第1話:深夜の足音
迷惑な足音の正体は? 元ITエンジニアのじさまが、偏見と妄想で隣人の心を解き明かす。
午後3時。秋の日差しが、コミュニティ室の安っぽい木目調テーブルを照らしている。
俺、斎藤譲(60歳・無職・元ITエンジニア)は、ぬるくなった缶コーヒーを片手に、二人の住人の愚痴を「デバッグ」していた。
「最近、夜眠れなくて……」
ミドリさん(58歳・主婦)の声は、いつもの明るさが消え、どんよりと濁っている。
「上の階から、ドンドンって音がするんですよ。夜11時過ぎまで。非常識にもほどがあるわ」
「うちもですよ」
タカさん(65歳・元銀行員)が、神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ドタドタと、子供が暴れ回るような音だ。最近の親はどうなっているのか。管理人さんに突き出すべきですよ、あんな連中」
二人の言葉は、徐々にトゲを帯びていく。
「きっと、自分勝手な親なのよ」
「集合住宅のルールも知らないんでしょうな」
……やれやれ。これだ。
人は正体が見えないものに対して、まずは「悪意」を投影する。
俺は、飲み干した缶コーヒーをテーブルに置いた。
――カツン。
乾いた音が響く。俺の脳内で、バラバラだった情報の断片が、コードのように繋がり始める。
「じさま、聞いてるの?」
「ああ、聞こえてたよ。上の階が『悪の巣窟』か何かだって話だろ?」
「そんな言い方してないわよ!」
ミドリさんが食ってかかるのを、俺はひらりと受け流した。
「まあ、俺の『妄想』なんだけどさ」
俺はあえて、とぼけた顔で切り出した。これが俺の流儀だ。意見ではなく、あくまで「妄想」だと言い張ることで、相手の警戒心を解く。
「妄想だけどさ、その上の階の住人、今ごろ胃に穴が開く思いをしてるんじゃないかな」
「はあ? 胃に穴?」
タカさんが怪訝そうな顔をする。
「そう。子供ってのは、親が『静かに』って言った0.5秒後には走り出すバグみたいなもんだ。親は必死で止めてる。でも止まらない。時計を見るたびに『下の階の人に殺されるかもしれない』って震えてる……そんな妄想だよ」
「そんな、大げさな……」
「想像してみろよ。もし自分が、誰かに迷惑をかけてると分かっていて、でも止められない状況に置かれたら? 謝りに行こうにも、タカさんみたいな怖い顔した銀行員がドアを開けたら、言葉も出なくなるだろうな」
「……私はそんなに怖い顔はしていない」
タカさんが少し口ごもる。
「一言、『すみません』があれば、あんたたちも『お互い様』って言える。でも、その最初の一歩が、今の日本じゃエベレストを登るより高いハードルなんだよ」
その時、コミュニティ室のドアが重苦しく開いた。
入ってきたのは、30代前半の若い女性。目の下には、絵に描いたようなクマがある。
「あ……すみません。ここ、使ってもいいでしょうか。子供を公園で遊ばせてきたんですけど、家に戻るのが少し……怖くて」
女性は、ボロボロになった知育絵本を抱えていた。
ミドリさんとタカさんが、息を呑んで顔を見合わせる。
「お子さん、元気なのね」
ミドリさんの声が、先ほどより少し柔らかくなった。
「はい……3歳で。夜も走り回ってしまって。本当に申し訳なくて……。下の階の方に、どう謝ればいいのか毎日悩んでいて……」
女性の目から、一粒の涙がこぼれた。
俺はそれを見届けてから、タカさんの背中をポンと叩く。
「ほら、妄想が当たっちまったよ。あとのフォローは『元・プロの銀行員』の仕事だろ?」
一週間後。
タカさんの家には、上の階から防音マットを敷いたという報告と、丁寧な挨拶があったという。
「じさま、また当たりましたね」
「たまたまだ。俺は暇つぶしに『もしも』を考えてるだけだよ」
俺は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てる。
さて、次は第2話。
「ところで、最近ゴミ置き場が荒れてるわよね」
ミドリさんが不機嫌そうに切り出した。
俺は歩きながら、心の中でコードを書き換える。
分別できないゴミ。マナーの悪い住人。
……いや、待てよ。本当に「マナーが悪い」だけか?
もし、その人が「分別したくてもできない理由」があるとしたら?
俺の「妄想」という名のデバッグは、まだ始まったばかりだ。




