第56話 英国② 美亜目線
2022年3月
曲がりくねった道を抜ければ、おばあちゃんの家だ。
パパは先に帰っている。
ついに、ママとおばあちゃんが対面する時がきた。
運転する横顔を見ると、緊張しているのが伝わってくる。
「ママ、私がついているからね。リラックスしてね」
「美亜、ありがとう」
言葉は少なめだ。
私まで緊張してきた。
おばあちゃんとママ…上手くやれるだろうか…。
ママは最近ブランド物や宝石類はつけていない。
もう、あまり興味がなくなったそうだ。
ママの身長は私とほぼ一緒の170㎝。
今日はユニクロのタイトなグレーのワンピースを着ている。
ママが着るとそれすらブランド物に見えてしまうからすごい。着こなしがとても上手なのだろう。
でも、今日はブランド物に見えない方がいいのだ。おばあちゃんは本当に好きではないから。今日はそんな事まで気になってしまった。
パパとジョーイが玄関の前でしっぽを振って待っていた。
家の前の花壇には、まだ寒さの残る季節だというのに、クロッカスがいくつも顔を出している。
「着いたわね……」
ママが深く息をついた。
「うん、ママ…自然体で…ね…」
私は手を伸ばし、ママの手をぎゅっと握った。
「ありがとう、美亜……ほんと、来てくれてよかったわ」
ドアを開けて中にと、ジョーイが駆け寄ってきて、私たちの足元にそっと鼻先を寄せた。ママは微笑みながらしゃがみ、ジョーイの頭を撫でる。
パパが、少し緊張したような表情で顔をのぞかせる。
「ようこそ。……母さん、リビングで待ってるよ」
その言葉を聞いて、ママの肩がピクリと動いた。
でもすぐに、小さくうなずく。
私はママの隣に並んで、そっと背中に手を添えた。
ゆっくりと玄関の石段をのぼりながら、心の中で祈った。
どうか、今日が「過去の呪縛を解く日」になりますように…。
リビングのドアをそっと開けると、おばあちゃんがソファに静かに座っていた。
「Hello,Mia.It’s lovely to see you again.」
(こんにちは、美亜。あなたにまた会えて嬉しいわ)
柔らかな笑顔で迎えてくれた。
けれど、呼ばれたのは私の名前だけだった。
一気に血の気が引く。
「Hello, Margaret . It’s been a while.」
「こんにちは。ご無沙汰しております」
後ろにいたママは、一瞬立ち止まり、ゆっくりとお辞儀をした。
おばあちゃんは、微笑みを保ったまま、ほんの少しだけママを見て、目を逸らした。
その時だった。
おばあちゃんが胸を押さえ、苦しそうにうずくまり始めた。
「おばあちゃん!」
私は思わず駆け寄ろうとしたママを制した。
今は、感情ではなく判断が必要だ。
私はもう医師なのだ。
命の現場では、一瞬の迷いがすべてを左右する。
おばあちゃんは呼吸が浅く、顔面は蒼白。
冷や汗をかいている。胸痛と息切れ……心不全の急激な悪化の可能性がある。
「Grandma, I’m coming to help you right now. Everything’s going to be okay!」
(おばあちゃん、今すぐ助けるからね。絶対大丈夫だから!)
声をかけながら、私は素早く脈を確認した。
遅い。しかも、弱い。
これは洞停止か、房室ブロックの進行だ。
次の瞬間、おばあちゃんの目から力が抜けた。
ぐったりと私の腕に体重を預けてくる。
「Grandma!」
(おばあちゃん!)
すぐに頸動脈を確認する。――脈が、ない。
呼吸も、止まっていた。
一瞬、セリーヌが死んだ事が頭をよぎったがすぐに振り払う。
今は関係ない!
「心停止…」
声が自然に出た。
ママとパパの顔が青ざめるのが視界の端に映ったが、私は動じなかった。
自分でも驚くほど冷静だった。
私の頭の中では、すぐに行動手順が立ち上がる。
実はパパから以前聞いていたのだ。
「母さんが心不全を起こしたらどうすればいいか、準備してあるよ。AEDも玄関に取り付けてある。借りてあるんだ。」
その言葉を、しっかり覚えていた。
「パパ!AED、玄関よね!?すぐ持ってきて!!」
「わかった!」
パパが勢いよく走り出す。
「ママ、救急車! すぐにかけて!住所、わかるよね!?」
「わかる!今すぐかける!」
ママの声は震えていたが、きちんと動けていた。
私はおばあちゃんの服をそっと開き、心電図に備える体勢を整える。
「Don’t worry, Grandma. I’m right here with you.」
(大丈夫、おばあちゃん。私がついてるからね)
すぐにパパがAEDを持って戻ってきた。
「ありがとう!電源入れて!音に従って!」
パッドを貼ると、機械が解析を始める。
一瞬の静寂。そして——音声が響いた。
「Shock is advised. Charging.」
(ショックが必要です。充電を開始します)
私は息を呑みながら、画面とパッドの位置を再確認した。
しっかり貼れている。導線も問題ない。
「Shock will be delivered. Ensure everyone’s safety and stand clear.」
(ショックを行います。周囲の安全を確認してください)
自動音声が告げる。私は深く息を吸い、声を張った。
「Everyone, step back! Don’t touch them!」
(みんな、離れて!触らないで!)
