その56
結局フィオはエルファスタの私室を占領したままその一夜を過ごした。部屋の主は出て行ったまま姿を見せず、リゼルは主の言いつけを守って一晩中隣室に控えていたようだ。常に嗚咽を漏らし悲嘆に暮れている様が容易く想像できてフィオは一睡もする事が叶わず、耳に付く時計の音を無意識に数え続ける。
エルファスタの事はどうでもいい、けれどリゼルが主を想って悲しむ姿を見せつけられていると、自分はなんて酷い人間なのかと後悔の念に苛まれ続けるのだ。泣かせている原因に我が身の存在があると解っているだけに良心の呵責に苦しめられる。
朝には泣きやんだリゼルが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。無理に作られたリゼルの微笑みは泣き腫らした重い瞼によって悲惨なものだったが、フィオに何不自由ないようそれはそれは優しく接してくれるのだ。エルファスタの願いを聞き入れて欲しいなどとの願いはおくびにも出さず、料理の説明をしなが皿に温かなスープやパン、メインの魚を乗せてくれた。過剰な贅は尽くされないがどれも作りたてで温かく味は絶品。料理人の心配りが幾所にも垣間見られ、こんな時でもあまりの美味しさにフィオは舌鼓を打ち続けた。
「あのぅ、エルファスタ殿下は?」
てっきり朝食は一緒にと思い込んでいたフィオは恐る恐る聞いてみる。リゼルははっとして一瞬笑みを消したが、直ぐに小さく頭を振って微笑んだ。
「顔を合わせれば別れ難くなり、無理に引き止めてしまうからと。無理矢理ご招待しておきながらもてなしも出来ぬ主で大変申し訳ございません。」
主に代わってお詫び申し上げますと膝を折ったリゼルにフィオはフォークを投げ出して慌てて駆け寄った。
「もてなしは十分して頂いていますから、リゼルさんが謝る必要なんて何処にもありません。パンは焼きたてで美味しいし、焼き魚だって鮮度が解るくらいにとても柔らかくて絶品です!」
「魚は主がお嬢様の為にと夜明け前に釣りあげて来たものでございます。それを美味しいと喜んで頂けたのなら、主と料理人揃って感無量でございましょう。」
「殿下が、ですか?」
エルファスタが釣りを? と、似合わぬ光景にフィオは首を傾げた。
「意外でございますか? それがなかなかの腕前でございまして、お嬢様にご訪問頂けたら共に釣りをするのだとそれはそれは大変楽しみにしておられたのですが―――」
ううう…と、リゼルの瞳から堪えていた涙が一気に零れ落ちる。申し訳ございませんと顔を背けたリゼルにフィオの胸がずきりと疼いた。
「まあ…魚釣り、くらいならして帰っても良いかな。なんて?」
「ほっ、本当でございますか?!」
つい零した言葉にリゼルがもの凄い感激の形相で飛び付く。釣りくらいならちょっとの時間だし、傷む胸のつっかえが少しは楽になるのではと思ってつい口にした言葉であったのだが―――うっかり滑らせた自らの言葉にフィオは直ぐに後悔するのであった。
*****
「いったい何処まで行くってのよっ?!」
昨夜の悲壮感は何処へやら、ウキウキ気分でスキップでも踏み出すんじゃないかという気色悪いエルファスタと馬車を同じくしたあたりからおかしいとは感じていたのだ。
「リゼルさんの話だと、殿下は今朝がた釣りをされたんじゃありませんでしたっけ?!」
いったい何処で魚を釣って来たんだ、馬車に揺られ三時間は経っていると苛つくフィオに、エルファスタは涼しい顔で言ってのけた。
「確かにその通り、喜んでもらえた様で私も嬉しい。だがそなたと共に釣りを楽しみたき湖はあの山の麓にあるのだ。」
エルファスタが車窓の風景に指を向けると、真っ白な雪に埋もれた山並みが遠くに聳えていた。これではでちょっと釣りにではなく小旅行だ。嵌められたと気付いても遅過ぎる。リゼルの悲嘆に暮れる様子に偽りはないと信じているが、こうなる様に導いたのは目の前で楽しそうに一人ではしゃいでいるエルファスタの策略に違いない。
こんな事になるなら二、三日世話になると昨夜の時点で決断しておけばよかった。そうすれば罪の呵責に苛まれる一夜を過ごして寝不足になる事もなかったのだ。
『急がねば』とリゼルが忙しなくしていた様子からすると、彼女らも後から追いかけて来るのだろう。この時点で片道三時間、往復半日以上。更にかかるのは明らかで日帰りとは思えない行程に、山の麓とやらにも別宅があると予想される。馬車の周囲はアルファーンでも行動を共にしていた護衛の騎士らが取り囲んでいるがそれだけで、必要と思われる釣り道具一式や荷物の類が何一つとして用意されていないのだ。
