エピソード3
梅雨もすっかり明け、夏の声が聞こえだした時季。
「ねえ先生、一緒にサッカーしようぜ!」
数人の男子生徒にそう誘われ、楽しそうに生徒たちとグラウンドへ向かう由比。
グラウンドを走り回る由比を、嬉しそうに教室の窓から眺める美空。
あの日を境に劇的に変わったクラス環境。
「よ~し、この問題できたら先生の給食のデザートあげるぞ~っ!」
算数の授業中、問題を黒板に書いた由比がそう言うと「はいっ! は~いっ」と元気な声と共に一斉に上がる生徒たちの手。
「おっ! 好野、早かったな。答えは?」
「えっと…へへっ、みんなが手を上げたから、つられて上げちゃった。へへへっ」
恥ずかしそうに照れ笑いをして、可愛らしく舌を出して見せる美空。クラス中に広がる笑い声。
頬を真っ赤に染めながらも、楽しそうに授業を受けるクラスメイトたちを見て、嬉しそうに微笑む美空。
みんな楽しそうで、いつも笑顔の溢れる教室内、その笑顔の中心にいるのは、一際眩しい笑顔を見せる美空でした。
「いつも、すみません…」
放課後、保健室、ベッドに腰掛け、数粒の錠剤を水で喉の奥へ流し込んだ由比が、申し訳なさそうに保健の先生に頭を下げます。
「いいの、いいの。私には栄養剤出してあげるくらいしかできないしね」
そう言って由比の手からコップを取り、シンクに置いた保健の先生は、机の椅子に腰を下ろしました。
「で、どうなの? 少しは休めるようになった? 職員室の話題、静岡先生の話題で持ち切りよ? あのクラスをどうにかしちゃった敏腕教師だって。落ち着いて、チョットは余裕できたんでしょ?」
「いえ、その、まあ…でも結局、僕は何もできなかったんですよ…全部あの子のおかげで…」
「あの子って…美空ちゃんのことでしょ? いい子よね、あの子。そろそろ来るんじゃない? ほらっ」
ドタバタと廊下を走る音、勢いよく保健室のドアが開き、現れた美空。
「先生っ!! 大丈夫ですか?」
息を切らして瞳を潤ませ、心配そうに由比を見つめそう言った美空に「大丈夫だよ」と優しく返してあげる由比。
「ホント? よかった…また倒れちゃったのかと思って…へへへっ」
元気そうな由比を見て胸を撫で下ろした美空は、無邪気に笑って見せます。
「ありがとう、好野。気をつけて帰るんだよ?」
「うんっ! あっ、課題のプリント、職員室の机の上に置いておいたよ。それじゃ、さようなら先生! あと保健の先生もねっ」
「私はついでかい? ま、いっけどね。じゃあね美空ちゃん」
「うん。へへっ」
閉まる保健室のドア、帰っていく美空。
「ふふっ、すっかりなつかれちゃったみたいね…もし、あのクラスが変わったのが、あの子のおかげだとしても、その美空ちゃんを変えたのは、あなたでしょ? 自分にもっと自信もってもいいと思うけど? まあ、何かあったらいつでも相談に乗るね。私の方が幾らか人生の先輩だし…ん? 私の顔に何かついてる?」
「いえ、その、先生が僕の恩人によく似ていて…僕、その女性のおかげで教師になれたんです」
「ふう~ん…じゃあ、その人も私みたいに美人なワケだね」
「はい。綺麗な人でした」
「まったく、そういうことはもう少し躊躇して言いなさい。もうっ、私が若かったらほっとかないんだけど…そんなことしたら美空ちゃんに睨まれそうだけどね。ふふっ、まあ、ちょくちょく顔出しなさい。栄養剤くらいなら、いくらでも出してあげるから、ねっ」
「はい、ありがとうございます。それじゃ、僕、まだ仕事が残ってるので失礼します」
そう言って立ち上がり、保健の先生に軽く頭を下げた由比は、保健室を後にします。
職員室に入って自分の机に戻り、机の上に置かれた美空の算数の課題プリントに赤ペンで○×をつけていた由比。
『あれ? こんななんでもないとこで間違えてる…僕の教え方が悪いんだろうか…個人的に補修とかやってあげられれば、いいんだけど…』
そんなことを考え、頭を抱えていた由比の傍らに、二十代半ばから後半くらい、いつも由比の噂話で盛り上がっていた女教師二人がやってきます。
「静岡せんっせい」
「はい? えっと、何か御用ですか?」
呼び声に振り返り、そう返事を返す由比。
「あのね、今週の土曜の夜に、静岡先生の新任の歓迎会やろっかって話になって…どう…かな?」
「その…いいんですか? 僕なんかのために…」
「もちろんっ! ごめんなさい。ホントは入ってすぐの頃にやれればよかったんだけど…あのね、ここだけの話、ホラ、新任であのクラスの担任でしょ? あのクラスの担任になった先生って、今までみんなスグにやめちゃってたから、どうせスグいなくなる先生の歓迎会やってもねえって…でも、今や静岡先生は、この学校のヒーローだから」
「そうそう。それに、あの教頭先生相手に、あんなことできちゃうんだもの…あっ、ウワサをすればハゲ、いや、影ってやつ?」
