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第46話 事件 美亜目線

2015年4月 月曜日


桜の花も散り、高等部3年生になった。


三者面談から1か月が過ぎたけど、あれからお母さんとは進路の話は全くない。


態度も優しく、話自体を忘れているかの様だった。


だったら、そのまま受験をするまでだ。


私の意思は硬い。


その日、私は部屋で勉強をしていた。


時計が21時を回る頃、お母さんの真っ赤なアルファロメオスパイダーが庭先に滑り込むように停まった。


なぜか気になって、窓の外に目を向けた。


その瞬間、私は凍りついた。


シャネルのチェーンバッグを肩にかけ、もう片方の腕には真っ白な仔犬を抱いて家に中に入ってくるではないか。


———私はすべてを、一瞬で理解してしまった。


私が頭を抱えながら机に突っ伏していると、お母さんの足音が近づいてくるのを感じた。


「ただいま!入るわよ。美亜、ほら、可愛いでしょう?サルーキの仔犬よ」


その笑顔が、何よりも怖かった。


「ねえ…私…言ったよね!?…もう犬は絶対に飼わないって!!!!」


思わず声を荒げる。


「そうだっけ?でも、可愛いでしょ?

とりあえずセリーヌの道具は捨ててないし、飼い方もわかってるから、いいじゃない?私、今からご飯食べるからね」


そう言い残して、お母さんは仔犬を私の部屋の床に置いて、そのままリビングへと消えていった。



私は無言で、仔犬をそっと抱き上げると、ドアを開けて、外に出した。どうやら男の子の様だ。


ドアの外で仔犬は「くーん」と寂しげな声をあげながら、じっと私を見上げている。


———サルーキ。


垂れ耳の、脚の長い、優美な大型犬。


今はまだ仔犬だけれど、成犬になればセリーヌと同じくらい――いや、それ以上に大きくなる。


わかっている。


お母さんは、この仔犬を使って、再び私をこの家に繋ぎとめようとしているのだ。


間違いなくお母さんはこの子の面倒を見ない。


結局すべて私がやることになる。


そうなれば、情が移ってしまう。


私の性格を、誰より知っているから。


そしてその時には、もうこの家を出ることなどできなくなっている。


全部、計算済みなのだ。


でも――私だって、黙って従うつもり全くない。


私は決めた。


この仔犬の世話は、絶対にしない。


情が移る前に、お母さんに返してきてもらう。


そのつもりで、ドアの外に出したのだ。


……でも。


仔犬は「くーん」……と小さく鳴いた。


頼るような、哀しげな声だった。


ヤバい……。


この戦いに、私は勝てないかもしれない…。


弱っていく命、誰かに見放された命を、私は見捨てられないから。


怒りで小さく膝が震えていた。


でも絶対に負けない!


