その57
リゼルを始め料理やら使用人が総移動して来たのか。最初の屋敷と寸部変わらぬ完璧にセッティングされたテーブルに、薄く技術力が高い透明なグラスは燭台の光を反射して煌めいている。そのグラスに半分ほどキグナス特産の黄金に輝く酒が注がれると、エルファスタが満足そうに頷いた。
「自ら釣り上げた魚は格別だ、さあ頂こうではないか。」
「―――全て殿下が釣りあげられたものですけどね。」
簡単な筈の釣りはエルファスタの独壇場。次々と釣り上げるエルファスタの様子に何か特別な仕掛けがあるのではないかと訝しんで躍起になればなるほど獲物は寄りつかない。
言葉通り入れ食い状態で次々に釣り上げていくエルファスタを横目に、フィオの方はといえば幾度か水面で魚を取り逃がした以外はほとんど餌にも食いつかれず、結局収穫は無しだ。
「拗ねたそなたもまた愛らしい。」
「はは……」
愛らしいなんて言われる年でもないフィオからは乾いた笑いしか生まれない。やりきれない気持ちで焼かれた魚に手をつければ、薄く塩焼きにされただけの味付けが驚くほどの絶品で思わず目を見開いた。
「なかなかの美味であろう。」
「はいっ。初めて頂いた時から思っていましたが、殿下の料理人は驚くほどの腕前ですね。」
美食は人の心を緩和する。けして贅を尽くした食材を使用している訳ではないのに、これまで口にした食事においては全ての味付けが絶妙かつ絶品なのだ。パン一つにしても焼きたてのふわふわだし、スープが美味しいのは当然だが飲みやすい温度で提供される。デザートに至っては時折見た事もない不思議な種類の品が顔をのぞかせるが、口に運ぶとつい頬がほころぶ穏やかな味付けだった。
「喜んでもらえて私も嬉しい。ではそなたに自慢の料理人を紹介しよう。」
上機嫌なエルファスタが合図を送ると小柄な女性が姿を見せ、その容貌にフィオははっと動きを止めた。
「ティーナ、彼女はマケシー。私の料理人として長く仕えてくれている。」
浅黒い肌に漆黒の髪、そして切れ長の碧い瞳。歳の頃は四十前後だろうがとても美しく、容姿から一目でロイの母親だろうと伺えた。
「あの…フィオネンティーナ=リシェットです。とても、美味しく頂かせてもらっています。」
「ありがとうございます、光栄ですわリシェット様。」
目尻に皺を刻んでにっこりと微笑むマケシーに苦労の色は無い。普段見慣れぬ外見だから似ている様に感じるだけだろうか。不思議に思うリシェットを前にマケシーは笑顔を崩さないまま、頭を下げるとその場を辞した。
「異なる人種を不快に感じるか?」
様子が一転したフィオにエルファスタも表情を消す。フィオは慌ててそうではないと否定した。
「ロイにとても似ていたので驚いてしまっただけです。」
「ならば良いが。察しの通りマケシーはロイの母親だ。」
「えっ?!」
思わず声を上げ慌てて口を噤んだ。
ロイは母親が奴隷だったという話をしていた。エルファスタの様な身分にある人間が、毒を仕込まれる危険のある料理人に奴隷を選ぶだろうか。
ロイの嘘かとも思ったが、だとすればどうしてそんな嘘をわざわざフィオについたのだろう。
「何を驚く?」
「あ…いえ。」
グラスを手にしたエルファスタが慎重にフィオの様子を窺っていたが、ふとある事に気付いた様で笑みを戻した。
「そなたはキグナスの奴隷制度を理解しておらぬな。」
「奴隷制度―――」
耳にして心地よい言葉ではない。制度というからにはキグナスでは奴隷の売り買いが社会的に認められているという事だ。人の尊厳をまったく無視した非人道的行いだが、ロイの言葉の通りアルファーンでも裏ではひっそりと取引されている現状がある。ただ奴隷という言葉ではなく、人身売買と形を変えてはいるが結果は同じだ。
