ。
それが一夜明けると薔薇でも背負ってるんじゃないかとの煌めきに思わず引いてしまったフィオに、ガレットは昨日までとは違う一歩迫った距離で側に寄り添う。
「あの…近すぎやしませんか?」
「そうか? ほら、お前の分だ。」
にっこり柔らかな笑顔のままトレーを渡されるとその手がフィオの腰に回った。びくりと弾けたフィオに「どうした?」と笑顔のまま首を傾げるが、気には止めていないようでパンやスープをフィオが手にしたトレーに次々に乗せて行くと、腰をさりげなく押して先導する様に椅子に座らせられた。
完全に地が出ていますけど?!
母親から刷り込まれたか弱い女性に対する騎士としての心得全開で、甲斐甲斐しく世話を焼かれる。何時もより近い距離に椅子を寄せると高い位置から見下ろし、感じたくもない視線を常に感じていた。
まるで親鳥が子を見守る様に嬉しそうな微笑みを浮かべたガレットは昨日までの彼ではない。二人の様子に気付いたサイラスもぽかんと口を開けてガレットの態度急変に呆気にとられている。仮にも第六隊の隊長であるガレットが男ばかりの砦で、女性に堂々とこんな態度をとっていたら周りにどんな影響を与えるかくらいの予想は付く筈だ。
「ガレット隊長は食べないんですか?」
「そうだな、このままお前を見詰めていたいがそうはいかないな。一緒に頂こう。」
ぞぞぞっ…と背中に鳥肌がたったのはどうしてだろう。
フィオは身を縮ませ溺愛パワー全開のガレットに危機感を覚えた。
危機感を覚えたフィオだったが、訓練に望んだ際のガレットはいつもと変わらぬガレットだった。
眉間に皺をよせ罵声を飛ばし、隊員に交じって過酷な訓練に身を投じ共に汗を流す。ただ違う点はと言えば、訓練に交じるフィオを案じて苦い顔をしていたのが嘘の様に、フィオに対してだけは子供をあやすよりも優しい表情を浮かべて囁くように言葉をかけて来るのだ。
「そろそろ休むといい。」
「は…ハイ……」
まだやれますとの言葉は喉につっかえて出て来なかった。
何時もの様に『休め』『無理だ』と心配して怒鳴られるのではなく穏やか過ぎる物言いに反論が出来なくなる。ジャフロとの体術訓練も何時も通りこなさせてくれるが、微笑みながら見守られ、終了と同時に腰に手をまわして椅子へと導かれ汗を拭く布を渡される。甲斐甲斐しく世話を焼きつつも仕事もしっかりこなしており、恐ろしいまでの淑女扱いにも文句が言えなかった。
そして極めつけはお風呂の時間。
何時もの様にサイラスに見張りを頼んでこっそり出かけようとした所、さりげなくはあるが当然の様にサイラスと変わってしまったのだ。
「無理です、隊長に見張りをさせるなんて!」
「側にいたいんだ、やらせて欲しい。」
あくまでもさりげなく、けれど強引に腰を押され何時もの湯船に辿り着く。声の届く位置にいるからと姿を消したガレットだったが、フィオはその場に立ちつくしたままガレットが消えた闇を見つめていると遠くで鈴の音が聞こえた。
「不届き者は地に沈めて来るよ。」
「はいっ!」
闇から届いた声に悲鳴に近い返事を返す。どうやら湯船の周辺には罠を仕掛けているようで、覗きにやって来た馬鹿な男が掛かったらしい。
覗かれたりしないだろうか…番をしてくれるガレットを疑うのは、フィオにとってガレットがそうしても許せる立場に入り込んでしまったから。だからといって覗かれるのは嫌だ。正直恥ずかしい気持ちの方が勝っている今の状態で、ガレットに覗きという行為はあまりにも不釣り合いだ。フィオの心配を余所にガレットは完璧な紳士ではあるが兎に角落ち着かない。サイラスに頼んだ方がどれ程気楽だったろう。出来得る限りの豪速で入浴を終えて着替えを済ませるとタイミング良くガレットが目の前に現れる。
気配だけで全てを察せられてしまうのと見られるのはどう違うのか。さして変わらぬ羞恥にフィオはほとほと困り果ててしまった。
惚れた弱みと言うのを初めて実感する。
