「王子に誤字を書かせた無能な教育係」と追放された令嬢——その誤字は、幽閉された王子の暗号だった
子どもの書く字は、嘘をつかない。
ネルはいつもそう思っている。
村の集会所。脚の傾いた卓に、八つになるパルが自分の名を書いていた。最後の一画がはねて、墨が小さな尾を引く。本人は口を尖らせた。
「せんせい、まちがえた」
「どこが?」
「ここ。はねちゃった」
ネルはその撥ねをのぞきこんだ。にじんだ墨が細く走っている。
「これはね、まちがいじゃないの」
「え」
「手が急いだのよ。パルが早く川に行きたいから、最後の一画が走ったの。……当たってる?」
パルが目を丸くして、それから、へへ、と笑った。窓の外では、ほかの子らが浅瀬で石を投げている。
「まちがいには、意味があるの」
ネルは指で空に大きな字を書いてみせた。
「なんでそう書いたのか。それを読むのが、いちばん面白いんだから」
「せんせいって、へんなの」
「よく言われる」
子どもらが川へ駆けていったあと、ネルは残った羊皮紙を陽にかざした。半年前まで、彼女は王城でこれをやっていた。教える相手が村の子か王太子か、それだけの違いだ。字を読むことは、人を読むこと。祖母の口癖がそのまま背骨になっている。
村の暮らしは悪くない。ただ、ときどき耳の奥で、誰かの声が「無能」と読み上げる。半年経っても、それは消えてくれない。それでもここでは、面と向かって彼女をそう呼ぶ者はいない。腹は減るし、道はすぐ迷うし、甘い物はめったに手に入らない。それだけの村だ。
戸口に影が差したのは、そのときだった。
鎧は着ていない。だが立ち方でわかる。剣を吊る腰の据わり方が、抜けない。
「……シリル」
ネルは筆を置いた。半年ぶりに見る顔は、少し痩せていた。
「元気そうだな」護衛のシリルは短く言った。「腹は、減ってなさそうだ」
「減ってるわよ。挨拶がわりに甘い物を持ってきたなら、許してあげる」
「持ってきたのは、これだ」
シリルが外套の内から一枚の紙を出した。折り目のついた、宮廷の羊皮紙。ネルはそれを見た瞬間に、笑うのをやめた。
「あんたを追放した"証拠"だ」シリルの声が低くなる。「摂政が、みなの前で読み上げた。誤字だらけの作文。無能な教育係が王子を駄目にした、何よりの証拠だと」
「……よく持ち出せたわね、記録庫から」
「役目を解かれる前に写した」シリルはまっすぐ彼女を見た。「あんたが王子を駄目にするなんて、俺は一日も信じなかった。だから手元に残した」
ネルは紙を受け取った。指先が少しだけ冷たくなる。
テオの字だった。まちがいない。撥ねの弱いところも、払いの癖も、三年見てきた手だ。作文の題は「わたしの一日」。宮廷の教育係が幼い子に必ず書かせる、いちばんやさしい課題。
彼女の目がまず落ちたのは、末尾だった。署名。テオドール、とたどたどしい字で書いてある。
最後の一画の、撥ねがない。
ネルの息がひとつ止まった。
「……ありえない」
「なんだ」
「テオさまは、お名前の終いにいつも小さな撥ねを書くの。わたしが三年かけて手に覚えさせた。忘れるとか、そういう次元じゃない。寝ていても書けるくらい、身体が覚えてる」
「じゃあ、なんで」
「消したのよ」ネルは紙から目を離せなかった。「わざと」
窓の外で、子どもらの笑い声が遠く聞こえる。だが彼女の耳には、もう入ってこない。撥ねのない名前が白い紙の上で、助けを求めて手を挙げている気がした。
三年前。ネルが初めて王城の教室に立った日、テオはまだ五つだった。
「せんせいは、字がじょうずなの?」
「うんと上手よ。でも、上手なだけじゃ駄目なの」
「なんで?」
「上手な字は、きれいなだけ。……大事なのは、読めることよ」
テオはよくわからない、という顔をした。ネルは筆を握らせて、その小さな手を上から包んだ。
「テオさま。お名前を書いてみて」
幼い手がぎこちなく紙を這う。ネルはその動きを、つい目で追ってしまう。
「あ、いま迷いましたね」
「え」
「ここ。息を止めたでしょう。だいじょうぶ。迷ったあとの字が、いちばん正直なの」
最後の一画で、ネルはそっと力を添えた。ほんの少し上へ。撥ねる。