「我が国は建国前より戦を続けてきたがその全てが勝ち戦ではない。多くの犠牲を払いながら領土を広げて来たが、急激な成長とともに徴兵によって多くの民をも失っていった。」
身を固くするフィオに対しエルファスタはさらりと先を進める。
キグナスは戦いによって領土を広げ地位を確立した国家だ。今や帝国であるアルファーンをも凌ぐのではという強力な軍事力を有する国として名を馳せている。だからといって戦に立つ人間が無限に湧き出て来る訳ではない。失った分は徴兵され、そしてまた失われて行く。
「昔からキグナスは働き手を補う為に奴隷商を利用していた。奴隷となり無理矢理連れて来られた者にがいるのは確かで綺麗事と言われればそれまでだが、このキグナスを築いたのはその奴隷たちでもあるといっても過言ではない。働き手として、または男子を失った家が後継ぎを求め娘と婚姻させるなど、彼らは様々な場所で生活している。」
「後継ぎ?」
奴隷を後継ぎに求めるほどキグナスは困窮していたのかとフィオは驚き目を瞬かせる。
「正しておくがマケシーは奴隷ではないぞ。奴隷としてキグナスにつれて来られはしたが、買われた時点で買い主の子、または伴侶、もしくは独立させられ労働者として家庭を築かされる。マケシーは子を亡くした豪商が買い求めた子供らの中の一人だ。キグナス国民となり相応の教育を受け今の地位を得ている。」
奴隷を子供として育てるなんて聞いた事がない。驚くフィオにエルファスタは特別な事例ではないのだと諭した。
「買われた時点で拒否権はあるのですか?」
「大抵は従うが、流石に婚姻となると拒絶を示す者もおるな。制度を疑い怪しむ者も少なくないが、その場合は独立して仕事を与えられ、この地で新たな家族を築いてもらう決まりだ。」
「買い手はそれを許すと?」
お金を払って得た物をみすみす手放すのかと疑問が生じた。たとえ国がそう取り決め指導したとしても人間の欲は簡単にあきらめがつく様な代物ではないのだ。
「呼び名は奴隷であってもキグナスに入った時点で国民同然、危害を加えれば相応の罰が待っておる。それに買い取った者から拒絶された場合はそれなりの救済制度も設けられておるのだ。」
キグナスにおいての奴隷という呼び名は異国とは意味合いが違う。戦で失った国民を他より流れて来た人間で補っているのだ。人権と教育、そして生活の保障。奴隷として連れて来られた者達が訝しむ程の条件であるし、ここに来るまでに奴隷商には主に逆らわぬ様暴力を使って教育もされている。そんな状態の彼らに拒否権など存在するといえるだろうか。これは彼らの心理をうまく利用した制度だともいえるのかも知れない。
「キグナスは侵略だけの国ではないぞ?」
「殿下にも異国の血が?」
訝しむフィオにグラスを傾けながらエルファスタが告げる。フィオには黄金色に輝く液体が何故か赤い血の様に見えた。
「私は生粋のキグナス人だ。だがリゼルの乳を食んだ故、そうだとは言いきれぬやもしれぬな。」
リゼルの一族は戦で家計を維持するのに必要な男子を全て失い、奴隷としてやって来た異国の男を養子に迎え血統を繋いでいた。王族のすぐ側にその様な現実がある事で他との違いを見せつけられたような気持になり、フィオはエルファスタから視線を外して心尽くしの料理を捕らえる。
何も知らない、アルファーンの王城に閉じ込められ身近な現実ばかりがフィオの世界だった。だからだろう、嫌々ながら出向いたアゼルキナ砦もフィオにとっては居心地の良い場所で、多くの魔術師が待つ王都に対する恋しさを抱いた事は一度もない。それ所かアゼルキナから離れる方に寂しさすら覚えるのだ。