気持ちに気付く前は『女だから』との言葉にどれ程の反発を抱いただろう。それが想いが通じ合ったっ途端、笑顔で淑女扱いして来るガレットにいい様に転がされていた。訓練もやりたい事も何でも頷き同意して笑顔でやらせてくれるのだが、それに付随する全てにガレットが触れる距離で接して来るのだ。
最初の頃は囃したて冷やかしに回っていた周囲も時間がたてば苦笑いに、そして呆れに変わった。砦でたった一人の女を手に入れて調子に乗っていると闇討ちにあうのもしばしばだったようだが、手加減なしの返り討ちにされた面々の悲惨な状況に、やがてそれもなくなる。そしてガレットの激甘攻撃は日常の一コマとして認識されて行き、寒風吹き荒れる冬から新緑芽生える春になる頃にはフィオもすっかり慣れてしまっていた。
好き合っていてもアゼルキナでの生活を重んじ、二人はいつまでも清い関係のままだった。フィオがあれほど拘ったキスすら記憶の彼方、それを知った砦の住人らはガレットの体に欠陥があるのではと実しやかに噂し、酒の肴に盛り上がる。耳にしたガレットは大人の余裕なのか特に気にするでもなく、均衡を壊すのを恐れるフィオも前の様に暴走する事もなかったのであったが。
ガレットは春の異動を前に司令官室へ呼び出しを受けた。
「近衛騎士隊に―――ですか?」
一枚の書類を手渡され表情を険しくしたガレットを前に、司令官であるカイルも渋顔で溜息を吐くと執務机に足を投げ出した。
「お前に退かれると痛いんだがな。上からの命令だ、しょうがない。」
貴族出身でもその後ろ盾がある訳でもないガレットが、王族と係わりを持つ近衛騎士に異動するのは異例の昇格だ。かつてはカイルもその名誉を受けた口だが、配属当日に王女によって失格の烙印を押された。勿論そのまま残る事も出来たが貴族出身者に囲まれた雰囲気は性に合わず元の職場に舞い戻り、巡り巡ってアゼルキナに流れて来たのだ。
「辞退する訳には―――」
「解ってんだろ、首が飛ぶぞ。」
皆を言う前にカイルがガレットの言葉を遮る。
「キグナス王弟から王太子宛てに内々で礼状が届いたそうだ。ミュール卿の件は公にされないが大変な感謝を述べられ、それに関わったお前をアゼルキナに埋もれさせておくわけにはいかないんだとさ。」
今まで配属される厄介な騎士をガレットに押しつけて来たカイルとしても今後の配分に頭を悩ませる所だが、当事者たるガレットはそれ以上に心を渦巻かせていた。
ミュール卿…キグナスの軍師として名を馳せたキグナス国王母方の叔父で、フィオがキグナスに攫われた際ガレットが単身乗り込んだキグナスで生捕にした男だ。キグナスを立つ日、フィオを見送りに出たエルファスタが何事か企んでいる様な怪しい笑みを浮かべていた理由がやっと理解出来た。
身内の恥は本来隠し通したいものである。内々にとはいえ国境を越えたアルファーン帝国の耳に入れる必要は全くない。特にお家騒動は侵略の隙を与えるというのにそれをわざわざ報告して来るのは、ガレットに対する完全なる嫌がらせだ。仕事のできない王ではなく王太子にという点がきっちり狙いを定めている証拠。
「嬢ちゃん連れていっていいぞ?」
ガレットを気遣ってではなく面倒事を一つでも片付けたい私欲塗れのカイルの言葉に、ガレットは首を小さく横に振った。
「遠慮すんな。説得はしてやる。」
「彼女とこの件とは関わりありません。」
「硬い事言うなって。そもそもお前が嬢ちゃん救出に突っ走った結果だろ、当事者だ。」
遠慮するなよと繰り返しながら机の書類を捲ったカイルだったが、ある書類を前に動きを止めた。
「司令官?」
みるみる青褪めたカイルに何事かと声をかけるが、目の前の現実にそれ所ではない。カイルの耳にガレットの声は全く届いていなかった。
カイルは発作的に目の前の書類を丸めゴミ箱に放り投げる。綺麗な放物線を描いてゴミ箱に落ちた書類をなかった事とし机上に視線を戻した。ふ~っと長い息を吐いて次の書類を捲ると、たった今丸めてゴミ箱に捨てられた筈の書類が皺一つない状態で綺麗に広げられており、怪奇現象に驚いたカイルは椅子から飛び上がった。
「どうかなさいましたか?」
「あ?」