馬鹿笑いをする女教師二人と、笑えずに少々顔を引きつらせている由比。何やら息巻いて職員室へと入ってきた教頭先生が、一直線に由比の元へとやってきます。
「女と無駄話とは、いい身分になったもんだな、若造」
なんだか不敵な笑みを浮かべ、嫌味ったらしくそう言った教頭先生。
「いえっ、別に、そういうワケじゃ…」
「ふん、まあいい。それより貴様、今年の春までの約十年間、精神科に通い続けていたそうだな?」
「なっ!? 何でそのことを知って…」
驚き、立ち上がる由比。
「くくっ、本当の話しのようだな。私の知人に、お前の通っていた大学の講師がいてな」
してやったりといった顔で、ニヤリと笑う教頭先生へ向け、チラリと軽蔑の眼差しを送り「信じらんない」「陰険~」とボソリ呟いた女教師二人を、キッと睨みつける教頭先生。
「さてどうだろう? 精神的に不安のある奴が、教師などやっていていいものなのかな? このことを教育委員会に話せば、どうなるかな~…くくくくっ」
「それは…確かに精神科に通っていたことは認めます。でも今はもう大丈夫で、教師になってからは一度も…」
「今は大丈夫? じゃあ今後どうなるかは分からないワケだ。なんといっても心の問題、しかも、お前には情緒不安定なところも見受けられるようだし? くくくっ…そんなものが大事な生徒の前に立ち、教職を行っているという事実を上に立つ者として、いや、イチ教職者として見過ごすワケにはいかないな~」
そう言い終え、勝ち誇ったようなイヤラシイ笑みを浮かべる教頭先生。由比は、言われたことが事実であり、否定も、言い返すこともできず、教頭先生に向けてしまいそうになる怒りを必死に抑え、うつむき、拳を握り、奥歯を噛み締めます。
そんな時、颯爽と現れた保健の先生が、由比と教頭先生の間に割って入り、教頭先生の首根っこをつかみ上げます。
「何をする! 貴様はっ」
「黙って聞いてりゃ、このハゲ! アンタのどこが教職者よ! まったく笑わせんじゃないよ!!」
掴んだ手で教頭先生を自分の方へ引きつけ、額同士が合わさるほど顔を近づけて睨みつけ、かなり気合の入った口調でそう言った保健の先生。教頭先生は、オロオロとたじろいでいます。
「き、貴様、私にこんなことをして、ただで済むと思ってい、い、いるのか!」
「ほ~う、どうただで済まないって?」
教頭先生の首根っこを細身からは想像もできないスゴイ腕力で掴み上げる保健の先生。
教頭先生の体が少し浮き上がり、「ひぃぃぃ~…」という情けない声が漏れます。
「わたしは別に、ここやめたって病院戻ればだし? ただ、やめる時はアンタをきっちりシメてからだけど、それでもいいなら? あっ、そうだ。ロクに仕事もしないで、気にくわない教師の粗探しして喜んでるような奴が教頭なんてやってていいのか教育委員会ってとこに聞いてみようか? このハゲ、叩けばまだまだホコリが出そうだし面白いかもねえ」
目は鋭いまま口元に不敵な笑みを浮かべた保健の先生は、教頭先生を自分の方へグイッと引き寄せ、パッと手を放します。
ヘナヘナとその場に崩れ、尻餅をついた教頭先生を仁王立ちで見下し「なんか文句あんのかハゲ!!」と低音の利いた啖呵を切った保健の先生。
「ひぃぃ…いえっ、いやっ、ぬぅ…く、くそっ! お、おぼえてろよ!!」
尻餅をついたまま後ずさり、ヨロヨロと立ち上がった教頭先生は、そんな捨て台詞を残し、よろけながら逃げるように職員室を後にします。
保健の先生に集まる呆気にとられた職員室中の視線。「カッコいい…」と呟き、瞳を輝かせ、保健の先生を見つめる女教師二人。暗く視線を落とし、崩れるように椅子に腰を下ろす由比…。
「ふふっ、ごめんなさい。ご迷惑おかけしました~」
さっきまでの気合の入った姿からは一変、腰の低い笑顔で周りにペコペコと頭を下げながらそう言った保健の先生。
一瞬の沈黙の後、どことなく始まった拍手が職員室中に広がり、拍手喝采の大盛り上がり。教師たちが、保健の先生の周りに集まってきます。
「いや~、ホントごめんなさいね~」
照れ笑いで頭をかく保健の先生。
「保健の先生って、もしかして元ヤン…ですか?」
少々遠慮しがちに尋ねる女教師。
「えっと…まあ、バイクにまたがってヤンチャしてた時期もあったりでね…」
恥ずかしそうにそう答えた保健の先生。「きゃ~、レディースよ、レディースっ」なんて言いながらキャッキャと盛り上がる女教師二人。私も若い頃は…なんて話が始まり、全然関係ないところで盛り上がり出した教師たち。
「ほら、これ、頼まれてた生理痛の薬。多分、これで大丈夫だと思うけど、合わなかったらまた違うの探してあげるね」
そう言って女教師に錠剤を手渡す保健の先生。
「ありがとうございます!」
妙に大喜びで保健の先生に羨望の眼差しを向ける女教師。