「わたしはアゼルキナ砦の魔術師です。ここはわたしの居場所ではありません。」
「結論を出すには早過ぎるのではないか。」
「痛めつけられた後でも答えは変わりません。」
「手厳しいな。」
グラスを置いたエルファスタが視線を流し席を立った。ついて来いという無言の命にフィオは素直に従う。
向かった先は居間で暖炉の炎が赤々と揺れ一際温かな室内に暑苦しさすら感じ、フィオが上着を一枚脱ぐとリゼルが受け取ってくれた。エルファスタも同様に上着を脱ぐとそれを受け取ったリゼルが部屋を出て行く。ロイでも隠れてやしないかときょろきょろしていると『ロイならおらぬぞ』と酒瓶とグラスを手にエルファスタが長椅子に腰を下ろし、座れと隣を示されたが遠慮して前の長椅子に腰を下ろした。
「欲とは終わりのない物だな。」
飲み直しとばかりに注がれたグラスをフィオが手に取ると、エルファスタがため息交じりに言葉を落とした。
「魔術師の揮う未知の力に興味を持ったのが始まりだ。その後は父の計らいにて魔術師であった者が側に仕えてくれたのだが、彼女が力を失った後も持ち続ける魔術師としての誇りに深い感銘を受けた。いつか魔術師を伴侶にしたいと欲を申せば鼻で笑われ、彼女から聞かされた黒歴史には怒りを覚えた。」
黒歴史―――人としての尊厳を踏みにじられていた時代が魔術師にはあった。その歴史が今後も繰り返されない保証はなく、それを案じた魔術師団長が矢面に立ちフィオら若い魔術師たちを守ってくれている。魔術師団長もかなりの高齢、魔術師が力を失うまでは死ぬつもりはないらしいが、本当なら他国への抑止力として、または戦力として力のある魔術師を生産し続けたかったのがアルファーンの本音ではなだろうか。
キグナスの奴隷制度と比較させるつもりなのか、エルファスタの瞳がフィオを捕らえて離さない。
「彼女は何と?」
知識としてはあるが当事者の言葉を知りたいと思うのは当然の感情だった。どんな答えかあらかたの予想はたつし、その答えに怒りを覚えたエルファスタに己も同じ事をしようとしているのだと知らしめたいと感じたのだ。
「血統を守る為の近親婚…実際には婚姻などの事実はなく、ただ良質な魔術師を生産する道具として子を孕みながら戦場に立ったと。」
「そうですね、それが事実です。」
エルファスタが得た情報はその魔術師から得た物であったかと思い至るが、秘密を漏らした彼女に対しては何の怒りも無い。金で買われたとはいえ彼女を牢獄から連れ出したのは祖国ではなくキグナスなのだ。エルファスタが魔術師に興味を抱かなければ彼女は冷たい床の上で一生を終えたに違いなかった。
「彼女は無事に出産を終えたのでしょうか。」
宮廷魔術師としての力を有するフィオもそんな先人たちの血を色濃く受け継いでいる。近親婚の繰り返しにより子が出来にくくなった中で生まれた貴重な存在として、今も国に捕らわれ続けるのだ。
フィオの問いにエルファスタは静かに首を振った。
「何人孕んだかは聞いておらぬが、五人の子を産み落としたそうだ。だが無事に育った子は一人もおらぬらしい。」
「彼女の行く末を知らせるべき家族は残ってはいないでしょうね。」
家族は残っておらずとも魔術師団長に彼女の話をすれば記憶しているだろうか。誰かが彼女を知っているかもしれない。
リゼルの話からするとエルファスタが彼女を非道に扱っていた様子はない。最後まで尊厳を踏みにじられ非業の死を遂げた訳ではない。異国の、しかもキグナスの王族のもとではあるが、穏やかな最期を迎えたのであれば魔術師団長の耳に入れても新たな傷を負わせる事にはならないだろう。