「これ、なあに?」
「テオさまのしるし。世界でひとりだけの、はんこよ」
「はんこ」
「そう。だから名前を書くときは、いつもこれをつけるの。忘れちゃだめ。忘れたら——」ネルはいたずらっぽく笑った。「わたしが、すぐ気づいちゃうから」
「せんせいは、なんでわかるの? ぼくのはんこ」
「テオさまの手が、覚えてるから。手はね、頭より正直なの。急いでるとか、こわいとか、ぜんぶ字に出ちゃう」
「じは、うそつけない?」
「つけないの。だからわたしは、字を見れば、その子がどんな気持ちで書いたか、わかっちゃう」
テオは自分の手のひらを、まじまじと見た。初めて見る道具のように。
「ぼくの手、すごいね」
「すごいのよ。大事にしてあげて」
テオはそれが嬉しかったらしい。その日から彼は、何を書いても最後に小さな撥ねをつけた。パンの粉で机に名を書くときも、窓の霜に指で書くときも。三年で、それは癖になった。癖は身体の一部になった。
文字の授業は退屈だ。子どもにとっては特に。だからネルは、ひとつ遊びを混ぜていた。
「テオさま。これ、どこかにまちがいがあります」
彼女はわざと一字を綻ばせた文を見せる。テオは目を皿にしてそれを探す。見つけると飛び上がって喜んだ。慣れてくると、今度はテオが仕掛ける番になった。彼が綻ばせた文を、ネルが読み解く。
「まちがいさがし、っていう遊びよ」
「せんせいが負けること、ある?」
「あるわよ。テオさまは、隠すのが上手だもの」
嘘だった。ネルは一度も負けたことがない。けれど負けたふりをすると、テオが得意げに顎を上げる。それが可愛くて、いつもわざと悩む顔をしてやった。
一度、テオが盛大に墨をこぼして、紙を真っ黒にしたことがある。叱られると思ったらしい。彼は先回りして、ネルの口ぶりをまねて胸を張った。
「まちがいには、理由があるんです。……ぼく、いそいでたんです」
「あら」ネルは噴き出した。「先生の口まね、上手になったこと」
「せんせいが、いつも言うから」
得意げな顔だった。この子は、聡い。叱られる前に、こちらの言葉で先に守りを固めてくる。ネルは指で空に、まる、と大きく書いてやった。花丸のつもりだった。
ただ、まちがいさがしには、ひとつだけ、二人で決めた約束があった。
「本気で何かを隠したいときはね」ネルは内緒話の声で言った。「行の、いちばん最初の字を、わざと綻ばせるの。ひとつの行に、ひとつだけ。それを上から順に読むと、ほんとうの言葉になる」
「まちがえた、ふりを、するんだね」
「そう。手がすべった"ほんとうのまちがい"と、わざと作った"つくったまちがい"は、綻び方がちがうの。わたしには、見分けがつく。だからテオさまが頭を綻ばせた行だけ、その頭の字を上から拾えばいいの」
「よめるひとにだけ、よめる?」
「そう。読める人にだけ、読めるようにね」
テオはその約束が、二人だけの秘密であることを、ことのほか気に入っていた。
一度、テオが得意げに一枚の紙を差し出したことがある。
「せんせい、これ、よんでみて」
「どれどれ」
几帳面な四行。行の、いちばん最初の字が、それぞれ、わざと綻ばせてあった。
すずめが、ないています
きのうは、あめでした
だいどころで、パンをやきました
よるは、よくねむれました
ネルは、綻んだ頭の字を、上から拾った。す。き。だ。よ。
「……あら」
「わかった?」
「わかっちゃった。わたしも好きよ、テオさま」
テオは耳まで赤くして、机に突っ伏した。ネルは笑いをかみ殺した。この子は、隠すのが本当に上手だ。隠しながら、いちばん伝えたいことを、いちばん見つけてほしがっている。
人を読む、というのもネルの技のうちだった。祖母ゆずりの。
冬が近づいた頃から、テオの様子が変わった。字はいつも通り書けるのに、筆を持つ手がときどき震える。声のかかりが半拍遅れる。ネルはそれを見ていた。
「テオさま。なにか、こわいことがありますか?」
「……ううん」
テオは首を振った。だが視線が一度、扉のほうへ逃げた。扉の向こうには、いつも叔父の——摂政ヴェルナーの供の者が控えている。
