その22
時は少し前に遡る。
セイは休暇を利用し砦からさほど遠くないある場所に辿り着いた。
休みの度に訪れるそこはある貴族の領地。もともとはセイがアレクセイ殿下としてアルファーン帝国へ連れ戻された時に賜ったものだが、その権利はセイの異父妹に譲渡され、現在はその夫であるキセル=ガイエンが管理している。
「お兄ちゃんっ!」
長い黒髪を振り乱し走り寄ってくる影を認めるとセイは嬉しそうに眉を細め、愛馬から降りると両手を広げその小さな存在を全身で受け止めた。
「元気そうで嬉しいよクリスレイア。」
「遅いよっ。昨日帰らないから何かあったのかと思って物凄く心配したんだからっ!」
「悪い、ちょっと予定が狂ってな。」
頬を膨らませ怒った表情をしていた異父妹は、兄であるセイにしっかりと抱き付きその匂いを胸一杯に吸い込むとにこやかに破顔した。
「お酒臭ぁ~い。」
「いやなら離れるか?」
「やじゃないもん。」
ぎゅうぎゅうと抱き付く妹をセイも容赦なく抱き締める。そこへ兄妹の逢瀬を邪魔する悪魔が登場した。
「ご無事のお戻り何よりです。」
目つきの悪い緑色の三白眼で無表情に見上げてくる男。本当に無事で何よりと思っているのかと疑いたくなる無感動な声のこの男こそが、セイの愛しいクリスレイアを奪い去った極悪人のキセル=ガイエン。クリスレイアの夫でセイより三歳年上の義理の弟だ。
「キセルも心配してくれてたんだよ。」
「それは気色の悪い話だな。」
「お兄ちゃんっ!」
顔を上げたクリスレイアはまたもや頬を膨らまし、円らな黒い目で威嚇する。今年で二十四歳にもなる成熟した大人の女性でありながらその仕草はあまりにも子供っぽい。それでも下から見上げてくる漆黒の瞳は妹を溺愛するセイを喜ばせた。
「クリスレイアに異常な執着を見せる貴方が遅れるなどとは、冗談ではなく本当に心配しておりました。」
「喧嘩売ってんの?」
「御冗談を。命が幾つあっても足りません。」
「はっ、どうせお前の心配はクリスレイアだけだろが。」
「彼女以外に理由が必要ですか?」
暗にクリスレイアの為に遅刻などするなと言いたいのだ。
厭味な奴だが可愛い妹の惚れた男であり、この世界で彼女を任せられる唯一の相手でもあるのでそれ以上の文句は噤む。
それでも威嚇するように睨んでいたら、しがみついていたクリスレイアがぶら下がるようにしてセイの腕を引っ張った。
「ん、なんだ?」
セイは愛しいクリスレイアに、砦の連中が目撃したなら一目散に逃げ出してしまいそうな笑顔を向ける。クリスレイアが腕にしがみついて来る時は決まってセイに何かしらの可愛らしい要求があっての事だ。
前回は大きなクマの縫い包みが欲しいとねだられた。今度は何だと楽しみに言葉を待つ。
「あのねお兄ちゃん、あたし赤ちゃんが欲しいの。」
愛しいクリスレイアの言葉に、セイは笑顔を張り付けたまま石化した。
*****
どのようにして石化から逃れたのか覚えていない。
その後セイはかなり昔に建てられ古ぼけてはいるが、綺麗に整備された石造りの小さな城でクリスレイアの人形遊びに付き合い、食事をし、お絵かきや新しく仕立てた衣装を自慢する妹にそれを着せ可愛らしさを存分に堪能した。やがて夜の帳が降りると、沢山の縫い包みが置かれた天蓋付きの寝台にクリスレイアを寝かしつける。その後セイは居間に移動し用意されたいた酒を一気に煽った。
「何でこうなった?」
長椅子にゆったりと腰を下ろし同じ酒を堪能するキセルに凍てつくような視線を向ける。だが相手は気にする風でもなく目つきの悪い三白眼でセイを見上げた。
「まずはお座りになられてはいかがでしょう。」
いわれるままキセルの正面に勢いよく腰を下ろすと、酒瓶を手に杯へ乱暴に酒を注ぎ先を促す。
「彼女と仲の良い使用人の娘が三月ほど前に出産し、クリスレイアは生まれた赤子をとても可愛がっておりました。それと同時に母親となった娘が子を愛しむ姿を見て、自分も母親になりたいと強く思うようになったようです。」
「子を持つのは遊びじゃないって教えたんだろうな?」
勿論ですとキセルは医師の顔でセイに向かい合った。
クリスレイアの夫となったのは、彼女がアルファーンに連れてこられてから付けられた精神科医だ。クリスレイアの心は九歳の少女のまま、キグナス兵により母親を目の前で惨殺された時から成長を止めてしまっていた。
