第2話 奴隷少女と、はじめての帰り道
「……あの、本当に……いいんですか?」
後ろから、か細い声がついてくる。
振り返ると、さっきの奴隷少女が、少しだけ距離を詰めて立ち止まっていた。
首にはまだ、鉄の首輪。
不安そうに俺の顔を見上げている。
「今さらだろ。もう金は払った」
俺は軽く肩をすくめる。
奴隷商のところで手続きを済ませ、少女は正式に“俺の所有物”になった。
……なんて言い方は好きじゃないが、この世界ではそれが現実だ。
「で、お前――名前は?」
「……まだ、ありません」
少しだけ俯きながら、少女は答える。
その声は小さいが、はっきりと聞こえた。
「前の持ち主が……必要ないって」
――名前すら、なかったのか。
胸の奥に、わずかな違和感が広がる。
「じゃあ、今決めるか」
「え……?」
少女が顔を上げる。
驚いたように、目を丸くしていた。
「呼びにくいしな。いつまでも“おい”じゃ困る」
そう言うと、少女は少しだけ戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……はい」
少し考える。
似合いそうな名前。
呼びやすくて――
どこか柔らかい響きの。
「……リナ」
自然と、その名前が口から出た。
「今日から、お前はリナだ」
「……リナ」
少女は、自分の名前を確かめるように呟く。
そして――
ふわりと、笑った。
それは、さっきまでの怯えた表情とはまるで違う、柔らかい笑顔だった。
「……ありがとうございます、アルト様」
「様はいらない。アルトでいい」
「で、でも……」
「いいから」
少し強めに言うと、リナはびくっと肩を震わせた。
……言い方、ミスったか。
「……わかった。無理に変えなくていい」
「……いえ、呼びます」
リナは小さく首を振る。
そして、少しだけ恥ずかしそうに口を開いた。
「……アルト」
たったそれだけなのに。
妙に、くすぐったい。
「……それでいい」
俺は視線を逸らしながら答えた。
そのまま歩き出す。
すると――
すぐ後ろから、足音が近づいてきた。
カツ、カツ、と軽い音。
そして――
ぴと。
腕に、何かが触れた。
「……おい」
「は、はい……!」
見れば、リナが俺のすぐ隣に並んでいる。
いや、近い。
近すぎる。
腕が軽く当たっているし、少し動けば触れそうどころか、普通に触れている。
「……なんでそんな近い」
「……だめ、ですか?」
不安そうに見上げてくる。
その距離のまま。
近い。
普通に近い。
「いや、だめじゃないが……」
なんとなく落ち着かない。
けど、離れろとも言いづらい。
「……離れたら、見失いそうで」
リナがぽつりと呟く。
「……知らない場所で、一人になるのが怖いんです」
その言葉に、さっきまでの違和感がすっと消えた。
ああ、そういうことか。
「……好きにしろ」
結局、それしか言えなかった。
「……はい」
今度は、少しだけ嬉しそうに返事をする。
そのまま――
距離は縮まったまま。
むしろ、ほんの少しだけ近づいた気がする。
……気のせいじゃないな。
「……アルト」
「なんだ」
「……あの」
言いかけて、やめる。
そんな仕草を何度か繰り返したあと――
「……呼んでみたかっただけです」
そう言って、小さく笑った。
――距離、近い上に、懐くの早いな。
そんなことを思いながら、俺は小さく息を吐く。
だが、不思議と嫌じゃない。
むしろ――
さっきまでより、少しだけ気分が軽い。
「……もうすぐ着く」
「はい」
視線の先には、俺が借りている小さな家。
大したものじゃないが、雨風はしのげる。
「ここだ」
「……ここが」
リナは少しだけ目を輝かせる。
期待と、不安が混ざったような顔。
「入れ」
扉を開けると、リナは一瞬だけためらってから、中へと足を踏み入れた。
その瞬間――
「……あ」
小さく声を漏らす。
「どうした」
「……あたたかい、です」
それは、家のことを言っているのか。
それとも――
別の何かを感じ取ったのか。
わからない。
けど、その表情は、さっきよりもずっと柔らかかった。
「……今日からここで暮らす」
そう言うと、リナはゆっくりと振り返る。
そして――
ほんの少しだけ距離を詰めてきて。
「……よろしく、お願いします」
そう言って、頭を下げた。
その距離は、やっぱり近いままで。
――ああ。
これは、思っていたよりも賑やかな生活になりそうだ。