突然の奇怪な行動にガレットは眉を顰める。カイルは何でもないと首を振ってガレットを追い出すと、机の書類を引っ掴みゴミ箱に押し込んで足を突っ込み、何がなんでもなかった事にと執拗に踏みつけた。
どれ程長く踏みつけ続けただろうか。これで大丈夫かと疲れ果て大粒の汗を滴らせながら椅子に戻って腰を落ち着ける。
アゼルキナ就任始まって以来の厄介事だ。
見なかった事にする、絶対に見なかったと額の汗を拭えば、ゴミ箱の底にへばりついている筈の書類がまたもやアイロンを当てたように綺麗な状態で机の上にあり、カイルは悲鳴を上げて書類を引っ掴むと木っ端みじんに粉砕した。
*****
ガレットがミュール卿の隙を突き生捕に出来たのは何もガレット一人の力じゃない。キグナスの軍師として全盛期は先王の片腕となり戦地をかけ抜けた軍師でもある偉大な存在だ。歳を重ね多少腕が鈍ろうと経験豊富な相手にガレット如きが敵う筈もなく、餌となったエルファスタの策が功を奏したにすぎない。背後に迫るガレットに気付けなかったのもフィオがミュール卿のすぐ側で起こした落雷で耳をやられていたのだろう。討ち死にも覚悟して飛び出した時の感覚は今思い返しても震えが起こる。
そんな一連の出来事をエルファスタはガレットとフィオを引き離す策に利用した。そもそもガレットは近衛隊への昇格など微塵も望んでいないのだ。数多の問題児を抱えてもなをこのアゼルキナを気に入っており、フィオへの恋慕とアゼルキナへの想いはどちらも捨て難い物だった。
フィオに話すとどうなるだろう。きっと軽く『いってらっしゃい』と笑顔で手を振られるのだろうと想像する。自分に好意を寄せていると知って後も、フィオのガレットに対する接し方は知る前と大して変わらない。変わったといえば異議を唱える事がなくなったくらいだろうか。ガレットが距離を縮めても多少困った様な顔はするものの拒絶される事はなく、けれどこのアゼルキナでそれ以上の行為に及べば間違いなく雷で沈められるだろうと予想された。居場所を求めるフィオの意志を尊重し、ガレットは募る想いをひたすら封印して来たのだ。
「話がある。」
フィオが声をかけられたのは訓練を終え宿舎へと向かう夕闇迫る時刻。
最近は笑顔ばかりのガレットがいつにない真剣な表情で、フィオの腰に手を回すでもなく拳を握り締め長い影を落としている。断る理由もないので人気のない裏の林へ素直に付いて行くと、これまで黙ったままだったガレットが振り返ってフィオを見下ろした。
「異動が決まった。」
「えっ?!」
驚き声を上げたフィオはガレットの胸に飛びつく。
「そんなっ、三年ちゃんと勤めあげてみせます!」
これは権力を笠にするメリヒアンヌ王女に対するフィオの意地だ。魔術師団長も納得してくれていた筈なのに何で今更と怒り心頭のフィオにガレットは静かに首を振った。
「リシェット、お前じゃなくて俺のだ。」
「―――え?」
「春から王都へ、近衛隊への異動が決まったんだ。」
意外な言葉にガレットの胸倉を掴んでいたフィオはガレットを解放するとふらりと後退して後ろの大木に背を預けた。
「嘘―――」
離れるの?
真剣なガレットの様子に偽りはない。堅物のガレットが冗談なんて言う筈もなく、失う切なさに胸を抉られると同時にフィオの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
フィオの意外な様子にガレットは思わず目を見張る。一粒だけ涙を零したフィオは硬直して動かない。虚をつかれたガレットはフィオの前に跪くと、だらりと力なく落ちた小さな白い手を大きくごつごつとした手で取って包み込み、そのまま口付を落とした。
ゆっくりと押し付けられる唇の感触にフィオがピクリと反応し、一度手を引きかけたが再び力を抜いた。
ガレットはフィオの手に押し付けた唇を離すと祈る様に額に押し当てる。それから顔を上げ愛しい人を下から見上げた。
「リシェット、君を心から愛している。けして泣かせないと、幸せにすると誓うからどうか―――結婚してくれないか?」




