襲われる
閲覧注意:R15程度の表現があります。
購入すればフィオネンティーナの半年分の給料が吹っ飛んでしまうマルム酒。
芳醇な香りと口の中に広がる軽やかな甘み。作られた年によって含まれる苦みや辛みが異なるので、飲み比べる贅沢には憧れしかない。都では貴重で高価なお酒。
その材料となるマルムの実が宝の山となってフィオネンティーナの前にぶら下がっていた。
狂喜乱舞とはこのことやもしれない。
実が発酵して琥珀色の美酒に変わる日を想像するだけで笑いが込み上げてくるではないか。
「ああやばい、嬉しい。今日はなんて幸運な日なの!」
薄桃色に熟した身を噛りながら、酒作りに使える熟す前の白く硬い実を摘み取って籠に入れていく。どんどん森の奥へ進みながら重さを増す籠に笑いが止まらない。
あまりの重みに籠を地面に置いて次々に収穫していく。籠はすっかり山積みだ。さすがに一人で運ぶのは無理なので、サイラスに手伝ってもらおう。
「よし、こんなものかな?」と腰に手をやって一息ついたその時、突然フィオネンティーナの腕が引っ張られる。
「ぎゃっ!」
痛みに悲鳴が漏れた。大声を出そうとしたけれど、後ろから拘束されて、土臭くて硬い手で口を塞がれてしまう。
「可愛らしい声がすると思ったらやっぱり女の子だ。しかも結構好み」
「うーっ!」
「こらこら、無駄な抵抗はしない」
耳元で囁かれる男の声に冷や汗が伝った。
久し振りに湯に浸かって綺麗さっぱり汚れを落としきったばかりなのだ。汚い手で触るなと言いたかったが、流石にこのままではやばい。
フィオネンティーナの右腕は後ろに捻られていたが、その指先に意識を集中して攻撃を試みる。しかしなんと、男がフィオネンティーナの耳を甘噛みした。ゾクッと全身に悪寒が走り、そのせいで集中が途切れてしまう。
「いい匂いだね、お風呂上がり?」
男の息が耳にかかって全身の毛が逆立つ。やばい、本当にやばいぞと、自由になる左の手のひらに意識を切り替えた。
利き腕ではないので術の威力が落ちてしまうが、手のひらには小さな雷が生まれる。
生まれた雷を後ろに向かって放り投げようとした瞬間、フィオネンティーナの世界がぐるりと回って背中から地面に叩き付けられた。
雷は暴漢ではなく、明後日の方向へと放たれる。標的を失った雷は上昇し、稲妻となって発光して消えた。両手は一つに束ねられて頭上で固定されてしまう。
フィオネンティーナが使える魔術は指先、もしくは手のひらから繰り出される。これでは指も手のひらも、フィオネンティーナを拘束する男に向けられない状態だ。
「可愛い顔して随分と物騒なもの出してくれるね?」
真っ青な瞳が見下ろしていた。
フィオネンティーナを拘束した男は整った顔立ちをしている。年の頃は三十前後だろうか。こいつは何をしてくれるんだと、フィオネンティーナは青い瞳をきっと睨みつけた。
洗髪したばかりなのに地面に倒されて、髪は悲惨な状態になっているだろう。着替えたばかりの制服も泥だらけに違いない。いやいや、それよりもこの状況をなんとかしなくては。
「近くに仲間がいるから!」
恐怖よりも怒りが勝った。
黒い瞳で射殺さんばかりに睨みつけ、自由になった口で声を張り上げる。
サイラスに気づいて欲しかったけれど、道からずいぶん外れてしまっているので無理だろう。
「仲間? それは奇遇だなぁ。俺も近くに仲間がいるんだ。まぁこっちは追われてるんだけどね」
男は楽しそうに笑うと、空いた手でフィオネンティーナの制服のボタンを外しにかかる。
「ちょっ、何するのよっ!」
「いいことに決まってるでしょ?」
「この状況で解るよね?」と、首筋を舐め上げられたフィオネンティーナは「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