仔犬を利用してまで、私を縛ろうとするお母さんのことが、情けなくて、情けなくて…。


その「くーん」という鳴き声が、ずっと、耳の奥に残っていた。


……もう、勉強なんて、全然やる気になれなかった。


ああ…頭が全く働かない。


何を考えても堂々巡りで、気持ちは仔犬の事ばかり…。


「もう…どうすればいいの?」


自分に問いかけるように呟いたけれど、答えなんて出ない。


とりあえず、気持ちを切り替えるためにお風呂に入ることにした。


部屋のドアを開けると――そこに、仔犬がいた。


何も言わず、ただじっと、お座りして、うるうるした目で私を見上げている。


知らない家に連れてこられて不安でいっぱいなのだろう。


その目を見た瞬間、心がぐらりと揺れた。


「……ついてこないで……」


そう思いながら歩き出すと、仔犬は健気に、よたよたと後をついてくる。


階段に差しかかると、よろけそうになりながらも、懸命に私のあとを追ってくる。


思わず、抱き上げてしまっていた。


小さくてあたたかい。


ダメだ。


思わず首を振った。


何も言わず、無言でリビングへ降り、お母さんの前にそのまま仔犬を置いた。


お母さんは食事をしながらテレビでニュース観ている。


「ねえ…返してきて…」


すると、お母さんはこちらを見ずにニヤリと笑った。


その顔を見たら一気に頭に血が上り、怒りで全身が震えていた。


気がついたら、キッチンで包丁を握り締めようとしていた。


実際の殺人事件というものは、計画的に行われる事はごく稀で、実際はカッとなって殺す事が大半だそうだ。しかも、半数以上は家族間と言うデータも耳にした事がある。


やばい…。


今の状態は非常に危険だ。


私はそれ以上何も言わず、その場を去り、お風呂に向かった。


湯船に浸かりながら、必死に落ち着きを取り戻す。


お風呂から出ると、やっぱり、仔犬はまた鳴いていた。


「くーん、くーん」と小さく、お腹を空かせたような声で。


全く暴れたりしないのですごくいい子だ。


髪の毛をドライヤーで乾かし、歯を磨いて早く眠る事にした。


仔犬の絶対に世話はしない!


仔犬は鳴きながら私の後をつけてきたが、振り払う様に自分の部屋へと駆け込んだ。


知らない!


私はもう知らない!


心を閉ざすように布団にくるまったけれど、眠れるはずもなかった。


耳の奥には、あの「くーん」という鳴き声がこびりついたままだ。


気がつけば、深夜0時を回っていた。


負けを認めたわけじゃない。


ただ、眠れなかっただけ。


私は静かに部屋を出て、リビングへと足を運んだ。


薄暗い照明の中、セリーヌが使っていたベッドで、仔犬は小さく丸まって眠っていた。


セリーヌが小さかった時の事を思い出して泣きそうになる。


私の気配に気づいたのか、ぱちりと目を開け、尻尾をふりながら小さく鳴く。


「ああ……もうダメだ」


声にならない声で、私はそう呟いた。


私の負けだった。


最初から勝てるはずなんてなかったのだ。


無駄な抵抗で、この子を苦しめてしまった。


仔犬のうちに、こんなことをするのは本当に良くない。


信頼を裏切るようなことをすれば、成犬になってから、攻撃的になり手がつけられなくなるだろう。


「……ごめんね……」


私はしゃがみこみ、そっとその子を抱き上げた。


まだ軽くて、あたたかくて、胸の鼓動がかすかに伝わってくる。


私はそのままキッチンに向かい、セリーヌの時に使っていたフードコンテナを開けた。


まだたっぷり残っている。賞味期限も切れていないし、使えそうだった。


袋を開けた瞬間、懐かしい匂いが立ちのぼった。


「……セリーヌが、最後まで食べてたごはんだよ」


自分で言ったその言葉に再び泣きそうになる。


もう決めた。


きちんと、この子に向き合うって。


そのままスコップで適量をすくい、ステンレスのボウルに入れた。そしてお湯を沸かして、フードに少しかけてふやかす。


「熱くないよ、大丈夫」


そう言いながら指先で温度を確かめる。ぬるくなった頃を見計らって、リビングに戻った。


仔犬は、もう起きて私の動きを目で追っていた。


ボウルをそっと床に置くと、すぐに駆け寄ってきて、夢中で食べ始める。


「……おいしい?」


尻尾を小さく振りながら、一心不乱にごはんをかき込むその姿を見ていると、何だか胸の奥が温かくなる。


「ほんとに、ずるいんだから……」


小さくそう呟いて、私はそっと頭を撫でた。


食べ終わった仔犬は、名残惜しそうにボウルを舐めたあと、ちょこんと私の足元に座った。


まるで「ありがとう」と言ってくれているみたいに、見上げてくる。


私はしゃがんで、そっとその子を抱き上げた。


体温がじんわりと腕に伝わってきて、鼓動もかすかに感じる


「ほんとに、ずるいよ……あなたまで、こんなに温かいなんて……」


自分でも気づかないうちに、涙がこぼれていた。


でももう、止めることはしなかった。


そのまま自分の部屋へ戻り、電気を消して、布団に入る。仔犬も静かに私の胸元に収まり、まるで初めからそこにいたかのように、安心しきった顔で目を閉じた。


私はそっと腕をまわして、子どもを抱くようにその小さな身体を包み込む。


あたたかい。


やさしい匂いがした。


なんてかわいいのだろう…。


眠れない夜だったはずなのに、気がつくと私は、ゆっくりと眠りの中に落ちていた。

 