ネルには何かがわかった。だが名指しはできなかった。証拠がない。教育係の女が「摂政のご様子がおかしい」と口にすれば、どうなるか。彼女にもそれくらいはわかった。
だからただ、テオの手を握ってやった。
「だいじょうぶ。まちがえてもいいんですよ。まちがいには、ちゃんと意味があるんだから」
テオはうなずいた。その目が何か言いたそうに揺れていた。
——今なら、わかる。あのとき、テオは何かを言おうとしていた。
破局はあっけなかった。
ある朝、ネルは謁見の間に呼ばれた。何の説明もなく、居並ぶ廷臣の前で、摂政ヴェルナーが一枚の紙を掲げた。
「これが、王太子殿下の作文だ」
摂政の声は鷹揚だった。整った物腰の、隙のない男。だがその手が持つ紙を、彼自身は一度も読んだことがない。ネルはそれを後で知る。
「誤字だらけだ。文の体をなしておらん。八つにもなってこの有様。教育係が無能でなくて、なんだと言う」
ネルは、紙を見せてほしいと言った。ヴェルナーは渡さなかった。ただ遠くから廷臣たちに回し見せ、口々に「これはひどい」と言わせただけだった。彼女の手には、一度も届かなかった。
「弁明は?」
弁明の機を、彼は与えなかった。同じ口でそう訊いた。
その日のうちに、ネルの婚約は破棄された。相手のアドリアンは廊下で、彼女と目も合わせずに言った。
「無能な女と縁を結んだと思われては、私の立場がない。……悪く思うな」
悪くは思わなかった。ただ少しだけ、その程度の人だったのだと思った。
追放の輿が城門を出るとき、ネルは一度だけ振り返った。王城の、思いのほか高いところに、小さな影があった。テオだ。ガラスに手を当てて、何か口を動かしている。声は届かない。だが、その唇が何を象ったのか、ネルにはわかった。
——ネル先生なら。
その唇の形を、彼女は半年、忘れられなかった。ただ、なぜテオがあんなに高い窓にいたのか——そのときは、深く考えなかった。見送りだと、思っていた。
村の集会所。ネルはテオの作文を卓に広げた。半年ぶりに読む、教え子の字。今度は遠くから見せられたのではない。手の中にある。
題は「わたしの一日」。八つの子が書く、いちばんやさしい課題。だが一枚のうちに、誤字が数えきれないほど散っていた。とめ損なった横棒。ひっくり返った仮名。にじんで潰れた点。摂政が「誤字だらけ」と嗤ったのは、これだろう。
「……ひどいな」シリルが眉を寄せた。「これじゃ、無能と言われても、返す言葉が」
「ちがうの」ネルは首を振った。「これはね、こわい子が、こわいまま書いた字。手が震えてる。寒くて、こわくて。……でも、それだけじゃない」
彼女の指が、紙の上を滑った。震えの誤字のあいだに、まぎれて、別の誤字がある。震えではない。整った手が、わざと、行の頭を綻ばせている。ひとつの行に、ひとつだけ。四つの行。まちがいさがしの、綻ばせ方だった。
そして、名の終いの撥ねが、消えている。ここに、まちがいさがしがある——テオが残した、その合図だった。
「シリル。この四つの行を、見て」
ネルは、震える誤字の海から、四つの行を選り分けて、上から順に指した。
たかいまどから、きたのうみが みえます
すこし、さむいです
けさ、かねが みっつ なりました
てのゆびが、つめたくて うごきません
「まず、書いてあることを読むわ」ネルの指が、一行ずつを撫でた。「高い窓から、北の海が見える。すこし寒い。今朝、鐘が三つ鳴った。指が冷たくて、動かない」
彼女は顔を上げた。
「テオさまのお部屋は南翼よ。日当たりのいい、いちばん暖かい棟。北の海なんて、逆立ちしても見えない。鐘の音も遠い」
「……見えるのは」シリルの声が硬くなる。「北の塔だ」
「海に面してて、風が抜けて、夏でも夜は冷える。朝に三つ鳴らす鐘は、城で北の塔だけ」ネルの指先が冷えた。「この作文を書いた子は、南翼にいなかった。北の塔にいたの。……いまも」
言葉にした瞬間、半年前の朝が、背をつらぬいて戻ってきた。城門で振り返って見た、思いのほか高い窓。見送りだと思っていた、あの小さな影。
「……あの窓よ」ネルの声が、低くなった。「城門でわたしを見送った、あの高い窓。あんなに高いところは、城に一つしかない。北の塔よ。テオさまはあの日、もうあそこにいたの」
