第59話 いってらっしゃい 美亜目線
2023年5月
ゴールデンウィーク明け。
ついに、今日はママがイギリスへ発つ日だ。
今、私たちは夕霧空港の出発ロビーにいる。
黒野君は仕事で来れないので、見送りは私だけ。
「早めに着いてよかったわね」
ママが笑う。
私は小さくうなずきながら、ふとロビーの一角に目を向けた。そこにはストリートピアノがあった。
黒野君お気に入りの場所だ。
ママに「行ってきな」と目で促されて、私はゆっくりとピアノに向かって歩き出した。
今日、この瞬間のために弾きたい曲が、自然と心に浮かんできた。
私はそっとピアノに近づき、指先を鍵盤に置く。
この旅立ちの日に、ふさわしい曲はもう決まっていた。
ドビュッシー《夢》。
静かに、1音目を紡ぐ。
澄んだ旋律が空気に溶けて、空港のざわめきが、すっと遠ざかる。
音が、心を震わせる。
涙、すれ違い、許し合えた日、たくさんの笑顔と愛情…。
ママと仲直りしてから、1年半。
生まれてから今までの時間に比べれば、たったの1年半かもしれない。
だけど、私にとって、この1年半は《夢》の様な日々だった…。
あふれる想いが、指先からあふれていく。
楽譜のテンポ無視でゆったりと弾く。
気づけば、周りに人だかりができていた。
空港と言う事もあり、聴いてくれている人達にも様々な出会いと別れがあるのだろう。
でも、私は今はママだけの為を思って弾いた。
ママをふと見ると、ハンカチで目頭を抑えながら私の演奏を聴いていた。
それを見たら、もう私も胸がいっぱいになった。
以前ママは泣くことなんて全くなかったのに…。
最近は、些細なことでも涙を流す事が多い。
私と一緒だね…。
最後の和音をそっと置いて、音を閉じる。
静寂のあと、たくさんの人が、惜しみない拍手を送ってくれていた。
一礼してママのところに向かうと、人目をはばからず私を抱きしめた。
「美亜……本当にありがとう…最高の《夢》だった」
震える声でそう言ってくれた。
「ママ……ありがとう。大好き…。幸せになるんだよ…」
私も、涙を拭いながら答えた。
「美亜、そう言うセリフは普通はね……親が言うの」
「ふふっ…じゃあ一緒に幸せになろうね?」
「うん!」
ママが搭乗するのは、ブリティッシュ・エアウェイズ、ロンドン・ヒースロー空港行き。
白地にユニオンジャックの尾翼が映える、大きな機体が、大きな窓の向こうに静かに待っているのが見える。
「やっぱり、ブリティッシュ・エアウェイズ、カッコいいね……」
私がつぶやくと、ママは少しだけ得意そうに微笑んだ。
「でしょう? 私、やっぱりこの青と赤と白が好きなの」
サバサバとした口調の中に、どこか少女のような高揚感が混じっている。
搭乗案内が始まり、ママはサングラスをかけゆっくりとゲートに向かって歩き出す。
背筋を伸ばして、颯爽とした足取りで。
「いってらっしゃい!」
「美亜〜いってきます!」
パパを見送った時とは全然違うな……。
ママは名残惜しそうに、何度も何度も振り返っては、私に手を振ってくれる。
私もその度に両手をいっぱいに広げて、大きく振り返した。
* * *
その後、離陸を見るために展望デッキに出た。
清々しい5月の風が頬を撫でる。
タキシングを終えたブリティッシュ・エアウェイズの白く美しい機体が、滑走路に進入していく。
やがて、轟音と共に徐々に加速していくと、角度をつけて浮き上がった。
「行ってらっしゃい、ママ……」
飛び立った機体が青空に溶けていくのを、私は見えなくなるまで見送った。
これは、悲しい別れじゃない。
未来へ続く、希望の旅立ちだ――そう心から思った。
2023年6月
朝5時。まだ空が薄暗いころ、私は目を覚ます。
スマホのアラームは、ベートーヴェンの《第九》だ。
隣には、ぐっすり眠っている黒野君と、ベッドの真ん中で丸まっているセシル。
