初恋のお兄さんと恋人のお兄さん
『これから受験に備えて平日週二くらいは暫く会えなくなるから、ごめんね?』
『そうなんだ。暫くってどれくらい?』
『大学入試が終わるまで。家庭教師がつく事になるの』
『家庭教師ってまさか男じゃないよね!?』
『変なこと考えてないよね。普通に真面目にお勉強するだけだから』
『変なことって具体的にどんなこと考えた?』
『……明日早いからもう寝ます』
携帯電話を閉じて自然と息が漏れ出た。
「まったく。隙あらばセクハラしいなんだから」
でもあまり説明せずに適当に切り上げられる理由が出来て良かったなと安心もする。
鈴ノ木さんが変な人で良かった。深く突っ込まれたら正直に明かすところだ。
嘘を吐く気はないけど、あまり鈴ノ木さんにすぐ話すのは遠慮したい。
「母さんたら勝手に決めて……」
とりあえずスケジュール帳に予定を組み込む。
一般的に週二の家庭教師で足りるかどうか甚だ疑問だが、何もしないよりは精神清涼にはなる。たとえ希望校模試でA判定でもだ。
まあ、その判定のおかけで塾の必要性も感じなかった訳だけど、それでも追い込み授業に身内を家庭教師に使うのはどうかと思うんだよね。それも社会人に無理言って!
スケジュール帳に加えられた週二分の「桐吾君」という名の印。
まさか母さんが身内割引料金で格安に叩いて桐吾君を雇い入れるとは思わなかった。すぐ下の弟の福司は塾に通わせてるくせにどうして私で切り詰めるんだろう。いくら受験生が二人とは言え、我が家の経済ってそんなに逼迫していたのだろうか。
大体、手に職を持つ桐吾君に頼むのはどうだろう。受ける方もどうなんだとは思うんだけど。
確かに桐吾君は教え方は上手だけどね。昔から私の勉強を見てくれたのは桐吾君だし、彼から伝授された勉強法が元で今も好成績を維持している。一緒に習った筈の弟の成績が危ぶまれるのは反復しないからだろう。
ともあれ、小学生の勉強ならいざ知らず大学入試向けの教師役を引き受けさせるのはかなりの負担だと思うんだ。
桐吾君の仕事は自由業なところがあるけれど、あれで事務所抱える社長さんだし暇って事はない筈。いくら時間が作れても、いくら優秀な人でもやっぱりどこか無理してる部分はあるだろうに、お母さんからのお願いだから聞き入れたに違いない。……桐吾君は昔から母さんには弱かったからなぁ。
つまりはその点がつまらないんだよね、私は。
スケジュール帳を投げ出し、ベッドに俯せに飛び込む。鈴ノ木さん宅から帰宅後のやりとりを思い出すとむずむずした。
「桐吾君に陽幸の家庭教師を任せたから」
なんて開口一番に言われ、嬉しい反面、遠慮を見せれば桐吾君は優しく頭を撫でて問題ないと言う。
ただその後に加えられた一言は完全に余計だった。
「深雪姉さんに頼まれたらどうにかするっきゃないだろう」
あーそうですかハイハイって感じ。
やさぐれて枕に顔を埋めると溜息すら上手く吐けない。
この手のヤキモチを私は物心ついた頃から何度となく繰り返している。
物心ついた頃から私は幾度となく桐吾君を巡っては母に対抗心を抱いていた。
母から何がどうこうあった訳でなく、桐吾君が私より母の気持ち優先をする節に幼いながら不満だったんだ。
年上の格好いいお兄さんに初恋にも似た感情を抱くのはありきたりによくある話しでしょ?
