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バースデイ

作者: ***

 或いは「落下生」

 生まれたくは無い。生まれてしまいたくは無いのです。

 羊水の海に揺られて、私は子宮の壁を強く蹴りました。そんなことをしたところで何がどうにかなるわけでも無いことぐらい分かってはいるのですが、私にはそうすることぐらいしか出来ません。母が苦しむ感覚が、へその緒を通じて伝わって来ます。私は少し悲しくなりました。

「元気な子ね。」

 いたわるように、フェイザーを噛ませたような音色で、母の声が響きました。苦しい筈なのに、柔らかな声で。待ってるからね、もう服もちゃんと揃えてるのよ。声に満ちた優しさ。いたわり。嘘では無いのです。全て、へその緒から流れ込んでくるから、偽りで無いことは分かっているのです。無償の愛。けれど、私はその愛がすぐに憎悪に変わってしまうことを知っているのです。

 前だって、そうでした。


 ■■■


 初めは、幸せでした。温かな笑顔に包まれて、私はすやすやと眠っていました。そんな私を抱き、子守歌を歌いながらゆっくりと揺れる母の顔はただただ美しくて、物心なんて産毛ほども生えていない小さな私はその体温に溺れていました。母の長い髪から漂う愛の香りと匂い。父は照れくさそうな顔で母の肩を抱いて、抑えきれない笑みを噛み締めているのです。そんな日々がいつまでも続く気がしていて、私はその愛にどうしようも無い程甘えていました。

 その愛を失って母の腕から落下してしまったのは、私が五歳の時でした。きっとそれまでも伏線みたいなモノはいくつも打ち込まれていたのでしょうけれど、幼かった私は自らのセイメイを侵す黒い影に気づかないまま、人生を漫然と過ごしていました。

 夏に父がいなくなりました。理由は結局未だに知らないのですが、おそらく好きな女のところにでも行ったのだろうと思います。母は父に捨てられ、日に日にやつれて行きました。もう私の頭を撫でて微笑むことも、怖い顔で私を叱ることもありませんでした。

 冬に母がいなくなりました。私を置いて、母は出て行きました。玄関で靴を履きながら母は私に何かを言って、それから落花生の形をした石のお守りを私の小さな手に握らせて出て行ったのです。

 そうして私は一人になりました。両親を失った私は、どうしていいのか分からずに広い家の中でただ絵本を繰り返し読んでいました。繰り返し、繰り返し、もう目を瞑っても全て思い出せる程に読み返しました。そして力尽きて倒れているところを隣人に発見されました。


 +++


 まだ一人では生きて行けないままに一つ目の家族を失った私は叔父と叔母の家に引き取られました。二人ともにこやかな笑顔で私のことを迎えてくれましたが、実際のところ私のことを厄介者としか思っていないことは、幼い私にも分かりました。目がそう語っているのです。何でこんな奴を養わなくちゃならないんだ、と。

 私は出来るだけ二人に迷惑をかけないように努めました。それどころか、可能な限り彼らの役に立とうとしたのです。掃除も洗濯も手伝いましたし、食後の皿洗いはほとんど私が担当しました。料理だって、休みの日は出来るだけ私がやりました。けれど、いくら努力したところで私は所詮厄介者でした。少々役に立つ厄介者でしか無かったのです。

 そんな私が落下の魅力に捕われたのは、中学生になってまもなく、よく晴れた日の昼でした。日曜日だったので学校は休みで、私は漬物を入れておくタッパを台所の上の棚から出す為に椅子の上に立っていたのです。普通に手を伸ばしただけでは届かなかったので背伸びをして指先がタッパに触れた時、椅子がぐらりと揺れました。私はバランスを崩して、「あ、あ、」と声帯を震わせながら落ちました。景色がそれまで経験したことの無いスピードで流れ、そして身体はふわりと浮遊しているかのような感覚に包まれました。それは本当に、信じられない程に心地よい落下でした。

 それから私は毎日のように落下を繰り返しました。椅子の上から、テーブルの上から。しまいには物足りなくなって、ベランダから落下したりもしました。私たちの住む部屋は二階で、しかもすぐ下には植え込みがあったので、大した怪我をするようなことはありません。それに、落下は決して自傷行為や自殺行為なんかではありませんでした。ただ、落下する快楽だけを求めた自慰行為だったのです。


 +++


 そんな少しだけ狂った日々を送っていた私が彼と出会えたのは、本当に偶然としか言いようがありません。或いは神の悪戯、でしょうか。

 十七歳の誕生日を迎えたその日、私はいつものように二階のベランダから身体を落下させていました。目を瞑り、息を吸い、そして身体を柵の向こう側へと押し出すのです。一瞬の浮遊感とその後に襲う衝撃。ですが、私の身体を襲う筈の衝撃は、その日に限って何故か感じられませんでした。代わりに私の身体を包んだのは温かい体温と逞しい腕だったのです。「大丈夫?」と問う彼の顔と私の顔の間には十数センチの距離しか無く、私は慌てて彼の腕から逃れたました。頬を真っ赤に染めて。

 落下する私を抱きとめてくれたのは、同じマンションの最上階で一人暮らしをしている大学生の竹中さんでした。竹中さんはとても優しい人で、私のことを酷く心配してくれました。二階から降ってくる女子なんて何か事情があるには違いありませんが、竹中さんはその事情の具体的なところ――私が家の中で浮いた存在であることにまで気づいてくれたのです。そんなこと、一言も言わなかったのに。

 それから私は、竹中さんの部屋に入り浸るようになりました。おそらく起きている時間の半分くらいはそこにいました。家事は出来るだけ早く済ませ、残った時間は避難していたのです。そうする内に私は、自らの胸を埋め尽くそうとしているある想いに気づきました。今まで経験したことの無い感情が私の中に湧き出して止まらないのです。

