第53話 洋館 黒野目線
2022年1月
何度か洋館に通っているうちに、住む事が決まり、引っ越しも完了した。
誘ってくれたのは嬉しかったけど、それにしても2人とも強引だったな…笑…。
美亜ちゃんがいるのは嬉しいけど、麗子さんも同じ屋根の下で暮らしているなんて…。
元来、僕は1人で過ごすのが好きな人間で、果たして上手くやっていけるのだろうか?
新しい僕の部屋は、美亜ちゃんの向かいにある、約6畳ほどの部屋だった。
北側と東側には窓があり、北には深い森が広がっている。東の窓からは、美しい街路樹の並ぶ住宅街を見下ろすことができた。
朝になれば、小鳥たちのさえずりが静かに聞こえてくる。まるで、どこかの高原のリゾート地にでも滞在しているような錯覚さえ覚える。
落ち着いたトーンでまとめられた趣のある内装は、僕の持っている古いシャンデリアやアンティークのチェストとも完全に調和していて、胸が高鳴った。
家事は当番制で、みんなで分担して行っている。それにしても、この洋館は大きい、なんと12部屋もあるのだ。もともと家事は好きな方だったので、問題はなかったけど。
けれど、驚いたのは――この立派な洋館に似つかわしくないほど、食事がとても質素だったことだ。
節約の為、納豆ご飯や卵かけご飯ばかりなのだ。
その代わり、休日にはちょっとだけ贅沢をする。
カレーを煮込んだり、オムライスやピザやパスタを作ったり、皆で小さなごちそうを囲むその時間が、少しずつ僕の心を温めていった。
生活の中で一番楽しみにしているのはセシルと美亜ちゃんとの散歩だった。
犬を飼ったことなんて1度もなかった僕にとって、セシルとの時間はまるで異世界に足を踏み入れたような体験だった。
セシルは真っ白なサルーキの男の子で、誇り高い雰囲気を纏いながらも、美亜ちゃんに撫でられるとすぐにくにゃりと力が抜けてしまう甘えん坊だ。
大型犬のくせに抱っこされるのが大好きで本当にかわいい。冬の朝の光の中を、ゆったりと並んで歩く時間は何事にも変え難い。
そんな美亜ちゃんは、今は大学5年生。来年にはいよいよ医師国家試験を控え、日々の勉強に追われている。
それなのに、家では明らかに“幼児化”していた。
医師になる為の勉強のプレッシャーと離婚してから誰にも甘えられなかった反動なのだろう。
麗子さんにぴったりとくっついて、まるで小学生の頃に戻ったかのように甘えん坊になる。
「ママ~」と呼ぶその声は、どこか甘ったるくて、ちょっとズルいくらいに可愛い。
僕に対しては、さすがにそこまで甘えてことはないけれど、わがままを言ってきたり、気を許している仕草が垣間見える瞬間がある。
たとえば「ちょっとそこ取って」とか、「これやっておいて~」とか、そんな何気ない頼みごと。
だけど、それがなんだか、すごく嬉しいのだ。
キリコ先生にも僕たちの事を電話で報告したら、泣いて喜んでくれた。
もし、先生が、僕たちの事を繋いでくれなかったら、僕たちの恋は間違いなく小学生の時点で終わっていただろう。感謝してもしきれない。
麗子さんは、去年の暮れに高級ブティックの仕事を辞めて、本当に牧場でアルバイトをしだした。
アルバイト先は僕の野球部の後輩の両親が経営している牧場だ。
牧場のアルバイトなんて中々募集していないのでダメ元で聞いてみたら、あっさりOKしてくれた。
40頭以上の乳牛がいていて、人手が足りないらしい。1年間頑張ったら、ジェームズさんに会いにいくと言う。
ゆるくパーマをかけていた茶髪のロングヘアもバッサリ切って、今では黒髪のベリーショートだ。自分なりの決意表明なのだと言う。それでも、元が美人なので、すごくおしゃれに見えるのはさすがだ。