「それじゃ、私はこれで…」
女教師二人を始め、教師たちの今までと明らかに違う好感な態度が、あまりにも気恥ずかしくて、そそくさとその場を去っていく保健の先生。
入り口のドアノブに手を掛けた保健の先生は、振り返り、視線を向けた先の暗く沈む由比の姿を心配そうに見つめ、小さく溜息をつきました。
土曜日、学校近くの居酒屋で行われた由比の歓迎会。
ワリと年齢の若い教師を中心に二十名ほどが集まり、お酒が入りだすと普段は言えない愚痴がみんなの口からこぼれ出し、いつの間にか歓迎会というよりも、愚痴大会のようなものになってしまいます。
愚痴もいいツマミになり、みんなのお酒も進み、あまりお酒が得意な方ではない由比も勧められるままに随分と飲まされたようで、お開きになる頃には赤い顔を通り越して真っ青な顔になり、足元もおぼつかない状態になってしまい…。
「静岡先生~、二次会どうしますぅ?」
「すみません…パスさせてもらってもいいですか?」
真っ赤な顔で陽気に尋ねた女教師に、何とか搾り出したようなか細い声で返した由比。
「私も帰りますね。静岡先生、心配だし」
そう言って由比の傍に歩み寄る保健の先生。
「あ…いえ…僕は大丈夫ですから…」
「いいの、無理しない。ほら、帰りましょ?」
「え…その…はい」
保健の先生に軽く背中を押され、千鳥足で歩き出す由比。そんな由比をいざという時支えられるよう傍らに寄り添って歩く保健の先生。
居酒屋の入り口前、それほど車通りの無い沿道の歩道、本日の主役と保健の先生が帰ってしまうことを残念がりながらも、二次会の話題で盛り上がる教師たちを尻目に、ゆっくりと足を進める由比。
「本当にすみません。僕なんかの為に…」
「ああ、いいのいいの。私、ああいう場所って苦手なのよ。ほら、保健の先生って学校にいるけど教師じゃないわけでしょ? だから、ああいう集まりって呼ばれたことないのよ。今回は無理に誘われちゃったから断れなくってたまたま来ただけでね。抜け出す口実が出来て助かっちゃった」
「はは…そう…ですか。それならよかっ…うっっ!!」
急に走り出した由比が、近くの茂みに顔をうずめます。
「大丈夫? ほら、全部吐いちゃえば楽になるわよ?」
そう言い、力強く由比の背中をさする保健の先生。
「うえっ…はぁ…はぁ…ふぅ~…すみません、ありがとうございます…」
あらかた胃の中のものを出し終え、下げていた頭を上げた由比は、げっそりとした顔でお礼を言います。
「チョットは楽になった? そこに公園があるから、少し休んでこっか?」
保健の先生に導かれるまま公園に入り、ベンチに腰を下ろした由比。
「これ飲んでて。私、水買ってくるから」
渡されたビンに入った液状の胃薬を一気に飲み干し、その苦さに渋い顔を見せた由比は、戻ってきた保健の先生に手渡された水をがぶ飲みします。
「ふぅ~~~…何から何まで、ありがとうございます…おかげで大分楽に…そう言えば、あの時、職員室でも助けてもらったのにお礼も言えなくて…」
「ああ、あの時の。いいのよ別に。なんか頭にきちゃって私が好きでやったことだし。まあ、これで、あのハゲもしばらくはおとなしくしてるんじゃない? …どうしたの? なんか浮かない顔してるけど」
「その…あの時、僕、思ったんです。教頭先生の言ってることって間違っていないんじゃないかって…僕なんかが教師になんてなっちゃいけないんじゃないかって、教師になろうって決めた時からずっとそんな葛藤があって…けど最近はなんだかんだ必死だったから、そういうこと考えちゃうこともなかったんです。でも、教頭先生にああ言われて、ふと思ったんです。僕は教師をやめるべきなんだろうって。教師になることが僕の夢で、その為だけに今まで頑張ってきて、そして、その夢が叶って…絶対に辞めたくなんかない。けど、そう思うことって、僕の、ただの我が儘で…僕はこの先どうしたらいいんでしょうか? こんなこと突然言われても困りますよね? だけどもう自分ではどうしていいか分からなくて…」
悲しいのか、悔しいのか、瞳に薄っすらと涙を浮かべ、うつむき、膝で拳を固く握り締める由比。
「静岡先生…きっと話したくない過去なんだと思うけれど、聞かせてくれないかな? 精神科は専門外だけど、私、これでも医者の端くれだから…お願い」
「………僕、小学生の頃、イジメに遭っていたんです。その時、先生は見て見ぬフリ、誰も助けてはくれなくて、両親がそのことに気づいてくれたのは、僕が自殺をした後でした。病院のベッドで目が覚めた僕は、両親を含め、すべての人という人が怖くて、一切誰も信じられなくなり…絶対的な人間不信…僕は、精神的な病に侵されてしまったんです。それから数ヶ月、一人きり、部屋に閉じこもる生活が続く中で、僕は考えたんです。誰も助けてくれないのなら自分で自分を助けるしかない。自分が誰かを助けられる人になれれば…自分のような子供を一人でも救ってあげられたら、そして二度とそんな子供が生まれないよう僕が…教師になりたい。そんな自分自身の夢が僕を助けてくれました。その後、精神科を尋ねた僕は、精神科医の女性にカウンセリングを受けるようになって今に至ります」