 それは、恋でした。他の何物でも無い、恋でした。


 +++


 自分の心を満たす感情の正体に気づくとすぐ、私は彼に想いを告げようとしました。幸い時間だけはいくらでもありました。ですが、私には決定的に勇気が足りませんでした。生まれてこの方、人を好きなったことなど一度も無かったのです、告白なんてそんな思い切った真似が出来る筈もありません。自分が酷く情けなくて私は涙を流しました。ただ好きだと言うことを、とても好きだと言うことを告げるだけなのに、どうして。

 彼に告白しようとし続けて一週間経ったその日、私は彼の部屋に行くのをやめました。それ以上傍にいるのが辛かったのです。竹中さんはすぐそこにいるのに、私は彼に手を伸ばすことすら出来無い。それなら竹中さんなんていない方がマシでした。

 家族の部屋から逃げ出して竹中さんの部屋に入り浸ったように、今度は竹中さんの部屋から逃げ出して私は家事に溺れました。ひたすら台所や床や壁を綺麗に掃除し、美味しい食事を作る為の研究に明け暮れ、私は竹中さんのことを忘れようと努めました。けれど、それは酷く私の心を蝕んだのです。もう耐えられませんでした。私はしばらくやめていた落下をまたやることにしました。

 ベランダに足をかけて、目を瞑って息を吸って、そして落下。しかし、私の身体を襲う筈の衝撃はまたしても感じられませんでした。竹中さんです。竹中さんが、受け止めてくれたのです。「何で?」と私は震える声で問いました。何故私をまた受け止めたのですか。あなたさえいなければ私はただこの家で家族の少しばかり浮いた一員として生きていけるのに。

 彼は微笑んで、こう答えました。愛しているから、と。


 +++


 それからしばらくの間、幸せな時間は続きました。幼いころ、まだ父も母もいた頃のような幸せ。私は酷く幸せでした。そして、酷く油断していました。忘れていたのです、幸せはいつだってすぐに悲しみへと姿を変えることを。

 三か月と経たない内に、彼は私に対する興味を失いました。そしてそれから一カ月と経たないうちに彼は私のことを鬱陶しいと感じるようになりました。私は彼に依存するだけの存在ですから、竹中さんにとってはもうただの厄介者でしかありませんでした。

 それでも私は彼の「愛しているから」と言う言葉を支えにして生きていました。彼は愛していると言ってくれた。私のことを愛していると。ですが、その支えもすぐに折れてしまったのです。

「もうキミのことは愛していないんだ、だから別れよう。」

 私はどうすればいいのか分からなくなってしまいました。何の為に生きて行けばいいのか、誰の手に掴まって生きて行けばいいのか、何もかもが分からなくなってしまいました。気がつけば屋上にいました。屋上の縁で、温い風を感じていました。一拍遅れて、自分が自殺しようとしていたのだ、と気づきました。

 でも、自殺は駄目なのです。生きていれば辛いことだって沢山ありますが、楽しいことだっていくらでもある筈なのです。だから死んではいけないのです。私は戻ろうとしました。家族の住む部屋に戻ろうとしました。しかし、その時突風が私の身体を押しました。傾く私の身体。流れる視界。最期にしては意外と冷静でした。ああ、これで終わるのか。いやな人生だったな。別に惜しむ程のモノでは無かったさ。

 そして私は落下しました。


 ■■■


 洪水。

 思い切り胎外へと押し出そうとする力に、ああ私は生まれるんだな、と気づきました。生まれてしまうんだな。嫌だ、嫌だ。けれど、生まれる他は無いのです。生まれる他には。私はへその緒を掴んで留まろうとしました。けれど突き出した手は羊水を掻いただけで、私の体は子宮から流れて行きます。身体を締めつける圧力。苦しい、苦しい、苦しい。

 身体を掴む誰かの手を感じた時には私はもう外の世界に引きずり出されていました。瞼越しに目を焼き切るような光。遂に生まれてしまった。そう思うと哀しくて哀しくて、私は声を抑えることも出来ずに泣きました。すると、誰かの体温が私の身体を包みました。その体温はとても優しくて、何だか懐かしい心地がしました。

 私は目を開けました。眩しくて眩しくて、何も見えないような状態でしたが、それでも私を包むその体温をこの目で確かめたくて、目を開けました。

 目の前には綺麗な手がありました。その手には落花生の形をした石のお守りが握られていました。それで私は全てを思い出しました。あの日、母が私を捨てて出て行った日、お守りと共に渡された言葉も。

「次もきっと親子だから、そうなったら、その時こそお前を幸せにしてやるよ。落花生のお守りが目印だ。」

 だけど、だけど。約束なんて、アテにする方が間違っています。いつだって愛はすぐに嘘になってしまうのです。決して信じてはいけない。私を抱き締めるこの母親が私のことを大切にしてくれるなんて、そんな幻想を抱く方が間違っているのです。期待してはいけない。その分哀しみが深くなるから。

 でも母親のその本当に嬉しそうな笑顔が目に入ると、もう駄目でした。全てがどうでもよくなって、全てをもう一度信じてみても良い気がして、全てを忘れてしまえばいい気がしました。忘れて、もう一度初めからやり直してみよう。きっと、幸せになれるさ。

 私は全てを忘れることにしました。辛かった思い出なんて全て忘れてしまうことにしました。そして一からやり直すのです。目を閉じると、どんどん意識が薄れて行くのを感じました。これで、私とはお別れです。これからは、何も知らない、愛だけを知っている次の生命が生きて行くのです。それはきっと素晴らしいことでした。


 *


 May you/I have a happy life...!

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