その27
「あれ、司令官殿。こんな所で何をしてるんです?」
露店で買った棒飴を口に咥えたまま漆黒の瞳を丸くしてキョトンとこちらを見上げるフィオに、満身創痍ともいえるカイルが殺意を抱いたとしても誰も文句は言わないだろう。ガレット以外には。
幾日にも及ぶ苦行に耐え抜いたカイルであったが、メリヒアンヌ王女の押しの強さは万民の比ではなかった。なまじ王女であるがゆえにこちらも強く出られず、禁欲していた訳ではないが長く女を相手していなかった体は、あの危険極まりない王女相手ですら反応してしまいそうになる。
思い込みの激しい王女はカイルの拒絶すらも己の都合の良いように解釈し、自分は大丈夫、陛下はお許しになるからと誘惑の言葉を並べ連ね既成事実に持ち込もうとするのだ。
何という規格外れの王女、今更ながらクインザが都を逃げ出して来た気持ちが痛いほど理解できた。本当にあの時シュメル公が来てくれなければカイルはどうなっていたか解らない。騎士団を去ったとはいえ、カイルは改めてシュメル公の偉大さに平伏した。あの王女を失神させ黙らせる実力を持つ彼は神でしかない。
だがしかし、カイルが人生をかけた苦行に耐え抜いたというのに目の前の小娘ときたら………
助けに来いとまでは言わない。しかし呑気なフィオを目にした途端、これまでの苦労が蘇りふつふつと怒りがこみ上げてくる。
興味本位でフィオに同行した結果、どういうわけだかとち狂ったメリヒアンヌ王女に気に入られてしまった。確かに人の不幸を娯楽に変えようとしたのだから自業自得かもしれない。しかしカイルが大変な目に合っていた時にフィオはいったい何をしていたか。髪を濡らし呑気に飴を咥え、頬を上気させている様を見れば一目瞭然だった。
助けろとは言わない、フィオがこれ以上メリヒアンヌ王女を怒らせたらとんでもない目に合うだろうとはカイルにも予想できる。だからカイルはフィオに気を使い、彼女を利用してメリヒアンヌ王女から逃れようと画策しなかった。
それなのに―――この光景は何だ?
こちらが酷い目に合っていたというのに非情にもころっと忘れ、己の欲望だけを満たしていた様しか伺い知れない光景は。
フィオは自分がなぜこの様な夢の生活を送っていられるのか、その理由をすっかり忘れてしまっている。背後にガレットとヴァルの兄弟を従え休暇を満喫するフィオを前に、カイルは怒りで体を小刻みに震わせると両の拳を硬く握り締めた。
「その手を離せガレット。」
「司令官こそこの手をどうなさるおつもりです。」
振り上げられたカイルの腕をガレットが掴む。大男が二人並んで異様な雰囲気を醸し出す様にフィオは首を傾げた。
明らかに自分に向かって上げられた拳。いったい何をしでかしただろうと首を傾げ思い悩み、隣で冷や汗を流す友人に「?」と視線を送る。
「ヴァル?」
「いやぁ…素直に謝るべきだと思うよ?」
「何を?」
「フィオは司令官殿が今までどこで何をしていたか覚えてる?」
そりゃ勿論とフィオは笑顔で胸を叩いた。
「メリヒアンヌ王女と熱い語らいを―――」
言いかけて気付いたフィオの顔が見る間に青く変化した。
たった今、この瞬間まで綺麗さっぱり忘れ去っていた事実に目が泳ぐ。そんなフィオを鬼の形相で睨みつけるカイルに、フィオは口の端を引き攣らせ無理矢理笑顔を作ってみた。
「あの…解放された様で、よかったですね?」
「おう、無事お前の上司に戻れて涙が出るほど嬉しいぞ。」
この後メリヒアンヌ王女一行はシュメル公爵監視の下、王都に向けて出立する。それを見送った後フィオら三人は重い空気に包まれ砦への帰路へとついた。
砦に戻ったフィオには通常任務の後、カイルの不在でたまりに溜まった事務仕事に付き合わされ襤褸雑巾となる未来が待っていたのである。
*****
日中は訓練、夜は司令官室に缶詰状態。