マーガレットさんは認めてはいないが、そこは美亜ちゃんが「絶対におばあちゃんを説得するから」と意気込んでいた。
今はその方向で、僕たち2人が麗子さんに全面的に協力している。
牧場の仕事がどれだけ大変か、正直僕には想像もつかない。でも、麗子さんは本気だった。
ブランド物に囲まれ、華やかな生活をしていた人が、今では泥にまみれて朝から晩まで働いている。
最初の頃は慣れない力仕事や、臭いに泣き言を言っていたけど、最近では「朝の牛舎って気持ちいいのよ」なんて、笑顔で話してくれるようになった。
* * *
美亜ちゃんは医者になる夢と同時にピアニストになる夢を叶える準備を始めた。
今まで漠然とした夢だったが、龍星君に言われた言葉で、心に火がついたらしい。
と言っても方法はとてもシンプルだ。
高校生の頃、勝手に撮られた粗い映像でも、100万回以上再生された経験がある。
だから、今度はきちんと顔を出して、録音機材を使い、自宅でピアノを演奏してYouTubeにアップして、知名度を上げるのだ。
そう考えると、なんだかワクワクしてきた。
機材も全て買い揃え、録画や編集方法も2人でYouTubeで勉強した。今の時代は本当に便利だ。
【動画タイトル】
美亜 ショパン 小犬のワルツ Op.64-1|ピアノ演奏+セシル登場!
【概要欄(説明文)】
こんにちは!美亜です。
普段は医大生ですが、昔からピアノも大好きでした。
ふとしたきっかけで、ピアノの動画を気軽に撮ってみることになりました。
サポートには相棒のセシル(サルーキ♂)もいます!
記念すべき最初の一曲は、ショパンの「小犬のワルツ」。セシルが子犬だった頃をイメージして演奏しました。途中でちょっとだけセシルも登場しますので、よかったら最後まで見てくださいね!
温かい目で見守ってもらえると嬉しいです。
チャンネル登録もよければ……!
【使用ピアノ】
Steinway
【撮影機材】
Sony α7 IV / 編集:黒野
【Special thanks】
セシル(たまに画面に乱入します)
化粧をしっかり整え、お気に入りの白いワンピースを纏って、リビングのスタンウェイに向かった。
曲は、子供の頃から弾き慣れた「小犬のワルツ」。
結局、10回目のテイクでようやく納得のいく演奏ができた。
傍らではセシルが、ちゃんと静かに(時々くすぐったそうに)美亜ちゃんの演奏を見守ってくれていた。
思っていたよりずっと時間がかかったけれど、楽しかった。
また時間を見つけて、少しずつ――動画をアップしていこう。
僕は「当たったらラッキー」くらいの軽い気持ちだけど、美亜ちゃんはそうではないらしい。
新しい夢への一歩を、今日、そっと踏み出した。
* * *
美亜ちゃんのYouTubeチャンネルを開設して、ちょうど1ヶ月が経った。
だけど、最初の動画――あの「小犬のワルツ」は、再生回数なんと…わずか100回。
美亜ちゃんは、腕も申し分ない。
容姿も華やかで、ドレス姿も絵になる。
背景のリビングはスタンウェイとアンティーク家具に囲まれていて、雰囲気も完璧だ。
相棒のセシルも、ちゃんと可愛くカメラに映っている。
それでも――現実は甘くなかった。
今や、ピアノ系YouTuberは星の数ほどいる。
正直、どれだけ素晴らしい演奏で、まず「見つけてもらう」こと自体が、奇跡みたいな時代だ。
だから、これも想定の範囲内だった。
だが、美亜ちゃんは違う。
「顔出しすら、していない人には絶対に負けたくない」と意気込んでいる。