兎に角エルファスタの思う壺だというのが腹立たしい。幸せそうに窓から見えるキグナスの風景を解説し、春になると実りがどうだ、戦ばかりの国と思われがちだが意外にも穏やかで牧歌的な国民性なのだとか、楽しそうに語るエルファスタについ和んでしまいそうになるが、ここに来るまでに人の命が危険に曝されていた事実があるのを忘れまいとフィオは必死になっていた。
このままだと確実にキグナスを出してもらえなくなる。常に解放してもらえるよう訴えて行かねばと気合を入れ、エルファスタの長話を子守歌代わりにいつの間にか眠ってしまっていた。
不確かな揺れを感じて目を覚ますと、眠るフィオを抱き上げようとしたのかすぐ側にエルファスタの瞳があった。
「何してるのよ。」
「残念、起こしてしまった。」
エルファスタはフィオの高飛車女の様につんとした物言いにも臆せず、穏やかで優しい笑顔を向けてゆっくりと体を離す。アゼルキナ砦で垣間見てから護衛としての任務についていたが、その間に感じていた怪しい印象がすっかり抜け落ちてしまっていた。全てはフィオを安心させる為の策かもしれないが、そうとは思えないほど自然な様子に、もしかしたらこちらの方が素なのだろうかと感じつつ、エルファスタに続いて馬車を降りた。
差し出された手を取らずに枯れた地面に足を下ろす。一瞬寂しそうな表情を見せたが気付かないふりだ。エルファスタに好かれたいとは思わないし、むしろ嫌われて良かった。敵陣で憎しみを買うのは己の首を絞める羽目になるやもと感じつつエルファスタの護衛たちを見やるが表情は窺い知れない。けれど主が邪険に扱われているのを見ていい気はしないだろう。後ろからぶすりと刺されない為にも「ご令嬢みたいな扱い必要ないわ、でもありがとう」と保身の為に礼だけは述べておいた。
そんなフィオに微笑むエルファスタはまるで貴公子だ。容姿に服装、そして態度。戦ばかりのキグナスに育ったとはとても思えないが、腐っても王子様であることに変わりはない。粗暴さもなく多くの姫君が魅了の力を揮わずとも虜になるだろう。勿論自分は例外であるがと、フィオは思わず自分自身に首を傾げてしまった。
「どうした、疲れたか?」
気使いを見せるエルファスタに否と首を振る。フィオは何故自分が世間一般に言われる良い男に靡かないのだろうと不思議に感じてしまったのだ。もしそうならこの状況も『犯罪を犯してまでわたしを求めてくれるなんて本当は一途な方なのね』と前向きに楽しめたのかもしれない。
絶世の美貌で周囲に危害を加えまくるクインザが側にいたからだろうか。確かに見た目は女神の如く神々しいオーラを放ち、微笑み一つで周囲を自由に操って見せるが、見た目に反して子供っぽく怖がりで泣き虫かつ世間知らず。外見と内面が酷くかけ離れている残念な幼馴染だ。常にクインザがいたせいかもともとの性格なのか、ふと気付けば恋をした事が無くないか? アゼルキナというハーレムにいても良いと思える存在が一人でもいただろうかと考えて、こんな時に悩む問題でもないとぎゅっと目を閉じた。
「疲れたのなら釣りは後日にいたすか。そなたが寝付くまで子守歌を歌ってやろう。」
「不要です。さっさと釣りしてアルファーンへ帰りましょう。」
「本に、つれない娘よ。」
くすりと笑ったエルファスタは今度は傷付いてはいないようだ。フィオは大きな伸びをして体をほぐすと、すぐ側に見える灰色の湖にエルファスタよりも先に足を向けて進んでいく。すると直ぐ様エルファスタから待てがかかった。
「餌も持たずに何処へゆく。そなた釣りの経験がないのか?」
「―――マニアの殿下にも情報が漏れておりませんでしたか。」
釣りの経験なんてない、せいぜい子供の頃に水遊びついでに素手で捕まえた程度だ。
「うむ、そなたは確か手掴みどまりであったな。」
顎に指を当て知識を検索する様子に、そんな事まで知ってるのかと突っ込みたくなる。国境を超えいかにして情報を得ているのか。フィオだけではなく多くの魔術師についての情報を持っているのだろう。これを戦術に利用されたらどうなるのか。恐ろしい考えを抱いたフィオに北風が吹きつけ身を震わせた。
釣り餌を探すというエルファスタに素直について行く。護衛の騎士らは適度な距離を取りそれぞれの持ち場だ。二人して林の中に入ると異常に枯葉が敷き詰められた一角に遭遇し、エルファスタが腐葉土化しかけたそれを手でいじると冬眠中の蚯蚓が姿を現した。
