カレリアの英雄
フィオネンティーナはへとへとでも走りこみは始まったばかり。これから昼食までかなりの時間がある。走れないなら魔術師として集中力を高める訓練をするべきだろう。なのにやる気が起こらないほど疲れていた。
「先は長い、無理は禁物だわ。午後の体術からまた参加しようかな」
「だったら俺が手取り足とり教えてあげるよ」
「ギャ――っ!!」
不意に耳元で囁かれて悪寒が走った。フィオネンティーナは耳を押さえて切り株から飛び退く。
「つれないね。俺はこんなにも君を愛おしく想っているのに」
耳元で囁いてフィオネンティーナを驚かせたその男は、手を取って口づけようとする。フィオネンティーナはその手を払いのけた。
「セイ・ラキスっ、あなたなんでこんなところにいるのよ!」
容赦なく雷を彼の体内へぶち込んでやったのは今朝のことだ。なのにこの男はたいして時間も経っていないのに、平気な顔をしてフィオネンティーナの前に現れた。
今もまだ寝台に沈んで起き上がれないのが当り前のはずなのに。いったいどうしてと、驚異的な体を持っているらしいセイの存在に驚いて目が丸くなる。
「リシェットから離れろっ!」
土埃を上げながら猛進してきたガレットがセイに拳を放つ。それを難なく避けたセイは、素早い動きでフィオネンティーナの背後に回り込んだ。
「君に出会って俺がどんなに嬉しかったと思う?」
「やだ、気持ち悪い!」
この男はいちいち耳元で囁いてくる。振り返ると、セイはフィオネンティーナの動きに合わせて常に後ろを取るので、二人してくるくる回ってしまう。
「皇帝陛下が砦の重要性をやっと理解して魔術師を寄こしたのかと思ったんだけど。君さ、あの皇女と男を取り合って飛ばされたんだって?」
「あなたに関係ないでしょ!」
そもそも男を取り合うってのは大きな間違いだ。
メリヒアンヌがクインザの顔に惚れて欲しがったので、フィオネンティーナとクインザは付き合っているということにしたのだ。
交際の事実はなく、本当は二人が姉と弟のような間柄であれ、公式発表は恋人同士。横恋慕してきたのはメリヒアンヌ皇女で、取り合ったなんて事実はどこにもない。
「否定しないってことは本当なんだ。俺悲しぃ。まぁ男がいても関係ないけどね?」
逃げても逃げても後ろを取られる。フィオネンティーナを中心にセイを追いまわしていたガレットは、埒が明かないとばかりにフィオネンティーナの正面に立つと、フィオネンティーナ越しに逞しい両腕を伸ばしてついにセイを捕らえた。
「セイ、いい加減にしないか!」
「それっ」
セイがにこやかにフィオネンティーナの背を押した。前後でガレットとセイに囲われる形になっていたフィオネンティーナは、押されてガレットの胸に飛び込んでしまう。
筋肉質な厚い胸にフィオネンティーナの体が押し付けられた。するとガレットは真っ赤になって後ろに飛び退り、支えをなくしたフィオネンティーナは前のめりになってその場に膝をつく。
「じゃあまたね、俺のフィオネンティーナ!」
セイは手を振りながら去って行った。
なにが「またね」だ馬鹿野郎と、フィオネンティーナは心の中で毒づいた。
セイには昨日の報復をするつもりだ。それなのに相手のペースに引き込まれて転がされている気がする。フィオネンティーナは土を払いながら、赤くなって硬直したままのガレットを見上げた。
「本当になんなんですか、あの人は」
硬直していたガレットは二、三度瞬きすると「ああ、すまない」と、おろおろした様子で身を屈めてフィオネンティーナを覗きこんだ。
「膝は大丈夫か?」
「隊長が謝る必要なんてありません。膝は平気です」
「痣になったら大変だ。医務室に行こう」
「怪我なんてしてませんから必要ありませんって。それよりあの人……ラキス隊長ってちょっと変じゃありませんか?」
「実戦では頼りになるのだが、私生活はいかんせん手の施しようがない。いい歳なんだから落ち着いて欲しいところだが……見ての通りだ」