「じゃあ」シリルの声が硬くなった。「あんたを追放した、この"証拠"は……」
「そう。南翼の子の落書きなんかじゃない。凍える指の子が、あの塔の中で綴った、いちばん最初の悲鳴なのよ」
シリルが息を呑んだ。だがネルの目は、まだ紙を離れなかった。
「でもね、シリル。これ、書いてあることだけじゃないの」
彼女は、四つの行の、いちばん最初の字を、上から拾った。まちがいさがしの、約束の場所を。
「た」
一行目の頭。
「す」
二行目。
「け」
三行目。
「て」
四行目。
ネルの指が、そこで止まった。声が、続かなかった。
「……たすけて」
やっと、それだけ言えた。
彼女は口を手で覆った。震えているのは、指ではなく、声のほうだった。
この子は、ほんとうのことを書いた。高い窓、北の海、三つの鐘、凍える指。ぜんぶ、いまいる場所の、ほんとうのこと。そのほんとうの一行ずつの、頭の字に、助けを折りたたんだ。読めるものをひとつも捨てず、読めないふりの下へ、いちばん読んでほしい言葉を隠して。
八つの子が。ひとりで。あの寒い塔で。
「……上手に隠したわね」ネルは掠れた声で言った。誰にともなく。「ほんとうに、上手」
ネルは、ようやく紙から目を上げた。だが頭のなかは、もう次の問いへ動いている。
「シリル。回復したっていう殿下は、いまどこに?」
「南翼だ。療養から戻られた、とみなが言っている。……だが俺は一度も、顔を見ていない」
「見せないの?」
「病み上がりだから、と」シリルは拳を握った。「だがおかしい。俺は三年、殿下のそばにいた。回復したなら、真っ先に俺を呼ぶはずだ。剣を見せろ、馬に乗せろ、とせがむ子だった。……なのに戻ってきた殿下は、俺を見ても瞬きひとつしない」
ネルの背に冷たいものが走った。
「顔だけ似せた子ね」
言葉にすると、それはあまりにも簡単に像を結んだ。本物のテオは北の塔に閉じ込められている。姿を見せない「回復した殿下」は、瓜二つの別の子。替え玉。
「なんのために」シリルが絞り出すように言う。
「摂政の座は、テオさまが成人すれば返さなきゃいけない」ネルは静かに答えた。「でも替え玉なら、傀儡なら、いつまでも操れる。本物のテオさまは『病死』ということにして、そのうち……」
その先を、彼女は言わなかった。言わなくても、二人の間にそれは重く積もった。無音が卓の上で固まっている。
「わからんことがある」シリルが低く言った。「摂政は、なぜわざわざ本物の作文を使った。無能の証拠がほしいだけなら、偽物を書けばいい」
「書けないのよ、あの人には」ネルは静かに答えた。「字が読めないんだもの。筆跡をまねた偽物なんて、作れない。誰かに頼めば、その誰かに弱みを握られる。だから本物を書かせた。テオさまご自身に」
「……皮肉だな」
「そう。無能の証拠がほしくて本物を書かせたら、その本物に、助けの声が仕込まれてた」ネルは作文を見つめた。「読めない人が、いちばん読まれたくないものを、自分の手で、みなに配ったのよ」
「間に合わなきゃ」ネルは立ち上がった。「お披露目が済めば、替え玉が本物になる。ほんとうのテオさまは『病死なさった』ことにされて、消される。それが済む前に、割らなきゃ」
「待て。あんた一人でどうする気だ。追放された身だぞ。城には入れない」
「入れるわよ。あんたがいるもの」ネルはシリルを見た。「それに、わたしにはこれがある」
彼女は作文を掲げた。
「無能の証拠、なんでしょう? だったらいちばん堂々と、城へ持って入れる」
その夜、二人は荷をまとめた。シリルが干した果実を差し出す。甘い。ネルは少しだけ笑った。
「なによ、ちゃんと甘い物、持ってたじゃない」
ひとつ口に放る。蜜が舌でほどけると、張りつめていた気持ちが、少しだけゆるむ。こういうとき、ネルは決まって口が速くなる。
「旅の甘い物は大事なの。頭が回るし、迷った道も選べる気がするし、なにより……こんな話のあとでも、笑えるもの。あ、しゃべりすぎた」
「あんたは甘い物を食うと、三割よく喋る」シリルの目もとが、わずかにゆるんだ。「腹が減ると口が悪くなって、甘い物で速くなる。昔から、変わらん」
