第55話 英国① 美亜目線
2023年2月
私は、医師国家試験の会場にいる。
試験は、2日間にわたり、合計400問が出題される。
試験内容は、必修問題100問、一般問題100問、臨床問題200問で構成されている。
合格するためには、必修問題で80%以上の正答率を達成し、さらに一般問題と臨床問題で設定されたボーダーラインをクリアする必要がある。
合格しないと、働く事ができない。
落とす為の試験ではないので、合格率は92%と高めだ。
今まで頑張ってきた事を普通に出し切れば問題はないはずだ。
だから、不思議と緊張はなかった。
小さい頃から今まで本当によく頑張ってきたと思う。
とりあえず、今日がその集大成かもしれない。
机の上に置いた鉛筆も消しゴムも、ぴたりと揃っている。
呼吸を整え、始まるのを静かに待った。
そして、2日目のすべての試験を終えたとき。
私はゆっくりと鉛筆を置いて、静かに席を立った。
会場の出口で、一度だけ後ろを振り返った。
「できたよ!パパ、ママ、黒野君」
その瞬間、胸がいっぱいになって、こぼれた涙をそっと袖口で拭いた。
2023年3月
医師免許は無事に合格した。自信はあったけど、嬉しくて泣いてしまった。
やっとスタートラインに立ったと実感できたからだ。
でも今はすでに別の事でドキドキしている。
ママがパパに会いに行く為に、付き添いでイギリス行きの飛行機に乗っているからだ。
黒野君はセシルと家でお留守番している。
ママは1年以上牧場のアルバイトを頑張って、性格改善の為にも努力を惜しまなかった。
本当に変わったと思うし、今のママの事は本当に大好きで、心の底から尊敬している。
その頑張った報告をパパにしていたし、すごく認めてくれている。問題はおばあちゃんだ。
パパと結婚していた時もイギリスに帰省しなかったし、ママへの記憶は最悪だろう。今でも全く信用されていない。
だから、私が医師免許試験をパスしたら一緒に行き、後方支援をする事を約束していたのだ。私もイギリスへ行くのは3年生ぶりだ。
* * *
空港からはレンタカーを借りて、ママが運転している。私も3年前に免許を取って、普通に運転をするのだけど、日本と同じ右ハンドル、左側通行とはいえ、異国の地で運転をする事はかなり怖い。
その点ママは怖いもの知らずだ。「パパが迎えに来てくれる」って言っても「迷惑になるから、大丈夫よ」って言って聞かなかった。実際に往復で4時間以上かかるから、羊飼いの仕事にも影響が出るのは間違いない。
「ママ、景色すごく綺麗だね。一緒にイギリスに来るのって、もう15年ぶりくらいじゃない?」
「そうね。セリーヌが来てからは行けなくなっちゃったから……」
そう言って、ママは少し遠い目をした。
「運転、怖くないの?標識とか、ルールとか、結構違うでしょ?」
「私、車が好きだから。こういうの全部、前に来たときに覚えちゃったのよ」
「ママ、すごい……」
「美亜も覚えておきなさい。あとで教えてあげる」
「うん」
おばあちゃんは、今年で79歳。
最近は慢性心不全と診断されていて、無理は禁物らしい。
嫌いな人が来ると血圧が上がるかもしれない。
そんな体調だからこそ、慎重に事を運ぶ必要がある。
パパのほうは牧羊の仕事が順調みたいで、羊の頭数もかなり増えて忙しいらしい。
畑違いの世界に飛び込んでも、きちんと結果を出すあたり、やっぱりパパはすごい。
今日も牧場にいるとのことだったので、直接向かうことにしていた。
コッツウォルズが近づくにつれ、空には細かな霧雨が舞い始め、モヤが景色をやさしく包み込んでいた。
石造りの家々やなだらかな丘陵が、まるで絵本の中の風景みたいに浮かび上がっている。
牧場の石垣も、この土地のものと同じ石で築かれ、完全に風景と馴染んでいる。
ナビが示した場所に到着して、私はパパに電話を入れた。
「Hello!」
「美亜~。今、行くよ。久しぶりに日本語で話したいから、今日も日本語でいいかな?」
日本にいた時は私とは英語で会話していたが、イギリスに帰ってからは、私と喋る時は日本語で話したいらしい。せっかく習得した日本語を錆びさせてしまう事が嫌だからだって。
「私は逆に英語使いたいくてウズウズしているけどね、了解だよ!」
霧雨はいつの間にか止み、遠くの丘のモヤの向こうから男性がゆっくりと歩いてくる。
彼の背中には、たくさんの羊たちと牧場の風景が広がっていた。
「パパだ!」
私は自然と声に出していた。
けれど、隣のママは無言のまま、微動だにせずにその姿を見つめていた。
表情は硬い。
再会を喜びたい気持ちよりも、受け入れてもらえるかどうかの不安のほうが勝っていたのだと思う。
パパはは、私たちを見つけると歩く速度を速めた。
緊張しているのが、遠目にも分かる。
「……麗子……」
パパがそう呼んだ瞬間、ママの身体がふっと揺れた。
言葉にならない息を飲み込むようにして、一歩、また一歩と前に出た。