それが数日続けは体力の劣るフィオは身動きが取れない程に疲れ切り、憔悴しきって死人同然の屍となり果ててしまっていた。しかしそれも目の前にいるカイルとて同じ。恨みを晴らしてやるとばかりにフィオに手伝いを強要したが、彼女の能力以上の仕事は回していない。それでも両者が潰れるほど溜まった仕事はメリヒアンヌ王女の呪いではないかと、カイルは最後の書類にサインをし終えると同時に意識を失っていく。その視界には既に意識を無くし健やかな寝息を立てるフィオの姿を掠めた。
小さな可愛らしい寝息にカイルの轟く様ないびきが重なって暫くすると、ノックもなしに司令官室の扉が音も無く開かれ、大きな巨体があえて気配を消さずに踏み込みざっと中の様子を伺う。
ガレットは机や床に散乱した書類を集めて綺麗に整えると、簡易的に持ち込まれた机に突っ伏した状態で眠るフィオを黙って見詰めた。
明日には長期休暇中の補佐官が戻って来る。きちんと捌かれた仕事に満足するだろうし、彼が戻ってくればフィオがこの様な仕事に巻き込まれる事態も無くなる。これで心配事が一つ減るとほっと胸を撫で下ろし、ガレットは大きな手で眠るフィオの頭を優しく撫でつけた。
砦の連中と違って触れても覚醒する気配はない。硬く瞼を閉じて柔らかな寝息を立てるフィオをガレットは暫く黙って見下ろしていたが、やがて机からそっと引き剥がすと背と膝裏に手を入れて抱き上げる。
例え深く眠っていたとしても普通大人なら体が浮いた時点で目覚めるだろう。しかしフィオはガレットが抱き上げても瞼を固く閉じ、長い睫毛が影を落としたままだ。よほど疲れ気絶する様に眠っているのだと推察し、高鼾を上げるカイルを睨みつけると「ん…」と声が上がった。
いけない、起こしてしまう所だった。
ガレットは慌てて殺気を消し去る。眠るカイルの守備範囲に気配を消して侵入すれば異変を感じ、瞬く間に覚醒するのは知っていた。どんなに疲れ憔悴し泥の様に眠っていても危機管理に対する感覚は鋭い。フィオを扱き使ったカイルを気遣う優しさは持ち合わせてはいなかったが、暴れられてフィオが目を覚ましてしまう事態は避けたかった。
ぐっすり眠りにつくフィオを抱いて夜の闇をゆっくりと歩く。宿舎に入りフィオの部屋へ向かうと注意を払ってそっと寝台に横たえた。
闇の中でも目の利くガレットはそのままフィオの眠る様子をじっと窺う。暫くそうしていたガレットに苦笑いが浮かんだ。
二度と失敗はしない。そう思っていたのに、気付けはフィオの影を求め付き纏ってばかりではないか。常に気取られぬように様子を伺い、つい手出しをして過剰なまでに面倒を見てしまう。惚れていると気付いた時点で付き纏いは止められる筈だったのに、こと彼女に関しては過去の様にはいかなかった。
それも当然だ。男ばかりのアゼルキナでか弱い女性を野放しにできる筈がない。時折サイラスが気にかけてくれるのを有り難く思いながら、心の内では他の男が近づくのが嫌でならないのも事実で。フィオの幼馴染である魔術師のクインザがフィオを追って来た時は、彼女を諦める良い機会だと思いながら距離を持ってみたものの、想いを絶つまでには至らなかった。
フィオが自分の下心に気付いたら全力で拒絶されるだろう。過去の失敗と同じように。
だがガレットの想いは既にフィオを見守るのを止められる程度のものではなく。ヴァルがフィオに近付いた時は、実の弟でありながらヴァルが恋敵の様な感情を抱いたのを覚えている。
何をやっているんだと深い溜息を落としながらも、寝台に流れるフィオの黒髪を一房とると唇を押し当てた。
ガレットの行動をフィオが知れば瞬く間に嫌われ、避けられるだろう。少し前まで己の思いに自信が持てなかったが、彼女しかいなかったからではなく、彼女だから惚れてしまっていたのだと自覚していた。嫌われたくなければ告白するなり、身勝手な理由からの付き纏いを直ぐにでも止めるべきなのに、そのどちらも出来ない己がもどかしい。
彼女からの『応』の返事がもらえない事はガレットにも容易く想像できた。拒絶が怖く、それならいっそ現状維持が何よりも好ましいと、臆病すぎる己に溜息が漏れる。