北国カレリアに従軍していたセイがキグナス軍を惨敗に追い込み英雄視された事で、セイを手に入れたいアルファーンはセイの不在時を狙い、言葉巧みにクリスレイアを誘導しアルファーンに連れ去った。
クリスレイアの周囲には彼女を誑し込むために集められた、それはそれは見目麗しい少年が集められ共に生活を続けたが、兄から遠ざけられたクリスレイアが心を開いたのは精神科医として彼女の側にいたキセルだけだった。
やがてどう言う訳が二人は結婚し、気に食わないが己の欲で権力者の言いなりにならないキセルをセイも信頼はしている。剣を握らなければいられない性質では何時どうなるやも知れない。セイ自身もクリスレイアを確実に任せられる人間を欲していたのだ。
だからと―――まさか目に入れても痛くない愛しい妹から、赤子を要求されるとは思いもしなかった。
「何で俺に聞いてくるかなぁ―――」
「それは貴方の許可があればと私が話したからです。」
大きな溜息とともに吐き出された呟きにキセルが答える。
「何で俺に許可を求める!」
そんな事―――問わないで欲しいのが兄の思いだ。
「戻った時に彼女の腹が膨れていて尋常でいられますか?」
「―――お前をぶった切るに決まってるな。」
問われるまでもない。
いやいや、それよりも実際問題どうなんだとセイは頭を振った。
「そもそもクリスレイアは出産に耐えられるのか。」
男では到底理解できない痛みに襲われ命の危険を伴う出産。
クリスレイアは肉体的には立派に成熟した大人の女性だが、心は小さな子供のままなのだ。ただでさえ妊娠期は心が不調に陥りやすいのに、一年近く子を身籠り無事に出産までたどり着けるのかと心配せずにはいられない。
それに今は子供可愛さに欲しがっても、長い妊娠期間中に飽きてしまう可能性だってあるのだ。
「不安がない訳ではありませんが、ここ数年彼女の感情は落ち着いています。それに彼女から赤子をねだられて以来、私自身も彼女の為には必要なのではと思うようになりました。」
「それは医師としてか?」
そうだとキセルは深く頷く。
「失礼ながら貴方はキグナスと国境を交える最前線に身を置き、何時どうなるやも知れません。当然私も彼女よりはるかに年上。後に残されるクリスレイアの為を思うと心を寄せられる者を一人でも多く残してやりたいと、それが必要だと常々思っておりました。」
今はいい、クリスレイアには溺愛してくれる兄と夫がいてくれるのだから。しかしそれも何時までかは解らない。
彼女はセイ=ラキスと言う英雄をこの国に繋ぎとめるだけの存在なのだ。セイは先王の庶子でありながら王族の身分を押し付けられた。異例の事態だがセイ自身は微塵も感謝していないし、それ所か迷惑に思っている。だから必要もないのに国から賜った領地は、自分にもしもの事があった時にクリスレイアが困らぬ様彼女の物にした。
しかしクリスレイアに領地の管理など出来るはずもなく、セイとキセルがいなくなれば瞬く間にここを追いだされてしまうだろう。
世間は冷たい。身寄りもない心を壊した女を誰が守ってくれるのか。
「これも良い機会って訳か―――」
二人に子供が生まれればやがて領地はその子供が受け継ぐ。当然子供は母親であるクリスレイアを守るだろうし、心の支えにもなってくれるだろう。
「許可いただけますか?」
「夫婦の問題なんぞ俺が知るかよ!」
それでも可愛い妹からの『おねだり』はあまりにも衝撃過ぎた。まったくもって悪夢だと吐き捨て、またもや酒を一気に煽り更に継ぎ足すとそれも瞬く間に飲み干した。
酒が全てを忘れさせてくれるといい―――無駄な願いを抱きながら眠ったセイは、その夜から本物の悪夢にうなされることとなる。
*****
漆黒の長い髪に円らな黒い瞳の、可愛らしい異父妹が駆け寄り笑顔を零す。
愛しいクリスレイアを抱き寄せ髪に顔を埋めて堪能し、もっとよく顔を見ようと頬に手を添えると、深く神秘的な紫の瞳がきらきらと輝いてセイを見つめていた。
見つめるその人の淡い金髪を優しく撫でつけながら顔を寄せる。
「うわ―――――――――ぁっ!」
一気に覚醒したセイは闇の中で跳び起き、その恐ろしさに思わず掌で口元を覆う。全身にじっとりと嫌な汗が噴き出すが芯は冷え切っていた。
今の今まで忘れていたが、セイは夢に出てきた人物を見知っていた。
ここへ来る途中にすれ違った破壊的な美貌をもった宮廷魔術師。神々しい輝きを振りまきながら彼がセイに向かって手を差し伸べた所までは覚えているのだが―――その先はいったいどうなった?
