第7話 手紙 黒野目線
2023年 10月9日 月曜日
「おはよう黒野君」
目が覚めると美亜ちゃんがまだいる事に安堵している自分に気がつく。
「おはよう」
でも、今日は仕事に行かなくてはいけない。
彼女も何かをして暇を潰す必要があるだろう。
そこで、尋ねてみると、「クラシック音楽をエンドレスで流してくれれば、それでいいよ」と答えた。
僕は「クラシックベスト50」を選んで流すと、静かに音楽に耳を傾け出した。
時刻は7時30分、家を出る時間だ。
「もう、行くね」
ちょうどその時、スメタナの『モルダウの流れ』が流れ始めた。
すると、突然美亜ちゃんが立ち上がり、指揮者の真似を始めた。
思わず吹き出してしまった。
「仕事頑張ってね!」
「18時30分ごろには帰るから。手紙の内容考えておいてね。いってきます!」
「いってらっしゃい!」
その瞬間、僕はこのマンションに引っ越してきてから、誰かに「行ってらっしゃい」と言われたのは、これが初めてだということに気づいた。
* * *
仕事を終え、夕方家に戻る前に、ふと忘れていたことに気づいた。
電気をつけることだ。
どうやら、幽霊も、電気がないとよく見えないと昨日言っていた事を思い出す。
「ただいま…」
玄関のドアを開けると、薄暗い室内にはエンドレスでかけたままのクラシックが小さく流れていた。
曲はラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
その静かな旋律が、部屋の空気に妙な寂しさを感じさせた。
僕は急いで電気をつけたが、美亜ちゃんの姿は見当たらなかった。
リビングを見ても、寝室を覗いても、キッチンやトイレ、浴室、ベランダ……どこにもいない。
「……美亜……?」
胸がざわざわと不安でいっぱいになる。
あの明るい笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれた美亜ちゃんは、どこに行ってしまったのだろう?
もしかして、少し早く成仏してしまったのか?
まあ……それなら、しょうがないか……。
まさかと思いながら、最後の望みをかけてクローゼットを開けると、そこに美亜ちゃんが丸くなって隠れていた。
「おかえり!!」
満面の笑顔でそう言われると、僕はほっと胸を撫で下ろした。
緊張が一気に解け、心の中に温かさが広がる。
その瞬間、部屋にはベートーヴェンの『交響曲第7番第1楽章》に切り替わった。
「…ぴったりだな、今の気分に…」
そう呟きながら、泣きそうになるのを必死に堪えていた。
ほんの1日一緒にいただけで、こんなにも情が移ってしまうなんて、思ってもみなかった。
「…黒野君…」
やばい…。
動揺しているのがバレたか?
「今日は、手紙を書くからね」
あえて硬い声でそう告げた。
「うん」
美亜ちゃんも、ふっと神妙な顔つきになった。
明るく振る舞っている彼女が、大切なことをしっかりと受け止めているように見えた。2人とも言葉少なになる。
夕食を終えると、僕たちはすぐに手紙を書く準備を始めた。
字がめちゃくちゃ下手な僕が書く、ただでさえ怪しい手紙。
あの字で「セリーヌの肝臓が」とか書いたら…。
それは完全な「怪文書」だ。(笑)
プリンターがないけど、パソコンで書こう。
「今から入力するから、手紙の内容をゆっくり話してね」
「はい。宜しくお願い致します」
急に敬語でお辞儀をした美亜ちゃんに、思わず笑いそうになったが、彼女の真剣な表情を見てすぐに気を引き締めた。
「では、ゆっくり喋ります」
美亜ちゃんは、僕がタイピングしやすいように、ゆっくりと話し始めた。
その内容は、言葉が詰まることなくスムーズに進み、僕はただ彼女の言葉を忠実に入力するだけだった。
頭の回転が早く、物事を的確に伝える能力には、感心させられる。
親愛なる美亜へ
この手紙を読んでいるあなたは、おそらくまだ12歳の美亜だと思います。この手紙を書いているのは、少し未来の美亜です。驚くかもしれないけれど、今から伝えることを信じてほしいのです。
セリーヌは家族で、あなたにとって大切な存在だから、このことを早く知って、彼女を救ってあげたいと思って手紙を書いています。セリーヌは今、元気そうに見えるけれど、実は肝臓に問題を抱えています
最近、少し疲れやすくなっていると感じたことはありませんか?以前より昼寝の時間が長くなっていたり、散歩の途中で座り込んでしまうことはないでしょうか?ごはんを食べる量が少し減ったり、毛並みがいつもより元気がないように見えたりすることはありませんか?
また、セリーヌを撫でたとき、お腹が少し硬いと感じることはありませんか?
