傷つけられた魔術師
ちょっと遅すぎやしないかと、御者台に寝ころんでいたサイラスは暗くなり始めた空から視線を離して、ゆっくりと起き上がって森へと目をやる。すると森の中から稲光が上空へと伸びてすっと消えた。
「リシェット?」
フィオネンティーナが使った魔術だと気づいて、サイラスから血の気が引く。
「リシェット!」と声を大にして名前を呼ぶと同時に、御者台から飛び降りた。地面を蹴って森へ駆け入り、光が立ち上った方向を目指す。
フィオネンティーナの足跡を確認しながら足を速め、草を掻き分けた。するとマルムの実が山積みにされた籠が視界をかすめて立ち止まり、サイラスはひゅっと息を飲んだ。
目の前にはフィオネンティーナがいた。
彼女は地面に蹲るようにして座っていた。
顔には赤インクを拭った跡があって、全身が泥にまみれてぼろぼろになっていた。
見送ったときは明るく楽しそうだったのに、今は無表情で一点を見つめている。
周りには複数の足跡。アゼルキナ砦に在籍する騎士が支給されるブーツだとすぐに分かった。
同時に、第一隊が演習中で未だ砦に戻らないのを思い出して、まさかそんなと混乱する。若くて見目のいい娘が白い足をさらして眠っていた姿が脳裏に蘇って、否定できない考えがサイラスを混乱させた。
いくらなんでも力ずくでなんて有り得ない。けれどもしそうなのだとしたら。しかもなぜか顔には赤インク。インクを詰めた玉は敵味方に別れた訓練で使われていて、つけられた者は死亡とみなされる、戦闘不能の印だ。
恐らく彼女の足を止めるために一隊の誰かが付けたのだろうとサイラスは予想する。
どう対応するべきなのか分からないサイラスには、フィオネンティーナの胸元を隠すのが今できる精いっぱいのことだった。
自分も同じようなことをしようとしていたなんて――本気ではなく、ちょっとした悪戯心だったとしても相手をどれだけ傷つけるのか。今やっとサイラスは、自分のしでかした事態がいかに重いものであるのかを身を現実に見せつけられていた。
「未遂だから。勘違いしないで」
一瞥すらせず、フィオネンティーナはある一点だけを見つめている。感情のない彼女の声に返す言葉がみつからない。
騎士になって数年、数は少ないがこういった現場に出くわした経験がある。けれど対象者が知っている女性だなんて初めてだ。
身動きしないフィオネンティーナを抱えて戻るべきか、それとも男に触られるのが嫌だろうから何もしないでおくべきか。
混乱するサイラスの傍らでどうしたらいいのか分からないまま膝をついていたら、フィオネンティーナは自分の意思ですっと立ちあがった。
見上げると彼女は胸の前でサイラスの上着をぎゅっと握りしめている。そして見下ろすその瞳に怯えはなく、怒りに燃えていた。
「籠が重すぎて持てないの。頼んでいい?」
フィオネンティーナの言葉にサイラスは無言で頷くことしかできなかった。
言われるまま軽々と籠を抱えたサイラスは、先に歩き出したフィオネンティーナの後を慌てて追いかけた。
フィオネンティーナは御者台に上がると、膝を抱えて顔を埋めた。サイラスはそんな彼女を横目で見ながらかける言葉が見つからない。被害者への対応は完全な経験不足だ。
ただ手綱を握って暗くなった道を進む。馬が荷を引く足音と、車輪の回る音。その二つがいやに大きく耳に響いた。
そのうちに、フィオネンティーナがぐすんと鼻を啜った。サイラスは声をかけようとして、やっぱりできなくて口を噤む。
かける言葉が見つからない。
まさかこんな事態になるなんてと心を痛めるサイラスだったが、隣で膝を抱えているフィオネンティーナ自身は、彼が思うほどに打ちのめされてはいなかった。
男ばかりのアゼルキナ砦、あるていどの覚悟はしていた。未遂で終わったのは、セイが本気ではなかったからだ。そう理解した時点で、セイに襲われたこと自体は大したことではなくなっていた。
それよりも何よりも、フィオネンティーナの気分をどん底に沈めたのはぐちゃぐちゃに汚れた我が身だ。
ようやく今日という日を迎えたのに。久し振りの風呂を堪能してご機嫌だったのに。なのに髪が完全に乾く前に、フィオネンティーナは泥だらけにされてしまったのだ。
マルムの実を収穫していた時は楽園にいるような気持ちだったのに、あの男と遭遇した瞬間、フィオネンティーナは地獄に落とされた。
泥だらけの我が身を嘆き、涙がにじむ。
砦の男たちはいつも温泉に浸かって身綺麗でいられるのに対して、女である自分は汗臭く薄汚れたままだ。不公平に感じても仕方がないと諦めていた。
そん中でようやく温泉に浸かって至福の時を過ごすことが叶ったのに。あっという間に泥だらけ。そして最悪なことに、顔には赤いインクが付いている。汚れはいつまで経っても、まるで呪いの様にフィオネンティーナに付き纏った。
これってまさか……メリヒアンヌ皇女の呪いじゃないよな? と、フィオネンティーナは鼻をすんと鳴らして、抱え込んだ膝に額をすり寄せた。