そもそもあれほど衝撃的な人間に会っておきながら、この瞬間まで忘れていた事実が腑に落ちない。
「呪いでもかけられたか―――」
気を取り直して横になっても尋常ではない美貌の主が頭に張り付いて離れなかった。
そのまま眠れず、翌日は寝不足のままクリスレイアと花を摘んで冠を作って遊んだ。そしてその夜に見た夢にも美貌の魔術師が慈悲深い微笑みを湛え現れ、セイはその頭に花冠を乗せ二人で神前にて結婚式を挙げたのだ。
誓いのキスとあいなった所でまたもや飛び起きた。
そして次の夜は二人で初夜を迎える悪夢で跳び起き、極度の睡眠不足に陥り憔悴しきったセイはクリスレイアが心配するという理由でキセルに城から追い出される羽目になる。
「よほど強く心に残ったのでしょう。貴方をこれ程に憔悴させる美貌の主を、私も一度拝見してみたいものですね。」
何の感情も匂わせず無表情で淡々と語るキセルに、セイは「お前も呪われろ」と悪態を吐く。
キセルによるとクリスレイアの赤ちゃんが欲しい発言に衝撃を受けたと同時に、美貌の魔術師の強烈な印象が重なり夢に見るのだろうとの話だ。彼を記憶から消し去っていたのは衝撃が強すぎたか、あるいは魔術師が何かしらの術を使ったかとしか今は言い様がない。
「夢は覚めるもの、そのうち見る事もなくなるでしょう。」
「ならいいが…クリスレイアを頼む。」
「言われるまでもありません。」
寝不足でふらつく体で愛馬に跨り手綱を引いた所で「ああそうだ」と、セイは大事な約束を思い出した。
「金を用立てて欲しかったんだ。」
「用立てるとは言いませんよ、此方は貴方様の財産をお預かりしているのですから。それでいか程でしょう?」
セイが金額を告げると無表情三白眼は珍しく驚いたように目を見開く。
「そのような大金―――いえ失礼。私に詮索する権利は御座いませんでした、申し訳ありません。」
「別に大した話じゃない、賭けに負けたってだけだ。」
「貴方が負け戦をするとは驚きです。」
「俺だって驚きだ。その金でマルム酒を樽ごと仕入れて砦まで届けてくれ。」
「マルム酒を樽ごとで御座いますか―――」
少しばかり思案する様子を見せたキセルだったが、直ぐに承知しましたと小さく頷く。それを確認したセイは手綱を引いた。
「受取人はフィオネンティーナ=リシェットだ、よろしく頼む。」
馬を走らせたセイに向かってキセルは再度目を見開く。
「貴方からクリスレイア以外の女性の名が出るとは―――」
女性関係が派手なのは良く知っているが特定の相手をもたず、セイにとって特別な存在はクリスレイアだけだった。
「それにしても樽ごととは、女性への贈り物としては如何なものでしょう?」
既に駆け去ったセイにキセルの呟きは届かない。
キセルはセイの姿が見えなくなるまでその場に佇んでいた。
*****
謀らずも囮となり、フィオはクインザに自らの手で引導を渡した。実際には誰に頼まれるまでもなく率先して囮となって、その手伝いをしたと言うべきか。
顔面に赤いインクが滴ると同時に湧きあがった怒りをぶつけた先が、目の前で唖然とするフィオの幻影を纏ったクインザだった。
フィオを残し攻めに出たガレットにはクインザの気配が掴めていたし、目の前に現れた幻がフィオではないとも一目で見抜いていた。
対峙した幻影が礫を放ち、ガレットはそれを避ける。同時に標的を確実に捕らえ礫を構えたガレットだったが、自身の後ろに立つフィオに気付くのが遅れた。
クインザにとっては賭けの、だがガレット達砦の騎士には命を左右しかねないその日に向けての訓練。フィオに強制終了の証が叩き付けられた瞬間ガレットは己の不手際に息を飲んだ。
怒りにまかせ礫を放ったフィオと、それを受けたクインザ。そして呆然とするガレット。