美亜ちゃんは、普段は柔らかいタイプだけど、こういう時、意外と負けず嫌いな一面を見せる。
今日も撮影だ。
セッティングを整え、録音の準備を終えると、美亜ちゃんはピアノの前に座った。
「ちょっと速めに、でも音は丁寧にね」
僕が軽く声をかけると、美亜ちゃんはニッコと笑って、小さくうなずいた。
今日の撮影曲は、モーツァルトの《トルコ行進曲》。華やかで、勢いが命の曲だ。
「いくよ〜」
笑いながらそう言ったけど、指先には静かな闘志が宿っているのがわかる。
カメラを回し始めると、リビングに軽やかな音があふれた。
速い。けど、雑じゃない。
ひとつひとつの音に、ちゃんと芯がある。
セシルが足元でハイテンポで尻尾を振っているのを見て、思わず笑いそうになるけど、撮る方も真剣だ。
最後の和音が響き、ピアノの音がふっと静まった。
「OK!」
カメラを止めると美亜ちゃんが小さくガッツポーズをする。その姿に、僕も自然と笑ってしまった。
「バッチリだったよ、美亜ちゃん」
親指を立てると、嬉しそうに笑い、セシルもタイミングよく「ワン」と吠えた。
こんな風に、少しずつでもいい。
忙しい毎日の中で、自分の“好き”を続けていけたら、それだけで十分なんだと思う。
まだまだ道のりは遠いけど、焦る必要なんてない。
これは勝負じゃない。
美亜ちゃんと僕の心を、豊かにしていくための旅なのだから。
* * *
更に1ヶ月経って動画もだいぶ上げたが、相変わらず再生回数は殆ど伸びない。
高校時代、勝手にアップロードされて100万回以上再生されている「あの連弾動画」。
1回目は聖英女学院、モザイクなしでバズり、削除された。
その後、顔に薄もモザイクをかけられ「お嬢様学校の超絶美女、制服姿で弾く、連弾『剣の舞』からの『クシコスポスト』『天国と地獄メドレー』」に変えられた動画。
今見たらなんと300万回を超えていた。
偶然の天才女子高生発見のようなドラマチックな瞬間に、素のかわいさと確かな実力がナチュラルに伝わりバズったのだろう。
そこで美亜ちゃんがとった行動とは…。
投稿主に連絡を取り、顔のモザイクの解除と引き換えに、チャンネルへのリンクを貼る許可をお願いしたのだ。
モザイクを解除した女子高生の美亜ちゃんの素顔は、やはりめちゃくちゃ可愛かった。
すると――あっさりバズった。
そこからの勢いは想像以上だった。
チャンネル登録者数はあっという間に10万人を超えた。
更に伸びていけば、サロンや結婚式で弾くなどの、セミプロくらいに十分なれるだろう。
これからも、美亜ちゃんは「昔からやりたかった夢を黒野君と、どんどん叶えていくよ」と告げた。
* * *
今日は麗子さんが泊まりで不在だ。
泊まりといっても、遊びではない。牧場では繁殖も行っている為、夜中から早朝にかけての出産に立ち会う為だ。本当に大変な仕事だと思う。
そんな、夜寝る前に、美亜ちゃんに部屋に呼ばれた。
いつものパジャマワンピース姿で照明は落としている。
微笑んでいるが、何も言葉はなかった。
美亜ちゃんがそっと僕の手を取った。
震えていた。
けれど、離そうとはしなかった。
僕も同じだった。
離したくなかった。
いい匂いがする。
ゆっくりと距離が近づき、キスをするとベッドでしばらく抱き合った。
「私…初めてだからね」
「うん…僕もだよ」
“初めて”という言葉の重みを、2人ともわかっていた…。
緊張で震えが止まらない。
「……いいの?」
「……うん……やさしくね……」
柔らかい身体のぬくもり。
ぎこちなくてもいい…。
うまくなくてもいい…。
服を脱ぎ、身体を重ねると不安も、緊張も、少しずつ溶けていくのを感じた…。