「三年も見てたものね」
「見てた」シリルはぶっきらぼうに言った。それから耳の端を赤くして、付け足した。「……あんたの授業を、戸口で、ずっと」
ネルはそれには、すぐ返さなかった。無能と誰にも信じられなかった半年で、この男だけが一日も彼女を疑わなかった。それがどれほどのことか。
「シリル。あんた、字は読める?」
「読めん。恥ずかしながら」
「じゃあこれから、わたしが教えてあげる」ネルは干した果実をひとつ口に放った。「うんと上手にしてあげるから」
火が爆ぜた。シリルが、ぽつりと言った。
「あんたが追放されたと聞いたとき、追いかけようとした」
「なんで、来なかったの」
「役目があった。殿下を守らなきゃと思った」シリルは膝の上で手を組んだ。「……守れてなかったがな。あのとき、あんたの言うことを、もっと大きな声で信じればよかった」
「今、信じてくれてる」ネルは火を見たまま言った。「それで、じゅうぶんよ」
しばらく、火の音だけがした。この人の隣は、居心地がいい。認めるのは、少しだけ癪だったけれど。
膝の上の作文を、ネルはもう一度、灯りにかざした。撥ねの消えた名前。四つの行の頭に折りたたまれた、助けの声。半年前、みなが「無能の証拠」と嗤い、笑って回し見た一枚。
——今度は、あなたたちの前で読む。
読める者にだけ読める言葉を、読めなかった者たちの、目の前で。それが、この子のためにできる、いちばん静かな仕返しだった。
王都は、祝祭の気配に満ちていた。
「病より癒えた王太子殿下」の、お披露目の日。謁見の間は金と緋で飾られ、廷臣が居並んでいた。玉座の傍らに摂政ヴェルナーが立っている。その隣に、小さな影があった。
テオドール、とされている子。
ネルは回廊の柱の陰から、それを見た。遠目にもわかった。背格好は似ている。髪の色も。だが立ち方が違う。テオは退屈するとすぐ足を揺らす子だった。あの子は石像のように固まっている。怯えて。
「……気の毒に」
ネルは小さくつぶやいた。あの子もまた脅されているのだ。名も知らぬ、どこかの子が。
衛兵が扉を固めていた。だがその一人がシリルを見て、道を空けた。かつての同輩だ。シリルの目が何かを伝える。衛兵は迷い、それからうなずいた。
ネルはテオの作文を胸に、謁見の間へ足を踏み入れた。
金糸の礼装が、いっせいに振り返った。
「——何者だ」ヴェルナーの声が飛んだ。「その女、追放された身であろう。衛兵、つまみ出せ」
「摂政さま」ネルは深く礼をした。慇懃に。「ご無沙汰しております。無能な教育係の、ネル・オルグレンにございます。一つだけ、お返ししたいものがございまして」
彼女は、胸の作文を高く掲げた。
歩み出かけた衛兵の足が、止まる。廷臣の列が、どよめいた。
「あれは……半年前の」「殿下の、誤字だらけの作文」
好奇の目が、いっせいに一枚の紙へ集まった。ここで追放者を力ずくで引きずり出せば、なぜあの紙をそれほど遠ざけたがるのか、みなが訝るだろう。ヴェルナーにも、それがわかったらしい。次の「出て行け」は、すぐには飛ばなかった。
その隙が、ネルにはじゅうぶんだった。
「王太子殿下の作文でございます」ネルは玉座の傍らの小さな影へ、視線を向けた。「殿下。ご自分でお書きになったもの、覚えていらっしゃいますか?」
小さな影は答えなかった。ヴェルナーが代わりに笑った。
「無論だ。殿下がお書きになった。教育係が無能でなければ、あのような誤字だらけにはならぬ。……その紙は、貴様の恥そのものだ。掲げて、何になる」
「恥、でございますか」
ネルは一歩前に出た。作文を灯りにかざす。彼女の目が一字ずつを追った。撥ね。とめ。払い。にじみ。三年見てきた手が、そこにあった。
「では、まず一字」彼女は末尾を指した。「殿下は、お名前の終いにいつも小さな撥ねを書きます。ご自分のしるしとして。三年、身体に覚えさせました。寝ていても出るほどに」
彼女の指が署名の上で止まった。
「……ここには、ありません」
謁見の間が、しん、と静まる。無音が天井からゆっくりと降りてきた。