         * * *



朝起きると、ベッドの足元でまるくなって眠っていた仔犬が、私の動きに気づいてぴょこんと顔を上げた。


温かい身体、つぶらな瞳、ふわふわの真っ白な体……その姿を見ただけで、胸がきゅっと締めつけられる。


「……もう……私、バカすぎる……」


悔しいけど、本心だった。


あんなに拒絶しようとしたのに。


もう、可愛くて可愛くて、仕方がない。


仔犬を抱えてリビングに降りると、お母さんはすでに起きて、パソコンに向かって作業をしていた。


家のWi-Fiは、もうとっくに解約されているから、回線は、自分のスマホからのテザリング。


仔犬のお陰で、昨日覚えた殺意はどこかに消えていた。


「美亜、おはよう。その子、かわいいでしょ? 男の子で名前はセシルよ」


お母さんはこちらを見ずにそう言った。


まただ。


せめて私が名前をつけたかったのに…。


そこまで勝手に決めてる。


……でも――センスが、いい!


真っ白で、気品のあるこの子に、「セシル」という名は、完璧すぎるほど似合っていた。


「……うん。わかったよ。セシル、ね」


名前を呼ぶと、仔犬――セシルが、嬉しそうにしっぽを振った。


その瞬間、胸の奥にあった決意が完全に崩壊した。


こうして私は、早くも防衛医大の受験を諦めることになった。


悔しくて、悲しくて、情けなくて――でも、今はそれ以上に、セシルがそばにいてくれることが嬉しかった。


それくらい、私はセリーヌを失ったことに心が折れていたんだ。


全く立ち直ってなんかいなかったのだ。


そんな当たり前のことに、今さら気がついた。



         2015年5月



勉強が忙しく、黒野君にはもうしばらく会えていない。だけど今は――会いたい気持ちを抑えてでも、やるべきことがある。


夕霧大学医学部には、絶対に落ちるわけにはいかないのだ。


まわりの生徒たちは、塾に通い、家庭教師をつけ、スマホで検索して疑問を即座に解決している。


だけど、私は何も持っていない。スマホも、パソコンも、塾も――すべて、お母さんに奪われた。


わからないところは、学校の先生に直接聞きに行く。優秀な友達に、頭を下げて教えてもらうこともある。不便ではあるけれど、なんとか、ギリギリ保てている。


唯一の救いは、英語。


これは、私の最大の武器だ。インターナショナルスクールに通っていた時期も長いし、家ではお父さんと英語でしか会話していなかった。


試験問題も読むたびに、「こんなに簡単でいいの?」とすら思う。ネイティブはこんな硬い表現は使わない。表現の仕方の間違いに気がつく事もしょっちゅうだ。そのアドバンテージに、私はすがっていた。


勉強は孤独で、時に果てしないけれど――

私はもう、自分の意志で、自分の人生を切り開きたい。


それと、セシル——サルーキの仔犬の値段を学校のパソコンで調べてみた。値段は40万~100万円くらいの値段がついているらしい。セシルは毛艶も良く真っ白なのでかなりの値段がしただろう。


どんなにお金がなくても、外から見えるものにはお金をつぎ込むのがお母さんなのだ。


私を家に繋ぎ止めるなら保健所の保護犬という選択肢もあっただろうに…。


全く理解不能だ…。


黒野君も、夏の大会と受験勉強でとても忙しいらしい。私は野球のルールすらよくわからないけれど、彼にとって最後の大会なら、日程が合えば応援に行きたいと思っている。


本当は野球のルールもちゃんと勉強したい。


だけど――今の私には、その時間も気持ちの余裕もなかった。


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