「そっか…そんなことが…私は精神科医じゃないから気休めみたいになっちゃうかもしれないけど、断言できるよ。静岡先生が教師をやめる必要なんて絶対ない! 確かに、精神的な病って完治しない。気持ちの持ちようで、いつ再発してもおかしくないものだけど、でも静岡先生なら絶対に大丈夫だよ。根拠は無いけど、私は絶対にそうだって思える。静岡先生、こんなにがんばってるんだもの、誰だってそう思うに決まってるよ。それにね、静岡先生より先生らしい先生、私はまだ見たこと無いよ。静岡先生がやめるなんてことになったら、日本中の教師がやめなきゃぐらいのもんなんだからっ! だから自信もって教師続けなさい。これからは静岡先生に危害を加えそうな輩は、教頭だろうが、校長だろうが、文部科学大臣だろうが、私がギッタギタにしちゃうから安心して、ねっ?」
「…僕、教師を続けてもいいんですよね? あの子たちの担任、続けてもいいんですよね?」
「いいに決まってるじゃない」
由比の問いに、そう返して優しく微笑みかける保健の先生。
その答えを聞いた由比は、瞳にいっぱいの涙を溜めたまま、本当に嬉しそうに、まるで子供のように無邪気な笑顔を見せました。
そんな由比を見つめる保健の先生。つい視線が重なってしまい、恥ずかしそうにソッポを向いた保健の先生は、頬を薄っすらと桜色に染め、ドキドキと高鳴る胸を右手でギュッと押さえつけます。
「すみません…なんか僕、助けられてばかりで…僕も何か力になれればいいんですけど、僕みたいな情けない奴じゃ…」
「え? いいのいいのっ! 私が好きでやってるだけだから…好き…で…」
頬を真っ赤にして恥ずかしそうにうつむく保健の先生。
「あの…えっとね、お酒が入ってるせいかな~…これから言うことは酔っ払いの戯言だと思って、かる~く聞き流してやってね? その、始めは静岡先生のこと、なんかほっとけない弟みたいな感じに思ってて…でもね、いつの間にか、いつも一生懸命がんばってる姿に惹かれだして、気がついたらね、好きになってた…はははっ、いや、その、聞かなかったことにしてっ。やっぱり酔ってるんだわ。冗談、冗談っ! こんな年上のオバサンに好かれたって迷惑だろうしねっ」
つい口に出してしまった正直な気持ちを、大げさな身振り手振りで否定して見せる保健の先生を、真剣な眼差しで見つめる由比。
「僕も好きですよ、先生のこと。僕なんかじゃ不釣合い過ぎるほど美人で、優しくて、よく気がつくヒトで、きっと先生みたいな女性と結婚なんかできたら、絶対幸せになれるんだろうなって思います」
「ちょ、ちょっと、私はそんな…それに結婚って…」
「僕は本気でそう思っています。こんな僕のこと好きだって言ってくれる先生の気持ちが、本当に嬉しくて…でも……人間不信だった僕が、人を好きだと思えるようになったのは、つい最近のことなんです。初めて好きだと思えたのは精神科医の先生、それから僕のクラスの生徒たち、そして先生のこと…だけど、恋をしたこと…心の底から人を愛したことは、一度も無くて…まだ心のどこかに人を信じられない自分がいて怖いんです。もし裏切られたら…考えるだけでガクガクと足が震えて、目の前が真っ暗になって…だから…すみません……」
「な…何謝ってるのよ。静岡先生が謝ることじゃないでしょ? 別に気にしないでね。仕方ないことだもんね…好きだって言ってくれてるんだもん、それでよしとしとくからさっ。大丈夫、私、打たれ強い方だから…」
そう言うと立ち上がって、由比に背を向けたまま、数歩足を進めて立ち止まった保健の先生…顔を出そうとする駄々っ子な自分を必死に抑えつけ、高ぶる感情を押し殺してプルプルと拳を振るわせ…でも…。
「ごめん、やっぱり、そんなに簡単にあきらめられないよ…待ってちゃダメなの? 私は、絶対に裏切ったりしないよ! だから…」
振り返り、今にも溢れ出しそうな涙を瞳に浮かべ、そう言った保健の先生。由比に伝わる自分へと向けられた一生懸命過ぎる保健の先生の想い…由比は、その想いに明確な答えが出せずに、悩み、浮かばない考えを巡らせます。
しばらくの沈黙…見つからない答えを自分自身の保健の先生に対する正直な気持ちから見出そうと、保健の先生の瞳を見つめる由比。
ハッとした表情で無意識にゆっくりと立ち上がり、足を一歩一歩前に進める由比…保健の先生の姿にふと重なった無邪気に笑って見せる美空…高揚し、高鳴る胸…この時、由比は気づいたんです。美空に寄せる想いが、好きよりも強いことに…。