「摂政さまは、これを『名前も満足に書けぬ』とお笑いになった」ネルの声は静かだった。「けれど、逆でございます。忘れるはずのない撥ねが、消えている。これは事故ではありません。この子はわざと、消したのです」
「たわけたことを」ヴェルナーの声が少し速くなった。「たかが撥ね一つ」
「撥ね。ひとつ。それだけ」
ネルは三つの言葉を、置くように言った。
「けれど、その一つが消えている。この子はこう書いたんです。——これは、ほんとうのぼくじゃない、と」
彼女は玉座の傍らの子へ歩み寄った。石像のように固まった、小さな影へ。膝を折って、目の高さを合わせる。
「殿下」ネルはやさしく言った。授業のときの、あの声で。「まちがいさがし、しましょうか」
子どもがびくりと肩を震わせた。
「テオさまとわたしの、二人だけの遊びです。……ご存じ、ですよね?」
子どもは答えられなかった。目を泳がせ、助けを求めるようにヴェルナーを見上げた。ヴェルナーの顔から、鷹揚さがはがれ落ちた。
「まちがいさがしを、ご存じない」ネルはゆっくりと立ち上がった。「三年、毎日やった遊びを。……この方は、テオさまではありません」
謁見の間がどよめいた。ヴェルナーの声が、それを打ち消そうと跳ね上がる。
「言いがかりだ! 病み上がりで、遊びの一つや二つ、忘れることもあろう!」
「では、名前を書けなくなることも?」
ネルは作文の署名を、廷臣たちに示した。
「撥ねを忘れるほどご自分を忘れた殿下が、では、この作文の隠された言葉は、どうやって書いたのでしょう」
「隠された、言葉——」
「読める人にだけ、読めるように」
ネルは作文を、廷臣たちのほうへ向けた。震える誤字の海のなかから、四つの行を、指で示す。まちがいさがしの綻ばせ方をした、四つの行を。
「この、頭の字を。上から」
彼女は読んだ。テオが折りたたんだ言葉を、みなの前で、ひとつずつ、ほどいていく。
「『た』」
一行目の頭。
「『す』」
二行目。
「『け』」
三行目。
「『て』」
四行目。
ネルは指を空へ上げ、いま読んだ言葉を、大きく綴ってみせた。読めなかった者たちにも、形だけは見えるように。
「たすけて、と書いてあります」
謁見の間の空気が、抜けた。
「同じ四つの行は、書いてある中身でも、居場所を教えています。高い窓、北の海、三つの鐘、凍える指。……南翼のお部屋では、ひとつも見えない景です」ネルはまっすぐヴェルナーを見た。「本物のテオさまはいま、北の塔に閉じ込められている。あなたが、そうなさった」
「——シリル!」
ネルが叫ぶより早く、シリルはもう駆け出していた。謁見の間の扉が勢いよく開く。彼の足音が回廊を、北へ、遠ざかっていく。北の塔には番兵がいる。錠もかかっている。それでもあの男なら、なんとかする。ネルは、そう信じるしかなかった。
残されたヴェルナーが、写しの作文をひったくり、目に近づけた。裏返す。また表に返す。だがそこに並ぶのは、ただ黒い染みだ。一字も、意味を結ばない。
「た、たかが子どもの、いたずら書きだ! 頭の字を並べて言葉になるなど、こじつけに決まっておる!」
声が、上ずっていた。
「その女が、あらかじめ仕込んだのだ! 追放された恨みで、王家を貶めようと——おい、読め、誰か! そこに書いてあると言うなら、読んでみせろ!」
彼は傍の廷臣に、紙を突きつけた。だが押しつけられた男は、青ざめて後ずさる。読める者は、もう一人も、摂政の側に立たなかった。
その一瞬、ヴェルナーの目が、宙で止まった。作文の上を——撥ねの消えた名前と、四つの行の頭のあたりを、彷徨う。何かに気づきかけた目だった。あれは、いたずらではなかったのか、と。
だが彼は、すぐに顔を背けた。認めれば、半年ものあいだ、助けを求める甥の声を握りしめて笑っていた男になる。それだけは、できなかったのだろう。
「みな、聞くな。この女は、無能だ。半年前、諸君もそう言ったではないか。……そうだろう。そう、言ったはずだ」
だが、もう誰もうなずかなかった。読めもせずに甥を売り、名も知らぬ子を玉座の傍らに立たせた男の言葉には、もう重みが残っていない。金糸の礼装がひとつ、またひとつ、彼から後ずさっていく。