そして、パパがママの前に立つと、2人はもう何も言わなかった。
ただ、静かに腕を伸ばし、確かめるように、優しく抱きしめ合った。
その瞬間、私の胸の奥に何かがじんわりと広がって、気づけば身体が勝手に動いていた。
「……私も入れて?」
そう呟きながら、私は2人の間に飛び込んだ。
パパとママが少し身体を開いて、私を包み込むように迎えてくれた。
気づけば、3人とも静かに泣いていた。
ただ、温かさと安堵が混ざり合って、自然と涙が頬を伝っていた。
「よく来てくれたね、麗子、美亜」
「……ジェームズ」
「……ずっと……この日を待ってたよ……」
それは、家族がもう1度やり直すための、最初の1歩だった。
そんな言葉が交わされたその時だった。
どこからともなく、元気な足音が近づいてくる。
「ワン!!」
私たち3人が抱き合ったまま振り返ると、そこには1匹の牧羊犬がいた。
ふわふわの白黒の毛並みのボーダーコリーだ。
しっかりとした足取りで、迷いなく私たちのもとへ駆け寄ってくる。
「ジョーイ!」
パパがそう呼ぶと、ジョーイは嬉しそうにしっぽを振って、私たちの輪の中にちょこんと入り込んだ。
そして、誰が指示したわけでもないのに、まるで「この瞬間を一緒に祝福したい」と言わんばかりに、私の足元でお座りして、にっこりと見上げてくる。
ママがそれを見て、思わず笑った。
涙のあとに、やわらかな笑顔がこぼれた。
「……すごくかわいいわね。この子、すごく賢そう」
「こっちで飼い始めたんだ。優しくて、賢くて、みんなの癒しだよ」
私はその頭をそっと撫でた。
ママもしゃがんで抱きしめる。
「ちょっと待ってて」
そういうとパパは小屋の中へと入って行った。
戻って来たその腕には羊の赤ちゃんが抱かれていた。
「まだ、生まれたばかりだよ」
「きゃー かわいい!」
ママは思わず駆け寄り、パパからふわふわの羊の赤ちゃんを受け取る。
以前のママでは考えられなかった事だ。
見知らぬ動物をバイキン扱いし、指1本触れようとしなかったからだ。
パパもびっくりしている。
そんな成長したママをパパに見てもらえて本当に嬉しかった。
思わず頬が緩む。どっちが母親なのだかわからない様な状況が面白くて声を出して笑ってしまった。
「アハハ」
「美亜、何が面白いの?」
ママが笑顔で羊の赤ちゃんを抱えながら振り返る。
その腕の中で、ふわふわの小さな命がきゅっと鼻を鳴らした。
「ううん……なんかね、ママがいちばん楽しそうだなって思って」
そう言いながら、私はまた笑ってしまった。
「そう?」
ママはちょっと首をかしげて、でもその表情は嬉しそうで、どこか照れていた。
「ママー 私も抱っこしたい」
「はい」
つぶらな瞳が瞳が本当にかわいい。
パパもその様子を見ながら、ぽつりと呟いた。
「まるで……別人みたいだよ、麗子」
「うん。自分でもそう思うわ」
ママは私が抱っこしている羊の赤ちゃんの頭をそっと撫でながら答えた。
「でもね、牧場で働くようになって分かったの。
泥だらけになることも、力仕事も、最初は本当に辛かったけど……この子たちと過ごしてると、心がね、ほぐれていくのよ」
ママの声は柔らかくて、昔とは全く違う。
「それに…美亜に、ちゃんと胸を張れるような自分になりたかったの。今も、これからもずっと…」
私の胸の中で、小さな命がぬくもりを伝えてくる。
そのあたたかさに、目の奥がじんわりと滲んだ。
「ママ、もう十分だよ。……今のママ、大好き!」
ママがふっと笑って、パパと目を合わせる。
パパは目を細めて、ゆっくりとうなずいた。
再びママに赤ちゃん羊をそっと渡す。
ママが抱っこしている方が安心している様に見えたからだ。牧場で動物の扱いに慣れているからだろう。
霧が晴れたコッツウォルズの丘の上で、私たち家族は、ようやく同じ景色を見つめることができた気がした。
———その時だった。
霧の切れ間から、午後の眩しい太陽が顔を出し、私たちの頬を優しく照らした。
ほんの少し前まで細かい霧雨が、降っていたのが嘘のように明るくなる。
「……虹だ……」
パパがぽつりと呟いた。
「本当……綺麗……こんなくっきりと見えたのは初めて」
ママは、腕の中の羊の赤ちゃんをそっと抱きなおしながら、目を細めて見上げた。
「なんか……虹が、すごく近く感じるね」
私がそう言うと、ふたりも頷いた。
実際、すぐそこに架かっているかのような大きな虹だった。
その足元で、ジョーイが「わん」と一声鳴いた。
くるりとしっぽを振り、虹のほうを見上げている。
「ジョーイも見てる」
私は笑って、しゃがみ込んでその頭を撫でた。
ジョーイは静かに私の手に顔を預けて、嬉しそうに目を細めた。
風が少し吹いて、草の匂いが混じった爽やかな空気が私たちを包み込む。
虹の下で、家族と、羊と、ジョーイ…。
こんな日が来るなんて、昔の私たちには全く想像できなかった。
私たちは虹が消えるまで、ずっと空を見上げていた。