「すみません…僕は……ずっと一人だと思っていたんです。ずっと一人きりで、何もかも抱え込んで、どんなに辛くても自分の力でなんとかするしかないんだって…でも、あの子が初めて教えてくれたんです。一人じゃないことの喜びを…本当に嬉しくて、あの子のことを考えると、あの眩しいくらいの笑顔を思い浮かべると、胸が高鳴るんです。あの子に惹かれている自分に気づくんです。多分、僕は、あの子のこと特別に思っているんだと思います。だから…すみません…僕は、先生の想いには応えられない…です」
保健の先生の目の前で足を止めた由比は、涙で濡れるその瞳を、申し訳ないような、悲しいような、寂しいような、何とも言いようの無い複雑な表情で見つめ、そう言いました。
「あの子って美空ちゃん…でしょ? なによ…バカ…私、小学生よりも下なワケ? 信じらんない…もう、バカ…」
なんだか力なく呟いた保健の先生は、頭をトンと、由比の胸に持たれます。
「僕にも、分からないんです…あの子に対する想いが、愛なのか、恋なのか、異性に対するそれなのかも…今は、まだ、そのどれでもないのかもしれないけど…でも、僕にとってあの子は、誰よりも特別な存在で…だから、その…別に先生とあの子を天秤に掛けてとか、そういうのじゃなくて、それに、その、僕には誰のことより一番に考えなきゃいけない生徒たちがいますし、僕自身、教師としてまだまだ半人前で、やらなきゃいけないことは山ほどあって、自分自身のことでいっぱいいっぱいだったりで、だから…すみません…」
「ヘタクソ…いいよ、気なんか使わなくても私は大丈夫だってば」
「すみません…」
「まったく…謝んないでよ…なんか惨めになるじゃない…」
由比には見えない位置で歪む保健の先生の表情。零れ落ちる涙…肩を震わせ、由比のお腹の辺りの服にギュッと両手でしがみついた保健の先生は、その手をパッと放し、由比の体を軽く押して自分の体を由比から離すと、ゴシゴシと涙を拭いながら数歩距離を取り、振り返り様、笑顔を作って見せます。
「まあ、しょうがないっか。いい子だもんね、美空ちゃん…でも気をつけなさい。手を出したら犯罪になっちゃうんだからね。ふふっ」
「先生、すいま…ありがとうございます! 僕なんかを好きになってくれて」
「バカっ、お礼なんか言われる筋合いないわよ、まったく…じゃあまた来週、学校でねっ」
由比に背を向け、歩き出す保健の先生。
「ホント、バカなんだから…」
そう小声で呟いた保健の先生の瞳からは涙が溢れ出しポロポロとこぼれ出して…。
『ふふっ、ダメね…三十過ぎると、打たれ弱くなっちゃって…』
肩を落とし、力なく歩き去っていく保健の先生の悲しげな背中を、由比はただ立ち尽くし、見送ることしかできなかったんです。
数週間後、夏休を明日に控え、始業式の時がまるで嘘のように由比が自分のクラスの生徒たちを誇らしげに見守る中、何事も無く終業式が終わります。
教壇に立ち、去り際に「先生、またね~」とか「バイバ~イ」なんて元気な声を残していく生徒一人一人に返事を返していた由比。
生徒がみんないなくなり、静まり返り、なんだか寂しさを漂わせる教室の中、なぜか美空だけが席に着いたまま寂しそうな顔でうつむき、その場を動こうとしません。
「好…野? どうした?」
そう由比が尋ねますが、美空からの返答はありません。
「好野? どっか具合でも悪いのかい?」
美空に歩み寄り、傍らに立ってもう一度尋ねた由比。美空は、大きく首を横に振り由比の左袖の裾を掴み、キュッと引きます。
「先生…私、帰りたくない…な。だって、先生に会えなくなっちゃうもん…」
そう言って掴んでいる由比の袖をグイッと自分に引き寄せる美空。
「好野…そっか…」
そんな美空が愛おしくて、寄り添い、そっと頭を撫でる由比。
「大丈夫。先生、夏休み中も色々やらなきゃいけないことがあって、いつも通り学校にいるから」
「ホントっ!?」
顔を上げ、由比を見つめた美空は、嬉しそうに瞳を輝かせています。
「うん。いつでも、すきな時に会いにおいで…そうだ! 好野、算数苦手だろ? もし、好野が嫌じゃないなら、先生、補習してあげたいって思ってたんだけど…どうかな?」
「嫌じゃないっ! 私、やりたいですっ」
そう言った美空の頭を優しく撫で、ニコッと微笑んで見せる由比に、満面の笑みを返す美空。
「それじゃ先生、バイバ~イっ!」
「うん。気をつけて帰るんだよ?」
「うんっっ!!」
手を振りながら廊下を走り去っていく美空を、教室の入り口で見送る由比。
美空の姿が見えなくなり、なんだか嬉しそうに溜息をついた由比は、職員室へ向かいますが、その途中の廊下で、ばったり保健の先生と会ってしまいます。