しかし本当によく眠っている。髪をなでつけていた手をそのまま頬に持って行き触れてもピクリとも動かない。
眠る時には防御の為に施されている筈の魔術も纏っておらず、薬か何かで眠らされているのではないかと疑いたくなるほど反応がなく無防備だった。
宮廷魔術師用の詰襟の制服。それを着たまま眠るのは些か苦しそうだがガレットが着替えさせてやる訳にはいかない。襟口のボタンを二つほど外してやると、僅かに開けておいた扉の向こうに人の気配を感じた。
「―――ガレット隊長?」
一拍の間を置き声をかけて来たのはサイラスだ。
「ああ、俺だ。」
サイラスは気配を消すのが非常に上手い。日常ですら意識せずに気配を消して動き回るサイラスに転属当初は誰もが困惑したものだ。
そのサイラスに気配を漂わせ声をかけられたガレットは自然と苦笑いを浮かべた。
「司令官室にリシェットの様子を見に行ったらいなかったものですから。隊長が付いてるんでしたら大丈夫ですね。」
闇の中でも真っ直ぐガレットを注視して来る視線を受け、膝を付いていたガレットはゆっくりと腰を上げた。
何処から見られていたのか、流石のガレットも全く気がつかなかった。ガレットがフィオの襟元に手をかけなければ恐らくサイラスは気配を消したまま黙って見守っていたのだろう。
「気を使わせたな。」
「え…あ、いえっ―――」
サイラスなりにフィオを守ってやろうという真面目な姿勢が伺え、ガレットが己の自制の為にもそれを認めると、サイラスは途端に目を泳がせ頭を掻き毟りだした。
「別にガレット隊長を疑っている訳じゃありませんから。」
気まずそうに俯いて視線を反らしたサイラスに、ガレットは「いや」と思いを吐露する。
「俺はリシェットに惚れている、お前の心配は正しい。」
素直なガレットの言葉にサイラスは目を丸くして顔を上げた。
ガレットがフィオに想いを寄せているのは誰の目から見ても明らかだった。砦の殆どの連中がガレットの様子から誰に聞く事無くそれを知っている。しかし今ここでガレットからそれを告白されると思っていなかったサイラスは、バツが悪そうに顔を顰めた。
「隊長が惚れた相手の了解なしに彼女をどうこうするとは思っていませんよ。」
「俺は聖人君子じゃない。そのつもりがなくてもどうなるかなんて男からすると解らんだろう? だからお前は正しいんだ。」
「俺が正しいなんて―――本当は俺にこんな事する資格ないって解っているんです。」
サイラスはフィオに夜這いをかけた過去を思い出しながら首を振った。
「後ろめたい気持ちだけでリシェットの友人をやっているんじゃないだろう?」
「そんなのっ、当たり前じゃないですか!」
自分の過ちを赦してもらいたい気持ちで償いをしている訳じゃない。サイラスがフィオを気にするのはか弱い女でもあるし―――実際はそうでもないと知ってはいるが―――色々と面倒事を引き起こしてくれるが、一緒にいると楽しいのだ。
異性の壁はどうしようもないかもしれないが、それを含めても純粋に友人として楽しいし、力になってやりたいと思うから。決して弱みを握られているからという訳じゃない。脅しに使われても今では直ぐに冗談だと解るし、何よりも彼女の自分自身に対する素直さがあまりにも真っ直ぐで、一緒にいると安心して付き合っていけるのだ。
つい声を上げてしまい、サイラスはしまったとばかりに口に手をやる。それでもフィオは起きる気配がなく身じろぎ一つせずに穏やかな寝息を立てていた。
ほっとするサイラスを前にガレットも胸を撫で下ろす。理由があったとしてもこうやって女性の部屋に許可なく侵入しているのは騎士として、一人の男としても褒められた行動ではない。
サイラスが注意喚起をしなくても手を出すほど落ちぶれてはいないが、この調子だと朝までフィオの寝顔を堪能したであろう自分が容易く想像で来てしまい、ガレットは『まったく俺は』と心の中で呟いた。
「兎に角出るぞ、リシェットに申し訳ない。」
ガレットは一度だけフィオを見下ろすと扉を閉め、針金を使って器用に鍵をかけた。




