英雄、天使に遭遇する
一睡もせずに酒を浴びるほど飲んだその足でアゼルキナ砦を出発したセイは、馬上で意識を失いながらも、利口な愛馬のお陰で昼には町に到着することができた。
このまま先を急ぎたかったが、飲み過ぎで目が回っているだけでなく、吐き気と酷い頭痛でとてもじゃないが先を急げる状態ではない。どんなに急ぎたくてもこれではどうしようもないとあきらめたセイは、馴染みの宿に立ち寄った。
部屋に入るなり寝台に沈んで眠りを貪り、気付いたら翌朝になっていた。こんなことは初めてで唖然とした。
酒には強いと自負していたが上には上がいるものだ。小娘と侮った自分に隙があったのだと悩まし気に溜息を吐きながら前髪をかき上げる。
本来なら夜のうちにお姫様の待つ悪魔の城に到着するはずだった。今ごろは愛しいクリスレイアを腕に抱いていただろう。お姫様は約束通りに帰ってこない自分を恋しがって泣いているに違いない。
それもこれも自分の読みが甘かったのが全ての原因なのだが――あの可愛らしい顔をした魔術師はセイの予想を大きく越えて自分以上の大酒豪だった。
底なしで負け知らずのセイに初めての黒星を付けた相手。しかも十八の嫁入り前の娘だ。自分から仕掛けたのに敗れるなんて滑稽だ。あの時フィオネンティーナが話を持ち出さなければ最後の一杯を煽って潰れていたに違いない。
酒のせいで何よりも大切な約束を反故にしかけた。
セイは初めて酒の恐ろしさを身を持って味わった。
一刻も早く悪魔の城へ急ぎたいのに馬を走らせることができない。半日と一晩寝ても頭痛と目眩が治まらないのだ。セイが持ち込んだ酒はこんなふうに悪酔いする品ではない。あの娘が後から持ってきた酒が原因だろう。いったい何を飲ませたんだろうと、同じ酒を煽ったフィオネンティーナの様子が気になった。
これで向こうが平気でいたら化け物確定だ。
町から都に向けて街道に沿って馬を歩ませる。もう少し行ったら道を逸れて、後は目的の場所まで一直線だ。
どこか木陰で休みたいところだが、悲しそうな面持ちで待っているであろうお姫様の顔を思い浮かべると先を急がなくてはと思って無理をしてしまう。
高く昇った太陽の明るい日差しが頭の痛みを増幅させていた。忌々し気にふと顔を上げると前方に人影が見えた。
最近になって見慣れた黒い制服を着た人影は白馬に跨っている。セイはなぜ彼女がこんな場所にいるのだろうかと眉を顰めた。しかもアゼルキナ方面からではなく、都方面からやってくるのはどうしてなのか。幻覚でも見ているのだろうかと警戒して目を眇めた。
そうしてよく目を凝らすと、その人物は淡い金色の髪を風になびかせている。とても長い髪をしているが、体つきからして男のようだ。
「魔術師か。珍しいな」
魔術師は都から滅多に出ることがない。だからフィオネンティーナがアゼルキナの配属になったのには驚かされた。見つけた途端に興味が湧いて、ひと月に及ぶ演習にけりをつけることにしたのだ。
短期間に二人目の魔術師に遭遇するとは幸運なのか、そうでないのか。
観察していると向こうもこちらの身なりで騎士だと気が付いたのだろう。姿勢を正して胸を張り、すれ違い様に正面を見据えたまま頭を下げて礼をされた。
彼は穏やかな笑みをたたえていた。紫色の瞳がこちらに向いてはっとなる。セイは魔術師とすれ違った瞬間、馬を止めて思わず振り返ってしまった。
視線を感じたのか、魔術師も馬を止めてゆっくりと振り返る。
紫水晶を思わせる瞳は宝石よりも深い色を帯びていて、全てのものを吸いこんでしまうのではないかと思うほど澄みきっていた。切れ長だが細すぎない形のいい目と、高すぎず低すぎずの絶妙な鼻の高さに、赤子の如き白くきめ細かな肌。ふわりと風に梳かれて揺れる淡い金糸の髪。
なによりも目が離せなくなる、ほんの一瞬で他者を引きつけてしまう魅了の力。これは何物にも例えようがなかった。
魔術師が纏う黒の制服を纏い白馬に跨る様はまさに物語に出てくる貴公子だ。男になどまったく興味を持たないセイですら、思わず振り返って唖然と眺めてしまうほど美しい。
ほんの一瞬浮かべられた微笑み一つであらゆるものを引きつける。枯渇することなく次々に魅力が溢れて何もかもがこの魔術師に捕らわれてしまう。
彼の美貌の前には全てのものが霞んでしまうのだと理解させられた。
セイは思わずその美しい幻に手を伸ばしてしまいそうになる。しかもそう思った時には実際に手を伸ばしていて、「あっ」と思った時にはすでに遅く、馬から身を乗り出して転げ落ちる失態を犯していた。
それでも手練れの騎士。普通なら体に刻まれた身のこなしで無事に着地できただろう。けれどもセイは情けなくも馬から落ちただけでなく、受け身も取れずに尻餅をついた。
男に見惚れて落馬なんて有り得ない。セイは唖然とし、今の自分自身に恐れを抱いた。
飲み過ぎで天使の幻覚でも見たのだろうか? 頭を振ったら強烈な頭痛が押し寄せた。
あまりの痛みに頭を押さえ唸っていると、白馬が踵を返してこちらに戻ってくる。馬上の主が馬から降り、皮の手袋に包まれた手をセイに差し出した。
「ご気分が優れぬようですね、私で役に立てるでしょうか。なんなりと申し付け下さい。お手伝い致します」
膝を突いた彼の手がセイの肩に触れ、光り輝く強烈な美貌が押し寄せる。その破壊力にセイは真っ青な目を極限に見開いた。
少し低めの明らかな男性の声。
心地よく耳に届くその優しい声色に聞き惚れてしまい、何を言われたのかすら理解できなかった。
彼は幻などではない、本物の天使だ。
「俺は酔っているのか?」
「恐らくそうですね」
「これは幻だ」
「いったいどのような幻覚を目の当たりにしているのでしょうか?」
この後二人に何が起こったのかは、天使に見惚れるセイの記憶にはほんの僅かにも残らなかった。ただ天使に包まれる幸福に身を寄せ、神秘的ともいえる顔に惹かれ、夢心地の時を過ごしたのだ。