「あっ!! チョットっ! 今、逃げようとしたでしょ?」
無意識に逃げようと動いてしまった由比の足。むくれっ面で歩み寄ってきた保健の先生が腰に手を当て、少しだけ怒った口調でそう言います。
「まったく、気まずいのは分かるけど、あれっきり保健室にも顔出さないし…普通に接してくれないと余計気まずいじゃない!」
「すみません…」
「これからは、いつも通りにしてくれなきゃシバキ倒すからねっ」
そう言った保健の先生が、由比の額に思いっきりデコピンをかまします。
「返事は?」
威勢のいい声で尋ねる保健の先生。額を押さえ、うずくまっていた由比は、ピッと背筋を伸ばして立ち上がり「はいっ!!」と歯切れのいい元気な声で返しました。
「ふふっ、絶対だからねっ」
悪戯っぽくニッと笑って見せた保健の先生。そんな保健の先生を見て、表情を緩ませる由比。
「なんか安心しました。きっと僕の顔なんて見たくないんだろうなって、変な気を使ってしまって…強いんですね。先生って」
「まあね。女なんて、みんなこんなもんよ。そういえば美空ちゃんがすごく嬉しそうに帰っていったけど、ついに愛の告白でもしたかな?」
「いえっ! そんなことは…それに、今はあの子に対して、そういう感情を抱いているワケじゃなくて…」
「ふぅ~ん…でも、それって美空ちゃんがまだ子供だから、そういう風に見れないってだけでしょ? いや、見ないようにしないといけないからってのが正解かな? 四年生って微妙な時期だよ? 特に女の子は、心も、体も、あっという間に大人になったりするんだから。恋なんてすると余計にね。そうなった時どうする? 自分の気持ちごまかせる? 分かってるよね? 相手はまだ小学生で、しかも教え子なんだよ? 世間的に許されることじゃないことくらい…な~んてねっ。もうっ、何深刻な顔してんのよ。フラれた腹いせにチョットからかってみただけよ。静岡先生、今二十三歳でしょ? 美空ちゃんが十歳だから、三十三の時にハタチでしょ? 別に問題無しじゃない。ねっ? 私、夏休み中も部活の生徒なんかがいるから、ワリと普通に学校来てるの。たまには顔出しなさい? どうせムリしちゃうんだろうし、体壊す前に私が診てあげるからさっ」
「はい。ありがとうございます」
「うん。それじゃ、またねっ」
小さく手を振り、背を向けて歩き出した保健の先生の背中を、ボーっと眺めていた由比は、保健の先生の姿が見えなくなると、その視線を窓の外に移し、まだ残っていた生徒がちらほらと下校していく校門の辺りを、その場を動けず、ただ立ち尽くしたまま見つめていました。
保健の先生に言われ、改めて気づく美空に対する曖昧で答えの見えない自分の想い…。
『もし、あの子を本気で愛してしまったら、その時、僕は…』
窓際に足を進め、窓枠に両手を掛ける由比。一瞬浮かんだ二人にとって最も辛い選択…。
『その時、僕は…教師を……』
窓枠に掛けた由比の手にギュッと力がこもり、悲しげに視線を落として…。
「おはようございます! 先生っ」
次の日の朝、職員室にいた由比のところへやってきた美空が、いつものように元気な笑顔を見せ、そう挨拶をしました。
「おはよう、好野。せっかくの夏休みなんだから、こんなに早い時間に来なくても大丈夫なんだよ?」
「ううん、いいの。だって、早く先生に会いたかったんだもん。へへっ」
恥ずかしそうに照れ笑いをした美空。真っ直ぐ過ぎる美空の感情に、どう反応していいのか分からず、戸惑っていた由比の顔を、美空は少しだけ不安そうな顔で覗き込みます。
「先生? 迷惑…かな? 私なんかに付きまとわれたら…」
「そんなことないよ。先生も、好野の笑顔が見れないと寂しいからね」
「ホント?」
「うん、ホントだよ。だから安心して好きな時に会いにおいで」
由比の左腕にキュッと抱きつく美空。由比は、そんな美空があまりにも愛おしくて、つい抱きしめたいと背中に回してしまいそうになる右手を、美空の頭にそっと乗せ、優しく撫でます。
嬉しそうに目を細めた美空は、由比の腕に抱きつく両腕に更にキュッと力を込めました。
その力強さから伝わる美空の想い…その想いが自分を教師として慕ってのものなのか、それとも…今の美空からは、それが明確に伝わってきません。
自分の中の美空は、まだ子供でいてくれている。そのことに安心感を覚え、誰に、何に対してでもなく、左腕に心地のいいぬくもりを感じながら心の中で祈る由比。
『このまま子供のままでいて下さい』…と。
二人だけの教室で始まった、二人だけの授業。
「あれ? また間違えてる…やり方はあってるんだけど…あっ! 好野? 九九言ってみてくれるかな? そうだな~、七の段」
「うん。えっと、七一が七、七二十四、七三…七七四十八、七ハ五十七、七九六十二」
「やっぱりそっか。好野? 九九間違えてるよ?」
「えっ!? ホント?」