「―――それはどうだろうな。ただ、帰りたいと漏らしておった記憶はない。」
それも彼女の生きた時代を想像すると当たり前のように感じた。まさに忠誠を利用した奴隷だ。
「墓標はあるのでしょうか。」
「領内に。明日にでも案内致そう。」
ここは居場所ではないと知らしめ早々に帰るつもりだったが、上手い具合に返された。確かに交渉上手の様だが、こればかりは致し方ない。キグナスに眠る魔術師の存在を耳にして墓標があるとなれば立ち寄らずには帰れないだろう。墓標とそこに刻まれた名を確認することで、エルファスタが彼女を大切に扱ってくれたのだと信じたい気持ちもあった。
「わたしは帰りたいです。」
ずるずると次なる手を打たれる前に釘は刺しておく。エルファスタにではなく、自分にも言い聞かせるようにフィオはしっかりと言葉にするとエルファスタは俯き、少し間を置いた後で顔を上げフィオを見据えた。
「私はそなたを無理矢理抱こうとはしておらぬ。」
確かにそうだ。だがぎりぎりの所でかわしているだけであって、やり方はフィオを苛立たせ壁を築かせる方法。キグナスの王弟にしては良策とはとても思えない。
「永遠に了承致しません。」
「何がいけぬ。」
考えは変わらない、心が動く隙はないと冷たく言い放てば、驚くほど素直に返されフィオは言葉につかえた。
「本当に、解らないのですか?」
「解らぬ。」
即答したエルファスタはグラスを置くとフィオの前に身を移して膝をつく。優雅だが素早い身のこなしは鍛えた人間が持つ動きで、両腕を長椅子に置いてフィオを挟むように陣取った。
「そなたは最初から私の想いを否定しておるであろう。」
同じ高さで覗き込まれフィオは身動きが取れなくなる。真剣で、少しばかり怒りを孕んだエルファスタの瞳がフィオを捕らえて離さなかった。
「そなたにとっては荒唐無稽な言葉であったやも知れぬが、こちらは至って真剣なのだ。魔術師が異国に嫁ぐのは叶わぬ、ならばせめて子が欲しいと願った。それがそなたをも含め手に入れたいとの願いに変わるのにはさほど時間を必要とはしなかったぞ。だからとて強制的に手には入らぬ。ならば振り向いてもらおうと時を求め些か強硬な手段を講じたが、こればかりは私が悪かった。すまぬ。」
許しは請わずただ頭を下げる。次にエルファスタが顔を上げた時には、フィオの両手を自身の掌で包み込み、フィオは手にしたグラスから液体が零れるのを気にして視線を落とした。するとエルファスタは更に顔を寄せ、息がかかる程の距離でフィオを捕らえたのだ。
「必ず幸せにすると約束しよう。そなたの心に誰も住んでおらぬなら私を選んではくれぬか。けして後悔はさせぬ。」
真剣な言葉を疑う自分が醜いと感じる。疑いつつ言葉は決まっているのにどういう訳か首を横に振る事も、否定の言葉を発する事も叶わなかった。
時計の針がコツコツと時を刻む中で、「ティーナ」と甘い声が耳元で囁かれる。手の中のグラスはいつの間にか取り除かれていたが、頭の中がもやもやして全く気付かなかった。背中に押し付けられる椅子の柔らかさも滑り落ちる黒髪の気配も感じる様でいてまるで夢の中の出来事であるかで。豊かな黒髪の中に筋ばった指が刺し入れられゆっくりと髪を梳かれる心地よさに瞼が落ちる。
「私のものになると、誓いの言葉を。」
「誓い―――」
何の誓い? ああ、エルファスタのものになる誓い。
「まぁ、そのくらいなら―――」
頬に掌が触れる感覚に瞳を瞬かせる。迫る瞳の色を何故か違うと感じた時、あの日と同じように鼓動が弾けた。