ネルはその様子を、静かに見ていた。胸が、すいた。読めもしない一枚で甥を売った男が、その同じ一枚に裁かれていく。——いい気味だ、と思うくらいは、してもいいはずだった。
早く。テオさまを、早く。あの寒い塔から。
どれほど経ったろう。回廊の奥から、足音が戻ってきた。二つ。大きいのと、小さいの。
シリルが抱えるようにして、一人の子を連れていた。やつれて、指先が墨で汚れた——けれど、まぎれもない、あの子だった。シリルの手の甲は、赤く腫れて、切れていた。塔の錠を、力ずくでこじ開けたのだろう。
「ネル、先生」
テオの声が震えた。ネルは膝から崩れそうになった。だがこらえた。ここで泣いたら、この子が心配する。
「テオさま」ネルはいつもの声を必死で作った。「宿題、拝見しました。……上手に隠せてましたよ」
テオの目にみるみる涙が盛り上がった。だが彼は、それをこぼさなかった。代わりに袖でぐいと拭って、胸を張った。背伸びをして。
「だって、ネル先生なら、ぜったい読んでくれるって」
その言葉が、ネルの半年を溶かした。
「おそくなって、ごめんなさい」ネルは、それだけ言った。
「ううん」テオは首を振った。「ぼく、まいにち、まちがいさがしのふくしゅうしてた。ネル先生に、あえたときのために」
ネルは、とうとうこらえきれなくなった。ここで泣いたら心配する。そう思っていたのに。膝をついて、墨で汚れた小さな手を、両手で包んだ。あたたかかった。生きて、ここにある手だった。
最後の証は、テオ自身が立てた。
ネルが差し出した筆を、テオは握った。震える手で羊皮紙に、自分の名を書く。テオドール。最後の一画で、彼の手は迷わなかった。上へ、はねる。
小さな撥ねが、そこに在った。
それから彼は、傍らの怯えた替え玉の子を見た。恨む目ではなかった。
「きみ、まちがいさがし、知らないでしょ」テオは言った。「ぼくが教えてあげる。……こわかったよね」
名も知らぬ子が、わっと泣き出した。
ネルは廷臣たちのほうを向いた。もう誰も、彼女を「無能」とは呼ばなかった。
「まちがいには、意味があるんです」
彼女は静かに言った。長広舌は要らなかった。
「この子は、ちゃんと意味を書きました」
摂政ヴェルナーが牢へ送られる列を、ネルは回廊から見た。
両脇を衛兵に挟まれた男は、手に一枚の紙を握り締めていた。あの作文の写しだった。彼はそれを何度も、何度も、目に近づけていた。
「たかが……子どもの……いたずら書きが……」
繰り返す声は掠れていた。指が震えていた。彼は最後まで、その紙の一字も読めなかった。撥ねの消えた名前も、四つの行の頭の字も。読める者を自ら遠ざけ、読めぬまま、自分の凶器を握り締めていた。
ネルは、それ以上は見なかった。ただ思った——この人は一度も、読もうとしなかったのだ、と。空も、人も、子どもの手も。
そのころ、王城の記録室で、記録官が名簿を開く。
羽根ペンの先が、ある一行の上をすべる。ヴェルナー・ザイツ。すっと、横に線を引く。墨は乾く前ににじみ、あっけない、細い一本の線になる。功でも罪でもなく、ただ一本の線で、その名が名簿から消える。
その名の残り方は、やがて辺境にも伝わった。ネルが文字を教えた村にも。
子どもらは、それを遊びの捨て台詞に使うようになった。喧嘩の仲直りに、あるいは負けた者をからかうときに。
「へーんだ。おまえなんか、子どもの手紙も読めない、摂政さまだ」
名は、そうやって残った。功で残るのでも、位で残るのでもなく。読めなかった男として。空の下の、いちばん小さな者たちの口に。——それが、どんな罰よりも、彼にはふさわしかった。
テオは復位した。
幼い王のもとには後見が要る。廷臣たちはこぞってネルに、教育係長の座を勧めた。宮廷の子弟すべての師となる、名誉ある地位を。
ネルは断った。
「わたしは、いちばん字を必要としている子のそばにいます」
その子は二人いた。一人は玉座の上の、幼い王。もう一人は——泣きじゃくったあと行き場を失っていた、替え玉の子だった。ネルはその子も村へ連れて帰ることにした。まちがいさがしを教えるために。