小さく伸びをしてから、そっとベッドを抜け出した。
「起きるよ、セシル。黒野君も」
優しく声をかけると、セシルがぱたぱたと尻尾を振りながら起き上がる。
黒野君も、眠そうな顔でゆっくり体を起こした。
3人で支度を整え、まだ静かな街へランニングに出発する。
セシルは走るのが大好きで、私たちの前を軽やかに駆けていく。
6月の朝は走ると暑いけど、流れる汗が心地よい。
終盤には森の小道をゆっくりと歩く。
湿った土の匂い、鳥たちのさえずり。
セシルも嬉しそうに鼻をひくひくさせながら、柔らかな草の上を踏みしめる。
家に戻ると、そのままシャワーへ。
ランニングでかいた汗をすっきり洗い流す。
その後は、プロテインとフルーツ入りスムージーを1杯。
これが私の朝のルーティンだ。
体に染みわたるのを感じながら、歯磨きをして、髪を乾かす。
それから、リビングへ降り、グランドピアノに向かう。
朝の1曲――今日は、モーツァルトのピアノ・ソナタをそっと弾いた。
静かに広がる音に、心も自然と整っていく。
ピアノを弾き終えたら、アンティークのドレッサーの前へ。
クラシック音楽をBGMに流しながら、ゆっくりと化粧をして身支度を整える。
この瞬間、スイッチが「医師モード」に切り替わるのを感じる。
そして、通勤用のブラックコーヒーをタンブラーに注ぎ込む。
制服代わりのシンプルなワンピースに袖を通し、白衣をたたんでバッグに収めたら、ママから譲り受けたターコイズブルーのアウディTTへ乗り込む。
もちろん、今日もオープンにして。
運転席に座ると、コーヒーの香りがふわりと立ち上った。
サングラスをかけ、深く息を吸い込む。
「さあ、行こう!」
朝陽を浴びながら、今日も新しい一日が始まる。
* * *
ある朝、郵便受けを覗くと、1通のエアメールが届いていた。
差出人は――ママ。イギリスからだった。
さっそく開封して、中に丁寧に折りたたまれた手紙と、何枚かの写真が入っていた。
親愛なる美亜、黒野君へ
イギリスに参りましてからのご報告が遅くなりましたが、先日、無事にジェームズと再び籍を入れ、正式に夫婦に戻ることができました。
これもひとえに、あなたたち2人の温かい支えがあったからこそと、心より感謝しております。
マーガレットにも、快く認めていただけました。
「これからは家族として、互いに支え合いなさい」と、あたたかい言葉をかけていただき、胸がいっぱいになりました。
牧場の仕事にも、少しずつ慣れてまいりました。日本でのアルバイト経験が、とても役立っております。
毎朝、羊たちとジョーイと共に早朝の散歩に出かける時間が、何よりの楽しみになっております。
コッツウォルズの朝靄に包まれた風景は、まるで絵本の世界のように美しく、心が洗われる思いです。
美亜も、黒野君も、それぞれに新しい生活を頑張っていらっしゃることと思います。
どうか無理をなさらず、お体を大切になさってくださいね。
またいつか、皆で笑顔で再会できる日を心より楽しみにしております。
コッツウォルズより愛をこめて
Reiko Smith
同封されていた写真にの1枚目は広大な草原と、そこを歩くママ、パパ、そしてジョーイの姿が。
おばあちゃんに頼んで撮ってもらったのだろうか?
2枚目の写真には笑顔のおばあちゃんが花でいっぱいの家の前で立っている。私達が植えた花がより成長して、更に綺麗になっている。おばあちゃんも笑顔で元気そうだ。
3枚目の写真は、パパとママが並んで婚姻届を広げているものだった。
2人とも、眩しいくらいにいい笑顔で――。
ああ、本当に、本当に、よかったんだなって、自然と涙が込み上げてきた。
私は写真を胸に抱きしめ、そっと目を閉じた。
よかった。
本当によかった。
心の奥から、あたたかい光が広がっていくのを感じながら、私は静かに、小さな声で呟いた。
「ママ、パパ……おめでとう。そして、ありがとう」