その三人の耳に『はい終了』と穏やかな声色が届き、同時にクインザの背後から手がのびてその肩に押し付けられた礫から真っ赤なインクが漏れる。
生き残り敵を落としたのはサイラスだった。
敗戦ではないが、これが実戦ならフィオは戦死だ。とんでもない判断ミスを犯したとガレットは落ち込んだが、フィオ自身はガレットに対してまったく何とも思ってはいない。
それよりも―――
「ごめんね、クインザ。」
「最初は私を追い返そうとしていたくせにどうしたのだ?」
何時になく肩を落とすフィオに、対するクインザは上機嫌だった。
何せ最初は迷惑そうに砦から追い出しにかかっていたフィオが、いざその時が来ると項垂れ今にも泣きそうな顔をしているのだから。
礫を投げつけ真っ赤なインクだらけにさせてしまった時は、もう二度と口を聞いてくれないのではないかと思う程に怒っていたフィオが、自分との別れをこれ程悲しんでくれているのだと知り、クインザは思わず高笑いしてしまいそうになるほど浮足立っていた。
「本当はね、いて欲しいのよ。でもそれじゃクインザの為にもいけないと思う訳よ。」
「私もそうだ、本当に心からフィオネンティーナとは別れたくない。だが今回の賭けに負けたのは私自身、約束は約束だ。こうなったら何が何でも魔術師団長を説得して異動命令を勝ち取ってみせよう。」
上機嫌で拳を握るクインザにフィオは苦笑いを浮かべる。
「師団長をあんまり困らせるもんじゃないわ。」
「昨日の演習はとても楽しかった。フィオに会う為なら何でもやるが、次回は自分自身の為にここへ来たいと思っている。だから大丈夫だ。」
「クインザっ―――!」
フィオの後にくっついて離れないだけのクインザが、自分からフィオ以外の物を望んでくれるなんて―――
感動でフィオは思わず涙ぐんだ。
するとクインザもつられて涙を流し、どちらからともなくお互い腕を伸ばして抱き締めあう。
「やっぱあいつら出来てんだよな?」
「どうりでな。ガレット隊長が落ち込む訳だよ。」
「行かないでくれ~~~~!」
抱きしめ合い別れを惜しむ二人に生ぬるい視線が送られる。最後のはクインザに溺れた男の叫びだ。
その中で遠くからクインザを見送っていた砦の司令官カイルは、問題が一つ解決してどこの誰よりも上機嫌だった。
「セイがいなくて本当に助かった。」
満足そうに頷きながら己の采配に拍手を送るカイルの目に、砦の門をくぐる馬上の男が映り込む。「ん?」と思い眉間に皺を寄せ目を凝らすと、己の脳裏に浮かんでいたセイが現実に現れ、今まさに馬から降りようとしていた。
「何で奴が―――!」
戻りは明日の筈―――予定より早いじゃないかっ!
慌てるカイルを余所に、何やら面白そうな雰囲気を察したセイは此方へ早足にやってくる。いや、カイルのいるこちらではなく、抱き合う若い魔術師二人に向かってだ。
「まさかまた魔術師が配属されたのか?」
笑みを浮かべ歩み寄ってくるセイに気付いたフィオはクインザへの抱擁を辞めた。
クインザもフィオが視線を向ける先へ当然の様に振り返り、こちらへ向かって来るその人物を認めると「おや」と声を漏らしてキラキラ輝く微笑みを向けた。
「貴方は―――」
「うわぁ――――――――――――――――――――っ!!!!!!!!!!!」
微笑みを浮かべ振り返ったクインザを見た瞬間、セイは悲鳴を上げとても人間業とは思えない驚くべき速さで後退ると一本の大木に激突した。
ドンと、音を立て生い茂る緑の葉が舞い散る。
セイはまるで悪魔でも見る様な、恐怖に震える眼差しでクインザを睨みつけると、長い指を勢い良く前に突き出した。
「何で貴様がここにいるっ!!」
恐怖に慄くセイに誰もが首を傾げる。
カイルももしかして自分は判断を誤ったのかと、セイの奇行に皆と同様に首を傾げた。




