第58話 森のコテージ 美亜目線
2023年4月
4月から夕霧大学附属病院での研修医生活が始まった。朝は早く、夜は遅い。当直で病院に泊まりの日もある。
初期研修では内科も外科も小児科も、あらゆる科をローテーションで回る。目の前の患者の命に向き合いながら、医療チームの一員として着実に経験を積まなくてはいけない。
覚える事が無限にあって、本当に大変だけど、ようやく叶った夢だ。たくさんの人を助けて笑顔にできる様に頑張りたい。
* * *
ママは、3月いっぱいで牧場のアルバイトを辞めた。1年以上の勤め上げたその背中は、とても逞しく、パパの牧場でも活躍できるだろう。
今は再婚とイギリスへの移住に向けて、引っ越しや手続きの準備に追われている。
旅立ちは、ゴールデンウィークが明けてすぐ。チケットが安くなる時期だ。一緒に過ごせる日々は、もうそう多くはない。だから、近場ではあるけれど、3人でささやかな“春の小旅行”を計画している。
2023年5月
今日は、私たち家族でキャンプに来ている。もちろん、セシルも一緒だ。といっても、テントではなく、おしゃれなログハウス風のコテージだ。
立派なお風呂やキッチンも完備されていて、庭にはテラス席で焚き火もできる。ママがもうすぐイギリスに行ってしまうから“思い出作りに”と考え、奮発して選んだ。
コテージの中は木の香りがふんわりと漂っていて、窓の外には新緑が揺れている。小鳥のさえずりも心地よくて、コテージの間隔も離れているから、本当に静かで癒される。
テラス席の焚き火台で私が火を起こすと、すぐに柔らかく炎が立ち上った。
ママはその横の椅子に座って、セシルを撫でながら赤ワインを飲んでいる。ワンコインの安いものだけど、お気に入りのワイングラスを持参している。優雅に見えるのはさすがママだ。
隣に座っている黒野くんも、リラックスして見える。まだ午後の3時だけど、焚き火をしていると、時間の感覚が一気にゆるんだ気がした。
私と黒野くんは、やかんをかけて、お湯が沸くのを待ちながら、コーヒーを淹れた。
Bluetoothのスピーカーから流れている曲はバッハの「無伴奏チェロ組曲」。
むせび泣く様なチェロの音色と焚き火とコーヒーの香り。
ママの髪が、風にふわっと揺れた。
「美亜は焚き火が好きね?コテージにコンロや電子レンジもあるのに」
「うん、焚き火大好き。でも、今日はちょっと奮発し過ぎたよ。これじゃあ普通の家だよね?
私はね、サバイバルみたいな感じが好きなの」
「このコテージ、コンロや電子レンジだけじゃなくて、テレビや冷蔵庫、エアコンまであるわよ。せっかく、こんな綺麗な所に来てテレビなんか見る人の気がしれないわね?」
ママがそう言って笑う。
「え〜、ママは昔、貸別荘に行った時にはテレビばっかり見てたのに。よく言うよ」
「ふふっ、確かにそうだったわ。でも今は、テレビなんて全く見ないわね」
「確かに…麗子さんはテレビ見ている時間があるならの今は“花”ですね?」
「その方が楽しいわね」
「はははっ」
焚き火の揺れる炎が、みんなの頬をあたたかく照らしていた。静かな5月の夕暮れ、コテージの前で、なんでもない会話が続いていく。
どうしても、話さなきゃいけない事がある。言うなら今がチャンスだろう。
「ママ、どうしても言わなくちゃいけないことがあるの」
「何かしら?」
「あの……御曹司とのトラブルと、私がひどく塞ぎ込んでいたこと。あれね……全部演技でした。結城龍星くん、実は知り合いなの……」
躊躇いながら、私は言葉を紡いだ。
「……えっ……?」
ママの目が、少し大きく見開かれる。
「龍星君、私たち共通の知人なの。もともとは黒野君の中学の同級生で……黒野君からいじめから救ってもらったり、高校の野球の試合でデッドボールを当てて怪我をさせてしまったり。どうしても、彼なりの形で恩返しがしたかったみたいで……」
「……?…」
まだ、話がわかっていない様だ。
「ママに声をかけた龍星君のお父様も協力者だったの」
しばらく沈黙があって、ママがゆっくりと口を開いた。
「…全然…気づかなかった…。だって、あの方、本物の結城グループの社長でしょう?」
「うん、本物の社長さん。黒野君がいじめを助けた時に両親が自宅に直接お礼に来たんだって」
「そんな事があったのね?」
「龍星君がデッドボールで怪我させてしまった時にね、私、黒野君の家にお見舞いに行ったんだけれど、その時にすでに2人がいて、そこで知りあったんだ」
「そうだったのね?でもよかった。だって……美亜が、酔ってマンションに連れ込まれてひどいことをされたんじゃないかってずっと思ってたから…」
ママの声が震えていた。
「うん、それは違うんだ。龍星君とお父様の疑いを、どうしても晴らしたくて…本当は『言わなくていい』って言われてたんだけど…」
「うん、教えてくれてありがとう」
「それより……ママが“私の身体”のことを1番に心配してくれていたのが、すごく嬉しかった」
ママは、そっと微笑んだ。
「うん…“美亜が何もされていない”って知れたのが1番よ。私にもいい薬になったから、これでよかったのよ…。黒野君、美亜、本当にいい友達を持ったわね」
「はい!」
「そろそろ夜ご飯の支度しようか?今日は私たち2人で作るからママはゆっくりしていてね」
「まあ、うれしいわ。お言葉に甘えさせてもらうわね」
ずっと、言いたかった事が言えて本当にスッキリした。
私たちが作ったのは、ピザとパスタ、サラダ、そしてコンソメスープ。セシルにも特製の肉料理を用意した。
リビングのテーブルを囲み、語らい合う夜。セシルは私たちの足元で静かに丸くなり、安心しきった顔で眠っている。
この先、お父さんのところにはたくさんの羊たちとジョーイがいる。私たちにもセシルがいるので2人が一緒にイギリスにいく事は難しいだろう。
この3人で食卓を囲う事はもうないのかもしれない。。だからこそ、今この瞬間が本当に愛おしいと感じた。
夜中になっても私たちはすぐには眠らないつもり。焚き火を囲みながら話をして、星空を見上げて、コテージのお風呂でゆっくり温まって…。
今宵はそんな、なんでもない時間を、思いきり楽しもうと思った。