男はフィオネンティーナの両足の間に入り込んでいるので急所を攻撃することができない。腕は拘束されて、魔術を放っても攻撃目標である男に命中させるのは困難だ。そもそも男の唇が肌を伝い、瞬く間に衣服を暴かれていくので、混乱のあまり意識を集中する間がない。
この男、魔術師を知っている。そうでなければ攻撃型の魔術師にこれほど接近する勇気はないだろう。
フィオネンティーナのような攻撃型の魔術師は接近戦に弱い。意識を集中させるのにも時間がかかるのだ。それでも一度術を行使すれば、魔術師という未知の存在に恐れをなす。身の安全のためにも距離を取るのが普通だ。
なのに目の前の男は、フィオネンティーナが魔術師と気付いているのに、恐れや警戒するそぶりがまったくなかった。過去に一戦交えたに違いない。無駄な抵抗と分かっていても、フィオネンティーナは手のひらに大きな光を出現させる。
「へぇ、凄いね。でも自爆するほどの問題?」
「いやっ!」
男の手が下着の中に滑り込んできた。砂のついた手がざらっとする。その手で素肌に触られたせいで集中が途切れて、せっかく作り上げた光が消失してしまう。
もう最悪だ。男だらけのアゼルキナという特殊な場所に入るのだから、いつかはこんな目に遭うかもしれないと予想していた。覚悟もしていた。対策も色々考えて三年間やり遂げるつもりだった。
クインザを欲しがったメリヒアンヌ皇女に思い知らせるために、恋人のふりをして口づけまでかましたのに。父親の溺愛を利用してアゼルキナ行きを勅命として言いつけられたけれど、クインザを守れたことに満足していた。
あんな女には絶対に負けない。強い覚悟でここにいるのだ。
それなのに……温室育ちの魔術師が覚悟を持ってやってきたのになんてことだ。せっかく磨き上げた、綺麗にしたばかりの髪はぐちゃぐちゃで、土で汚れて埃だらけの男に洗いたての素肌まで汚されてしまった。
町まで半日。次は一週間後。
あまりにも悲しくて腹が立ってたまらない。
もういいよね、何をしてもとの考えにフィオネンティーナは支配される。
大怪我は免れないだろう。それでもこんな男のいいなりになるくらいなら、男を巻き込んで自爆した方がましだ。
よし、自分の手を犠牲にしてもこの男に傷をつけてやる。諸共に吹っ飛んでもいい。
そんな思いで組み敷く男を睨み付けると、男の土に汚れた濃い金髪が目にとまった。
男は乾いた土にまみれていた。そして鍛え上げられた体を包む服に、フィオネンティーナは見覚えがある。
司令官室でガレットを紹介された時、彼が着ていた戦闘用の服だ。
演習の山篭りから戻ったガレットは、土埃にまみれてこの服を身に纏っていた。
この男と同じ服、同じ状態のガレットが頭を過ぎる。
「あなたっ、アゼルキナの!? 任務中に何やってんのよっ!!」
「だってさぁ、なかなか終わんないから飽きちゃって。欲求不満なところにちょうど君が現れたから俺だけのせいじゃないよ?」
「なに人のせいにしてるの!? って、ちょっとやめっなさい!」
男が何者か予想がついたフィオネンティーナは声を張り上げた。
「あなた一番隊の隊長でしょ!?」
「あたりぃ〜。よく分かったね。どうしてかな?」
男の動きが止まってフィオネンティーナを見下ろす。男の口角は楽しそうに上を向いていた。
「なぜかって、あなたがエロいからよ!」
第一隊の隊長、セイ・ラキス。
十代の頃から砦に在籍していて、今年で三十一歳になる。女に手が早いのが特徴の扱い難い男だ。
「任務中に堂々と女を襲う非常識人なんて、あなたくらいのものでしょ!」
怒鳴りつけたらセイはくすりと笑って、フィオネンティーナの胸元に顔を埋めた。
「ちょっとっ、止めなさい! これは犯罪よっ。やめてって言ってるでしょっ!」
「大丈夫。ちゃんと気持ち良くしてあげるからさ」
身元が知れているというのにやめる気がないらしく、素肌に吐息を感じてしまう。
まさか本気なのかっ!?