肝臓の病気はすぐに目に見える形で症状が出るわけではありませんが、早めに気づくことができれば、治療できる可能性があります。
私しか知らないことを少し話しますね。セリーヌは散歩の時、いつも同じ道の電柱で必ず止まってにおいを嗅ぐのが好でしたよね。
そして、夜寝る前には、必ずあなたのベッドの隣で静かに座っていましたね。ピアノを弾いている時、そっとあなたの足元に寝そべっていますね。
そんなセリーヌを、これからもずっとそばにいてあげたいなら、どうかこの手紙を信じて、パパとママに話してほしいと思っています。
肝臓の病気はすぐには目立たないけれど、早めに気づけば治療できる可能性があります。病院に連れて行って、きちんと診てもらってください。きっとパパもママも理解してくれるはずです。
どうか、この手紙を信じて。セリーヌのために、できることをしてあげてください。
未来の美亜より
「入力終わったよ。この部屋にはプリンターがないから、コンビニで印刷するんだ」
「ありがとうございました。コンビニで印刷するのですね?」
美亜ちゃんは再びお辞儀をした。
「……急に敬語になったね……」
「はい。何かお願いする時はきちんとした敬語でって…母に言われておりますので…」
「ここにくる時は全てタメ口だったでしょう?勝手についてきて!」
「えっ、そうだっけ??」
美亜ちゃんは舌を出しておどけている。
「はは!」
僕も思わず笑顔になり緊張が解ける。
「今からプリントアウトしに、一緒にコンビニに行く?」
「うん、いく!」
歩いて3分ほどのところにセブンイレブンがある。
店に入って、まずは手紙をプリントアウトした。ついでに今日の夕食用に弁当を買うことにした。
「今日は作らないんだね」
美亜ちゃんが少し不思議そうに言う。
「手紙を書くのに少し時間がかかると思ってね。でも、よどみなく話してくれたから早く終わったよ。でもついでに買うの」
「黒野君が仕事に行っている時に、手紙の内容を考えておいたからね」
美亜ちゃんは微笑んだあと、少し気まずそうに続けた。
「でも、ごめんね。私が夕飯作ってあげられなくって……」
「ご飯作るどころか、クローゼットに隠れて驚かせただろ!?」
「ハハハ!」
そう言うと楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ふと僕は思った。美亜ちゃんは、まだ子供らしい一面を持ちながらも、確実に大人へと向かっているんだろう。
さっきの敬語の使い方や、真剣に手紙を書こうとする姿勢、そして、僕との会話で見せる無邪気さのバランス……その全てが、彼女がちょうどその境目にいることを感じさせた。
帰り道、街灯が少ない暗がりの道端に、キジトラの野良猫がいた。
よく見かける猫で、いつもこちらをじっと見ているくせに、近づくとすぐに逃げてしまうのだ。
「美亜ちゃん、行ってきな。僕はここにいるから…」
そう言う前から、彼女はすでに猫に近づいていた。
しゃがんで、顔を猫に近づけ「ミャー」と鳴き真似をしている。
当然猫はその姿に気づく事はない。
僕も、少し離れたところから「ミャー」と真似てみた。
その瞬間、猫はビクッと反応して、すぐにどこかへ走って行ってしまった。
「余計なことしないでよ!」
美亜ちゃんが振り返り、怒った顔をした。
僕は思わず笑ってしまったが、本気で睨まれた。
家に帰ると、僕たちは鮭弁当を2人で分けた。
結局、美亜ちゃんは食べられないから後で僕が全部食べることになるのだが、なんとなく一緒に分けるのが習慣になりつつある。
「明日、仕事が終わったら手紙を出しに行ってみる?」
僕はふと切り出した。成仏までにはまだ時間がある。でも、本当に都合のいい時代に戻れるかどうか、確証はまったくなかった。
「うん…」
美亜ちゃんは小さく頷いたが、その表情にはどこか迷いが残っているように見えた。
「もし過去を変えて、セリーヌも私たち家族も助かったとしても、今の私たちの記憶は新しい記憶に置き換わって、なくなっちゃうかもしれないのよね……」
美亜ちゃんが少し考え込むように言葉を紡いだ。
僕は一瞬黙り込み、どう答えるべきか迷ったが、結局こう言った。
「とりあえず、まずは美亜ちゃんの家族全員が助かることを考えようよ」
「でも、私ね…黒野君とのこと、忘れたくない。このことも手紙に書いておきたい、追加していいかな?」
「それは難しいと思うよ」
僕は少し固い声で返した。
「何で?」
「まず、過去の美亜ちゃんが混乱すると思うんだ。ただでさえセンシティブな内容なのに。あまり複雑にしない方がいいと思う」
「……まあ……それはあるかも」
「それに、仮に手紙に書けたとしても、過去を変えたことで未来も変わるから、僕たちが出会ったこと自体がなくなる」
「……なるほど……」
「そうなると、この手紙自体が消えてしまうはずだ。だから、手紙の内容はセリーヌのことだけにしないといけない。わかるよね?」
僕はなるべく冷静に、かつ毅然とした態度で言った。美亜ちゃんを納得させるためには、感情ではなく理屈で説明するしかない。
「理屈はわかったわ」
「今日、手紙を出しに行く?」
僕はなるべく軽い口調で聞いたが、正直なところ、これ以上美亜ちゃんに情が移るのを防ぎたいと思っていた。別れが辛くなりすぎる気がしていたからだ。
「嫌だ。明日がいい…」
少し拗ねたような声で答えた。
「うん」
僕は無理にせかすのはやめた。
すると、美亜ちゃんは甘えるような声で続けた。
「今日も一緒に映画見ようよ。今日はアラジンの実写版が見たいな…」
彼女の無邪気な提案に、僕は思わず微笑んでしまった。まだこうやって僕と一緒に過ごす時間を大切にしてくれているのだ。
* * *
映画を見終わると、美亜ちゃんがふと思い出したように言った。
「昨日のシンデレラは王子様と一般市民、今日のアラジンは一般市民とお姫様の結婚だったね…」
「確かに逆だね。でも、アラジンはただの一般市民というより元は泥棒だったけど」
「うん、でも素敵だと思う。元泥棒とお姫様が結婚するなんて、なんだか私たちみたいだね。私が『お姫様』で、黒野君が『元泥棒』」
「元泥棒?」
美亜ちゃんは艶めかしい声で囁く。
「そう、私の『宝物』持ってったでしょう」
その言葉に僕は一瞬、どう反応すべきか分からなくなった。
「だから、私たちみたい。手紙を出して、私が無事に大人になれたら…ね」
そう言うと、美亜ちゃんはつぶらな瞳で僕を見つめた。