「うん。そっか~、それで時々意味も無く間違えてることがあったんだね。それなら大丈夫。先生がちゃんと教えてあげるからね?」
お互い、用事や約束などがあって毎日というワケではなく、給食が無いため、お昼までという区切りの中、なんだか幸せそうで笑顔の絶えない二人だけの時間は、あっという間に過ぎていき…。
「よし、九九もちゃんと覚えたし、もう大丈夫。よくがんばったね、好野」
「へへっ。私ね、勉強って嫌いだったんだ。他の先生はね、キチンと教えてくれないまま、すぐ先に進んじゃって、分からないまま何が分からないのかも分からなくなっちゃって…先生ってすごいよね。先生とだと勉強がすっごく楽しいんだ」
夏休みも後半に差し掛かった頃、お昼間際、開けきられた窓から日除け用の白いカーテンをフワフワと揺らしながら吹き込む爽やかな風を受け、机の上でつい寝息を立ててしまった美空。そんな美空を、起こさないようにそっと抱きかかえる由比。一瞬目を開けた美空は、由比のぬくもりを感じ、安心して幸せそうにもう一度目を閉じます。
保健室のベッドに美空をそっと横たわらせ、布団を掛けた由比は、その無邪気で可愛い寝顔に、つい見とれてしまいます。
「ちょっと、恋敵を連れてきたうえに、お惚気?」
由比の傍らにやってきた保健の先生が美空を気遣い、声量を抑えた声でそう言って悪戯っぽく笑って見せます。
「すいません…寝ちゃったもんですから、そのままじゃ可哀想だと思って…」
「ふふっ、冗談なんだから謝んないの。私、お昼、外で食べてくるから、美空ちゃんよろしくねっ」
保健室を出た保健の先生が、昼食を終えて戻ってくると、ベッド脇に椅子を置いて座っていた由比が、上半身をベッドに預け、美空の傍らで一緒になって寝息をたてていました。
「まったく…二人とも幸せそうな顔しちゃって…敵わないな~…」
この二人なら仕方ないかな…なんて納得して自分の気持ちに整理をつけた保健の先生は、軽く微笑んで腰に両手を当て、小さく溜息をつきます。
由比の背中に自分の羽織っていた白衣をそっと掛け、保健室を出た保健の先生は、外から鍵を掛け、その場を後にしました。
「…ん? はっ! ごめん好野、先生つい…」
窓から見える空が薄っすらと赤みを帯びた頃、目を開けた由比は慌てて飛び起きると、先に目を覚まし、上半身だけを起こして由比の寝顔を見つめていた美空にそう言います。
「ううん。私も、今起きたばっかりだよ?」
寝起きには見えない顔、明らかにそれと分かる嘘。
「ごめんな…先生のせいで帰りが遅くなっちゃうね。別に起こしてくれてもよかったんだよ?」
「へーきっ! 全然へーきだよ。それにね、先生、気持ち良さそうに寝てたから…」
「ありがとう好野。もうすぐ暗くなっちゃうし、一緒に帰ろう? 家の近くまで送って行くね…ん? どうかした?」
ベッドの上で慌てて体を反転させて背を向けた美空。由比に見られたくなくて隠した真っ赤な顔、思い出してドキドキと高鳴る胸…寝息を立てる由比の唇に、無意識に自分の唇を近づけて、お互いの息がかかる距離まで近づけたところで我に返って離した、美空のファーストキス未遂事件。
「ううんっ! なんでもないです。へへへっ」
顔だけを後ろに向けて、そう言って照れ笑いして見せた美空。
帰宅ラッシュも落ち着きを見せ、流れのスムーズになった街へと続く環状線沿いの歩道を並んで歩く由比と美空。足を進める度に赤みの薄れていく西の空。
「先生と学校以外で一緒にいるのって初めてだね。こうしてると私たち、恋人同士に見える…かな?」
恥ずかしそうにそう言った美空。
「好野…大人をからかうもんじゃないの」
返答に困り、苦し紛れにそんなことを言って返した由比。
しばらくの沈黙…通りかかった公園。遊具は無く、芝生と、至る所に点在する数多くのベンチ、会社員や散歩に訪れたお年寄りなどの憩いの場として設けられた緑化公園。
「…ん? どうした? 好野」
公園の前で立ち止まった美空。それに気づかず、数歩足を進めたところで気がついた由比が足を止めて振り返り、美空にそう尋ねます。
「…私の家、もう、すぐそこなんだ。だから…公園、寄っていきませんか?」
「でも、ほら、もう暗くなっちゃうし、家の人も心配するだろうから…ね?」
「うん…でも私…もう少し先生と一緒にいたいっ! ダメ…ですか?」
「ダメ…と言いたいところだけど…」
「じゃあっ!」
「そうだね」
「ホント? やったねっ。へへへっ」
公園に入ると、駆け出した美空がベンチに、向かって右側を空けて座ります。
「まったく…しょうがないな」
歩み寄りそう言った由比は、小さく溜息をつき、微笑んで見せます。
「へへへっ」
由比が隣に腰掛けると、嬉しそうに顔を綻ばせる美空。