替え玉の子は、ルカ、といった。ネルが名を訊くと、蚊の鳴くような声でそう答えた。
「ルカ。いい名前ね」ネルは言った。「あなたのまちがいは、あなたのせいじゃない。……これから、いっぱいまちがえていいのよ。ぜんぶ、意味のあるまちがいにしてあげる」
ルカは、まだ怯えた目をしていた。だがテオが、その手を引いた。
「いこう。ネル先生の授業、すごく楽しいよ。ぼくが、いちばんの先輩だからね」
「テオさま」別れの日、ネルは膝を折った。「次のまちがいさがしは、あたたかい部屋でやりましょうね。北の塔じゃなくて」
「うん」テオは笑った。「こんどは、ぼくが勝つ」
「無理よ。わたし、負けたことないもの」
「え、まけたって、いつも言ってたのに!」
「あら。ばれちゃった」
テオのはじけるような笑い声が、謁見の間に響いた。半年前、ガラス越しに声が届かなかった子が、いま、腹の底から笑っていた。
城門で、シリルが待っていた。
「終わったな」
「終わったわ。……あんたの字の授業は、これからだけど」
「読めるように、なるか?」
「なるわよ。まちがえながら、ね」ネルは彼を見上げた。「まちがいには、意味があるの。知ってるでしょ?」
シリルは少し黙った。それから彼にしては長い言葉を、選んだ。
「なあ。……いちばんいい門出の日を」不器用に、彼は言った。「一緒に選んでくれないか。俺は暦も、うまく読めん。だが……ネル。あんたとなら、読める気がするんだ」
ネルの胸が、ひとつ、小さく跳ねた。
三年、この男はずっと「あんた」だった。名を呼ばれたのは、初めてだった。ネルはすぐには答えず、ただ、彼女を一日も疑わなかった男の、赤くなった耳を見ていた。
「いいわよ」彼女は笑った。少しだけ、声が湿っていたかもしれない。「でも覚悟してね。わたし、道はすぐ迷うんだから」
「知ってる」シリルは目を細めた。「だから、俺が隣にいる」
村へ帰る道すがら、テオから一枚の紙が届いた。使いの者が王都から、わざわざ運んできた。
開くと、そこには大きな字で、たった一言。
——ネル先生、ありがとう。
最後の、テオドール、という署名。その終いに小さな撥ねが、きちんとはねていた。強く、迷いなく、上へ。もう誰にも隠さなくていい、自由な手で書かれた、まぎれもない、その子のしるし。
ネルはそれを陽にかざした。
撥ねの在る名前が、白い紙の上であたたかかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「専門職ざまぁ」の王道ストーリーです。今回はあえて、いちばん責められやすくて、いちばん名の残らない仕事——「教育係」を選びました。生徒がうまくいけば当たり前、しくじれば先生のせい。「無能」と言われても言い返しにくい立場です。だからこそ、その弱点を物語のエンジンにしたいと思いました。
まちがいは、無能の証拠ではありません。「なぜそう書いたのか」を読む技術がある人にとっては、まちがいこそが、いちばん雄弁な言葉になります。テオが名前の撥ねを消したのも、四つの行に「たすけて」を隠したのも、ぜんぶ、まちがいの形をした必死の意味でした。読める者にだけ、それが助けの声に聞こえる。読めなかった摂政は、自分の凶器を、読めぬまま握り締めていた——ここが、この話でいちばん書きたかったところです。
ネルが長い断罪をしないのも、こだわりです。彼女は撥ね一字を指して、遊びをひとつ持ちかけるだけ。声を張らず、事実で刺す。子どもの字が、いちばん強い証拠になる。テーゼの「まちがいには、意味がある」に、全部込めました。
◇◆◇ 「断罪令嬢は鮮やかに嗤う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄、追放、断罪。切り捨てられた令嬢の専門性が抜けた瞬間、領地は・王城は・国は、音を立てて綻んでいく。設定の切れ味と、因果がドミノ倒しに連鎖する痛快な逆転。一話完結・どこから読んでも爽快なざまぁ短編集です。
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