ママとパパがソファのそばから一歩引くのを確認して、私は自分も手を離した。
「Shock will be delivered in 3… 2… 1…」
(ショックを行います。3、2、1……)
——バチンッ!!!
おばあちゃんの体がわずかに跳ねた。
その衝撃に、ママが思わず手を口に当てる。
「……心拍、戻れ……」
私はすぐに脈を確認した。
ない。すぐに胸骨圧迫を再開する。
「Reanalyzing heart rhythm」
(もう一度、解析を始めます)
自動音声が響く。私は押す手を止め、パッドの読み取りに任せた。
「Shock not advised. Check for a pulse.」
(ショックは不要です。心拍を確認してください)
すぐに頸動脈を探る。……今度は、微かに、でも確かに、
“トクン……トクン……”と、ゆっくりとした脈が戻ってきていた。
「……戻った……!」
私は声を震わせながら呟いた。
ママの目に、涙が溢れた。
「美亜……」
おばあちゃんのまぶたが、ゆっくりと動いた。
まだ意識は朦朧としているけれど、生きてる。
命が、戻ってきた。
私はおばあちゃんの手を、そっと両手で包み込んだ。
「Grandma, you’re okay now.」
(おばあちゃん、もう大丈夫だからね)
抱きしめると、安らかな顔になった。
「……Mia……」
「もう大丈夫だからね。もうすぐ救急車もくるから」
その後すぐ、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
やがて赤い光が玄関前を照らし、救命隊員たちが迅速に室内へと駆け込んできた。
状況を説明しながら、私はおばあちゃんの容態を簡潔に報告した。胸痛、意識消失、心停止。AEDショック一回。現在は脈・呼吸ともに回復。
「We will transport them immediately. A family member may accompany us.」
(すぐに搬送します。ご家族の方、ご同乗を)
私は迷わず「行きます」と答えた。パパも「私も」と言ってくれた。
だけど、ママには――家にいてもらうことにした。
「ママ、お願い。来ないで。……今はまだ、おばあちゃんには刺激が強すぎるから」
ママは一瞬、何も言えなかった。
けれど、すぐに頷いた。目には涙が溢れていて、それを見て私も胸が締めつけられた。
「わかってる……そうよね……私の存在のせい……」
ママは自分でも、その可能性に気づいていたのだろう。
おそらく深い自責の念に駆られているに違いない。
私は玄関でママを軽く抱きしめてから、救急車に乗り込んだ。
「ママ、絶対に大丈夫だから…」
「うん」
揺れる車内。サイレンの音。だけど私は、どこか落ち着いていた。
おばあちゃんの命は、つながった。
あとは、私たちが再び家族になれる為に祈るしかなかった。
病院に到着したおばあちゃんは、すぐに処置室へと運ばれた。
私はモニターの数値を確認しながら、搬送中の状況を医師へ簡潔に報告する。
「The patient had chest pain at home, then lost consciousness. No pulse—cardiac arrest. One AED shock was given, and they regained spontaneous circulation.」
(自宅で胸痛発作後に意識消失。脈なしで心肺停止。AEDでショック一回、その後に自己心拍再開しています)
当直の循環器内科の先生が、モニターを見ながら頷いた。
「You handled the situation very calmly. The intervention was perfect. May I ask what your profession is」
(よく冷静に対応されたんですね。処置も完璧です。ご職業は?)
「I obtained my medical license in Japan this year.」
(今年、日本で医師免許を取りました)
「I see. That makes perfect sense. Your grandmother is lucky to be alive. If it hadn’t been for you, she might not have made it in time.」
(なるほど。納得です。おばあさま、命拾いしましたよ。あなたがいなければ、間に合わなかったかもしれません)
私は静かに頷いたけれど、心の中では思わず涙が出そうだった。
家族としても、医師としても、最も大切な人の命を守れた――それがただ、嬉しかった。
その後、おばあちゃんは心電図と血液検査、心エコーの検査を受け、翌日には冠動脈CTも予定された。
「慢性心不全の急性増悪」と診断され、数日間は慎重な経過観察が必要とされた。
でも、意識ははっきりしていて、表情も落ち着いている。それが今は嬉しかった。