既に日は暮れ、西の空に微かな赤みを残しながらも、大半を包む夜空には星が瞬き始めます。公園に人通りは無く、まるで時間が止まってしまったかのように流れる二人だけの時間、暫しの沈黙。
「…ねえ、先生?」
「ん? どうしたの」
「先生は…私のこと、どう思っていますか?」
不安そうに由比のことを見つめる美空。本心を悟られたくなくて、戸惑い、つい視線を逸らしてしまう由比。
「…大切に思ってるよ。僕の大事な生徒の一人…だからね」
「そうですよ…ね。先生が私をかまってくれてるのって、私が子供だから…生徒だからですよね。分かってるんです。先生、保健の先生とすごく仲が良さそうで、私、保健の先生みたいに大人でも美人でもなくって…でも…私…」
うつむき、キュッと膝で拳を握った美空は、意を決して、瞳を潤ませ、必死に、真剣に、真っ直ぐに由比の瞳を見つめます。
「私、先生が好きっ!! 私、まだ子供だから愛だとか恋だとか分かってるか自信ないけど、でも先生を好きな気持ち、パパやママを好きな気持ちとは違うってことくらい分かる。迷惑だよね…でもホントに好きなんだ…先生のこと…ごめんなさい…ぐすっ…」
由比を見つめる美空の顔が歪み、ポロポロと大粒の涙が零れ出します。
破裂しそうなほど急激に高鳴り出す鼓動、由比の目に映る美空に重なって見えた、あの時、必死に告白して見せた保健の先生…それは由比にとって、美空が子供ではなく、女性として認識された瞬間でした。
由比の想いを辛うじて閉じ込めていたガラスのように薄っぺらな壁は、いとも容易く割れて無くなり、自分の気持ちを抑えられなくなった由比は、右手を美空の右肩に添えると、そっと抱き寄せ、左手を優しく頭に置き、胸の辺りに美空を包み込みます。
「せん…せい?」
少し驚き、不思議そうに由比の顔を見上げた美空。
「好野…先生…僕も、好野のことが好きだ。生徒としてなんかじゃなく、一人の女性として、キミのことを誰よりも愛おしいと思ってる」
「ホント…ですか?」
半信半疑、尋ねた美空の瞳を、真剣に見つめ返し、そっとうなずく由比。美空は、涙と笑顔でクシャクシャになった顔を由比の胸にうずめ、両腕を由比の腰に回してギュッと抱きつきます。
「すごくドキドキ聞こえる…嘘じゃないんだ…ホントなんだね?」
「うん。好きだよ…好野」
「先生っ! 大好きっっ!!」
抱きつく腕に更にギュッと力を込める美空。由比も美空の肩を抱く右手にグッと力を込め、左手で美空の頭を愛おしそうに優しく撫でました。
「へへへっ。私、先生に撫でられるの好きなんだ。先生の手って、大きくて、優しくて、なんだかあったかい気持ちになれるの」
由比の顔を見上げ、そう言った美空の頭をもう一度撫でる由比。美空の瞳からポロポロと大粒の涙が流れ出し、驚いて左手を美空の頭から離すと、美空は首を大きく横に振って嬉しそうに目を細めます。
「違うの。悲しいからじゃないんだ。私、もう泣かないって決めたのに…でも、嬉しい涙はいいんだよね? へへへっ」
体勢を変え、由比に右肩を抱かれたまま、左肩を由比の体に持たれ、空を見上げた美空。
「ねえ先生? あの星、なんていう名前かな? 一番明るくて、青白く光ってるやつ」
そう言って真上の空を指差して見せた美空。
「ああ、あれはベガっていうんだよ。ほら、七夕の織姫があの星で、左下の方にも明るい星が見えるよね? あれがアルタイルって言って彦星なんだって。その星と星の間を隔てるようにある星雲が天の川なんだけど、まあ、こんな街中じゃ見えないかな」
「へぇ~…先生、詳しいんだね」
「これでも教師ですから。これくらいは知ってないとね」
「へへっ…じゃあ私がベガで先生がアルタイル…かな? 私ね、心が今、あの星みたいにキラキラ輝いてるんだ。私たち…あの星みたいにずっとキラキラしていられるかな? ずっと変わらないで一緒に光っていられるかな?」
「うん、そうだね…」
ほんの少しの間のあとに口から漏れた本心、その場を取り繕う嘘…右肩にあった右手で美空の頭を優しく撫でる由比。
「へへへっ」
顔を綻ばせ、両手でギュッと由比に抱きついた美空は、ピョンとベンチから飛び降りるように立ち上がって駆け出し、数メートル先で止まると由比の方へ振り返ります。
「先生っ! 私、帰りますね」
「そっか。じゃあ、家の前まで送るよ」
立ち上がってそう言った由比に、首を横に振って見せた美空。
「へーきです。それに、これ以上先生と一緒にいたら、帰りたくないってワガママ言っちゃいそうだから…それじゃ、バイバーイ先生っ」
そう言って駆け出した美空は、時々振り返っては手を振りながら走り去っていきました。
「サヨナラ…好野…」
見えなくなった美空の姿、空を見上げる由比…。
「ごめん…約束、守れなくて…」
辛そうに悲しげに呟いた由比…その日を境に由比が学校を訪れることはありませんでした。
つづく