何を思っているのか、ガレットははるか遠くへと視線を馳せる。きっと過去のおかしな出来事を思い出しているのだろう。
「あんなので頼りになるんですか?」
フィオネンティーナの中では隊長としてのセイ・ラキスに対して、敬うなんて気持ちなんてもてなかった。表向き繕うこともできないほどに、微塵も敬えない。
そんなフィオネンティーナに、ガレットは灰色の目を瞬かせる。
「リシェットは知らないのか?」
「何をでしょう?」
もしかして彼が皇帝の弟だということだろうか。と思いつつも、取り合えずすっとぼける。
「あいつは異国で少年兵としてやっていた頃から大陸中に名が広まるほど知られている」
「異国、ですか?」
ちょっと意外な経歴に、フィオネンティーナは首を傾げた。皇帝の弟なのに異国で少年兵? もしかして女相手に悪事を働き過ぎて追放されていたのだろうか。
「出身はアルファーンだが、幼少期から母親と大陸を回っていたらしい。十になる前に剣を持って直ぐに才覚を現した。セイが北国カレリアで兵役についていた時に、カレリアはキグナスの侵攻を受けたんだ。十五年も前のことだが知っているか?」
「現キグナス王が王位に就く前のことですよね? 初陣で敗戦したって習いました」
フィオネンティーナが三歳のころの戦いで、授業で一度しか聞いたことはない。
それでも覚えていたのは、弱小国だったカレリアが軍事国家キグナスの侵攻を阻んだだけでなく、返り討ちにして王子率いる軍を壊滅に追い込む奇跡を起こしたからだ。
周辺国がキグナスの勝利とカレリアの滅亡を予想して疑わなかっただけでなく、当時十五歳だった将来を有望視されるキグナスの王子が初戦で敗戦を喫したから。以降キグナスが好戦的なのに変わりはないものの、カレリアにだけは攻め入っていない。
「ちょっと待って下さい。大陸中に名が知られているってまさか――」
「そのまさかだ。セイは当時キグナスの王子だった現国王と一戦を交えて勝利している。手酷く打ちのめしただけでなく、無傷でカレリアに戻ったらしい」
そのおかげでカレリアは弱小国と見下されながらも国を保ち続けているともいわれているのだ。その立役者が、道化か犯罪者か知れない態度のあの男だなんて信じられない。
「でも……そんなわけないわ。だってその頃のセイは十六歳ですよね?」
「年齢は関係ないだろう? セイが十六ならキグナス王だって当時は十五だった」
「事実ならカレリアが手放すはずがありません」
いくら戦いに精通した有能な騎士だとしても、キグナス軍相手に無傷で帰ってくるなんて信じられない。しかも十六の少年。体だってできあがっていなかっただろうし、剣技が素晴らしかったとしてもそれだけでどうにかなるとも思えない。
「先の皇帝陛下が呼び戻したのでしょうか?」
「なぜ先の皇帝陛下がセイを呼び戻すんだ?」
「それは……あの人の故郷がアルファーンだから? 有能な騎士は手元に置きたいのかなって」
やはりガレットはセイの生まれを知らないようだ。うかつに口にしては危ないことになるので、必要な時以外は忘れていた方がよさそうだ。
「あいつがアゼルキナの配属になった経緯は知らない。だが現実にここにいる。セイと剣を交えたらその実力が噂に違わぬものだと身を持って知れる」
「そんなに強いんですか?」
ガレットが「強い」と肯定して頷いた。
「離れてもカレリアでは英雄だ。普段は傍若無人で困り果てるがな」
そんな人物がどうしてアゼルキナにいるのだろうか。キグナスが侵攻してきたときのためだとしたら……そう考えるとアゼルキナ砦は本当に危険な場所だといえる。そこにフィオネンティーナはいるのだ。安全なところで守られて育ったおかげでぞくっと寒気が走った。
それにしても、皇弟でもある彼が母親と大陸を回ったり、カレリアで兵役に就いたりしていたのはどうしてなのか。
セイの意外な経歴にフィオネンティーナは引っかかりを覚えた。