それを正しく初恋とカウントするのは見識は分かれるところだけど、初めて意識した異性ならやっぱり桐吾君だ。
うちの父は昔から出張や単身赴任が多く、母は子育てと主婦業の合間に自宅と赴任先を往復するのも珍しくなかった。その際に子供の預かり先として活用されていたのは桐吾君。私の半分は桐吾君が育てたと言っても過言ではない。
そう言った点ではやっぱり特別な人なんだ。
ともかく、桐吾君が勉強を見てくれるのに不満はない。むしろ勉強を見てくれるのはとても安心だ。信頼している。
それなのにどっかで罪悪感を覚えるのって、引きずっている部分があるからなんだよね。きっと。
やっぱりフォローしておこう。さすがに素っ気なく切っちゃったし。
私はケータイを再度手に取り、鈴ノ木さんにメールを打つ。
『落ち着いたらちゃんとしたデートしようね。帰宅デートじゃないやつ』
返事はとても早かった。文字はなくハートの絵文字がびっしり詰まって、ちょっと気持ち悪いけど電話するのを我慢して最大限の歓喜を表したのだろうと読み取る。
同時に私は少し安心した。
鈴ノ木さんが好きな気持ちを再確認した事で、私はちゃんと鈴ノ木さんに恋をしていると実感出来たから。
* * *
「あたし思うに、陽幸はまだその桐吾君に未練があんのよ」
「やっぱりそう見える?」
「見えるよ。そもそも陽幸の本来のタイプって包容力のある落ち着いた大人でしょ。鈴ノ木さんはねぇ……」
「年上には違いないんだけどね」
サトが言葉を濁すのは何も昼食中で弁当のししゃもを咀嚼しているからではないのを知っている。知っていてその言葉にフォローも入れずに申し訳ないけれど、普段が随分へんた……わんこみたいだから意識する好みのタイプとは確かに違うので私は否定もしない。
鈴ノ木さんと付き合う前の私の単純な好みは確かにサトの言う通りで桐吾君が該当する。そしてやはり未練というものはあるとしても、桐吾君への未練って、単純に告白してはっきりふられていない所為なんじゃないかと思うんだけど、親戚に過去のものとはいえ気持ちを明かすのは後々を考えるとやっぱり難しい話だ。
「でさ、やっぱり初恋の人と改めて顔を合わせたらそっちの方に気持ちが傾くもん?」
楽しそうに尋ねられ、あ、完全に野次馬だなって態度に無視するのも簡単だが、黙って余計な誤解を与えたくもないので私は仕方なく質問に返す。
「傾きはしないよ。鈴ノ木さんのそれとは違うってはっきりしてるし。ただ……」
「ただ?」
「家族に恋人紹介する気恥ずかしさはあるよね」
「あー……それは分かるわ」
大いに同意を見せてくれるのは夏休み、かく言うサト自身も現在付き合っている恋人を両親に打ち明けたばかりだからだろう。サト自身は普段は恋愛にオープンなんだけど、恋人の芙蓉さんはサトの両親が仕組んだ部分があるのでその思惑に乗ってしまったのが気恥ずかしいみたい。
最初から親公認だとそれはそれで複雑だよね。
我が家では既に母公認済みなので、たまに鈴ノ木さんがうちに来るとわざわざ用もない買い物に行っては留守にするのでとても嫌だ。二人きりは鈴ノ木さん宅で慣れているのに敢えてそんな場をわざわざ作られるのが嫌なんだ。
「恋愛って二人だけのものって思ってたけど、実際付き合うと周りの人も結構関わって来るんだなぁって分かったよ」
「周りを見ない無法者もいるけどね」
けらけら意地の悪い笑みを浮かべ、サトは「それも性春の醍醐味だけどね」と言う。多分頭に浮かんだ字面に間違いはなかった筈だ。
結論としては折りを見て近日中に正直に話す方がいいとなった。疚しい事がないのだから当然なんだけど、なんだかなぁ。いやぁな予感がするのは私の杞憂だろうか。
どうにも先に悪いことを考えてしまう癖のある私には言い淀んでしまいそうになる。
このまま黙ってやり過ごした方が平安なんじゃないかなぁって。
根拠なんてないけれど……
なんて少しでも楽観的な方向に気持ちを切り替えようとしたその日の放課後、杞憂は杞憂で終わらなかった。
HRが終わり、さあ帰ろうかなんてサトと共に教室を出た際にいつもの放課後の喧騒とは違うざわめきに気付く。
正門の方にかけて黒山の人集り。特に女子が色めき立っているようで、生徒ならず教師も好奇心の目に輝いている。
デジャヴだ。
この辺り漂う秋波には非常に覚えがある。私の記憶に間違いなければ一年前、少女漫画のような展開でこんなシーンがあったと感想を抱いたものだった。
「なんかパワーアップしてる……」
校門の両極の門柱に背中を預ける鈴ノ木さんと……桐吾君。
表向き微笑みを浮かべているものの、両者をよく知る私から見たら互いに牽制しあうような外面を被っている。
しかし客観的に並びを見たら絶世の美貌の青年と脂の乗った大人の色香を漂わせた中年と言うには若い男は大変絵になる光景だ。お腹一杯です。
「これなんて乙女ゲー展開?」
一緒に帰る予定だったサトがこの光景を前にぼやく。
「乙女ゲームってこんな胃に痛いものなの?」
「最近は素人小説でもよく用いられる題材だからそりゃてんこ盛りよー。まぁ、此処が乙女ゲームの世界で攻略対象があの年齢ならR付いてそうだね」
「……現実で良かったと前向きに感謝しとく」
とりあえず衆人環視の中、あの場に入りたくはなかったので離れた場所で両者を見える位置から一斉メールを送る。
まずはそこから消えろ。話はそれからだ。