「いつでも楽しめるように準備されているのですね。」
余程釣りが好きなのだろう。自らの手を汚して蚯蚓を捕獲するエルファスタの隣にフィオも腰を下ろして捕獲を手伝う。鈍く蠢く蚯蚓を摘んでエルファスタが手にする入れ物に次々と入れて行くと、エルファスタの手が止まっているのに気付いた。
「どうしました?」
無礼でもしたかと首を傾げるが、手伝っただけなので今回は思い当たらない。目を見開いてフィオを窺っていたエルファスタが少し照れたように息を吐いて目を細めた。
「虫を嫌がると思っていた。」
「そんな女じゃない事くらい調べ尽くされているとばかり。きゃあ怖いって、か弱い乙女みたいに可愛らしく言えれば良かったのですが。」
するとエルファスタは嬉しそうに首を横に振る。
「そのままのそなたが良いのだ。何時の日かこの地に憧れの魔術師を招待し、共に楽しみたいと願っていた我が願いがやっと叶う。」
何時の日か魔術師と―――戦場で魔術という不可思議な現象に感動し心引かれた少年の頃からの夢。叶える為に強引な手腕を用いはしたが、エルファスタが浮かべる照れ笑いの様な表情に彼の幼さをフィオは感じた。
喜怒哀楽のなかった子供が初めて興味を抱いた魔術師による現象。命を奪う力に恐れを抱かない子供だったエルファスタ。今の彼はどうなのだろうと、フィオは白い息を吐きながらエルファスタの瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「殿下にも恐れるものがあるのですか?」
「さあどうであろう。」
「まぁ普通に考えると秘密ですよね。」
何気に聞いてしまったがキグナス王弟の弱点が公になっている訳がない。するとエルファスタはくくっと喉の奥で笑った。
「そなたが私に子を授けてくれるなら、全て偽りなく答えてやっても良いのだが。」
「また御冗談を。それに万一にも間違って殿下の子を孕むような事態になっても、産み落とした子だけを残してアルファーンに帰るなんて事はしませんから。」
連れて帰ると睨みつけたフィオにエルファスタはまたもや笑う。
「留まるという選択肢もあるぞ?」
「思わせ振りでしたか、申し訳ありません。はっきりと申し上げて万一もありませんから。」
子を宿すのも留まるのも。帰る場所は決まっているとアゼルキナに思いを馳せる。
まあよいとエルファスタは機嫌を損ねるでもなく、十分な釣り餌を手に入れるとフィオを湖へと促した。桟橋には小さな船が寄せられ、エルファスタがそのうちの一つに慣れた足取りで乗り込む。湖面で揺れる小さな船に怯むフィオにエルファスタが手を差し伸べた。
「拒むな、落ちては大変だ。」
「―――ありがとうございます。」
流石に今回は差し伸べられた手を拒むつもりはなかったが、かけられた言葉が逆に躊躇を生んだ。けれど揺れる小船に乗り込むのは足元が心許無い。有り難く掌を重ねたが乗り込む瞬間からは無意識に両腕でエルファスタに縋っていた。無意味に力の入り過ぎた体がエルファスタによってゆっくりと導かれ船に腰を落ち着けると、フィオは安堵の息を吐いて礼を述べる。頷いたエルファスタは釣り餌を入れた箱を下に置いて慣れた手つきで櫂を漕ぎ始めた。
まさが船で湖に繰り出すとは思っていなかった。頬を掠める風が冷たいが、想像以上に揺れる船に水に落ちる恐怖で身を固くする。
浸水の心配がないかと足元に目をやれば釣竿が数本目に止まった。まさか冷たい水に落ちて裸で温め合うとかいうお馬鹿な狙いがあるのかと疑いつつ恐る恐る水面を覗き込むと、覗いた水底は深すぎて認められない。落ちれば水死、免れても凍死寸前じゃないかと視線を前に向けるとエルファスタは余裕で船を漕いでおり、ある程度の場所で留まると竿を手にして先程仕入れた蚯蚓を針に挿す。
「水面に垂らしてみよ。面白いほど簡単に魚が食いつく。」
「はぁ、ありがとうございます。」
穏やかな笑みを向けられると邪な考えに耽っていた自分が恥ずかしくて視線を反らし、言われるまま錘の付いた糸を水面に垂らして動きを止めた。
「息が止まっておるぞ、力を抜け。」
くすくすと笑いながら慣れた手つきで竿を操るエルファスタにフィオは顔を赤く染める。恥ずかしくて俯いた瞬間、エルファスタの垂らしたばかりの竿が引き上げられ、糸の先には銀色に輝く魚が飛沫を上げて飛び跳ねていた。