アゼルキナの住人だからって、これはいくらなんでもないだろう。やばい状況にフィオネンティーナは目を見開いた。
「止めないとあなたの秘密、砦のみんなに言いふらしてやるからっ! このくそやろー!」
悪態とともに叫ぶと、セイの動きがぴたりと止まる。
「なにを?」
「あなたがこうてーー」
フィオネンティーナがすべてを口にする前に。セイがフィオネンティーナから飛び退くと共に、びしゃり……と音が鳴って、フィオネンティーナの顔面に液体が降りかかった。
「え……?」
ぬめっとしたものが顔を伝うと、間髪入れずに二つの影が、悪態を吐きながらフィオネンティーナの真上を通り過ぎた。
「馬鹿野郎、突っ込むまで待てって言っただろ!」
「動きは読まれてたんだ、突っ込んだ後でも逃げられるに決まってんだよ!」
二人はそう叫ぶように言い合いながら、フィオネンティーナを飛び越えて木々を縫って姿を消す。どうやらセイを追いかけているようだと、フィオネンティーナは唖然としながら顔を拭った。するとどろりとした真っ赤な液体が手に付着する。
「え、何これ?」
赤いけれど血ではない。印に使われるような赤いインクだ。
「え、なに? は?」
フィオネンティーナが唖然としていると、「リシェット!」と呼ぶ声が耳に届いた。声の主はがさがさと高い草を掻き分けて飛び出してくる。
「リシェット、どこにいるっ!」
飛び出してきたのはサイラスだ。彼はフィオネンティーナの姿に驚いて動きを止めた後、悲痛な表情を浮かべた。
「リシェット、お前……」
暫く立ちつくしていたサイラスは、濃紺の上着を脱いでフィオネンティーナの胸を隠すように、前からそっと肩にかける。
「言っとくけど未遂だから」
サイラスの痛ましいものに向けた視線を受けて、フィオネンティーナは悔しさに奥歯を噛みしめた。
何だあれは。あれで隊長としてやっていけているのか!?
いや、それよりもあいつら……と、怒りに震える。
襲われていたフィオネンティーナを飛び越えた二つの影が、脳裏に焼き付いて離れない。自分を襲ったセイよりも、あの二人にはさらに強い怒りを覚える。
あの二人はフィオネンティーナが襲われているのを目撃していたにも関わらず、自分の利益のために静観していたのだ。
これはアゼルキナ云々ではなく、騎士としてのあり方、人としての矜持に関わることではないだろうか。
恐らく、いや絶対にセイは見られているのに気付いていた。顔にかけられた赤いインクはセイに放たれたものだろう。それをセイは見事に避けて逃げた。フィオネンティーナを飛び越えた男が「動きは読まれてた」と言ったのだ。間違いない。
彼らは演習中で、敵味方に分かれて訓練していたのだろう。二人は勝ちたいがために、組み敷かれて襲われる女を見捨てたのだ。
動きを読まれていると分かっているなら、なんでもっと早く出てこなかったんだ。「馬鹿野郎!」と心で叫んで拳を握り締める。
もっと早くに出てきてくれたなら、フィオネンティーナはこんな状況にまで落とされなかった筈だ。
たとえ本気でなかったとしても、これはちょっとやり過ぎではないか。
フィオネンティーナは泥だらけになった我が身を唖然と見下ろす。
せっかく……せっかく久し振りに湯に浸かって磨きに磨いてご機嫌だったのに!
フィオネンティーナはかつて感じたことがないほどの怒りでどうにかなりそうだった。




