第44話 セリーヌ 美亜目線
2014年12月 日曜日
ここ数日で、セリーヌが完全に弱ってきた。
散歩に行こうとすると、がんばって立ち上がろうとするのに、すぐに座り込んでしまう。
歩くどころか、目に力がない。
苦しそうで、悲しそうで…。
その顔を見るたびに、胸が締めつけられる。
涙をこらえるのが精一杯だった。
肝臓の治療を始めてもう5年。
年齢は7歳。大型犬にとっては、初老の域に入っている。これまで元気に走り回っていたのが奇跡だったのかもしれない。
お母さんは今週末も仕事で、車を出すことはできない。病院には、私が連れていくしかなかった。
ここから、かかりつけの動物病院までは車で15分。徒歩ならおそらく1時間はかかる。
でも、私には、庭仕事で使っていた「小さめのリアカー」がある。
それにセリーヌを乗せて運ぶしかない。
行きは下り坂が多い。
でも帰りは、登りが続く。
それでも、今日行かなきゃいけない。
待っていたら、取り返しのつかないことになる気がするだろう。
私は、毎日ジョギングも筋トレもしている。
体力には自信がある。きっとやれる。
何より、セリーヌを守れるのは今、この私しかいないのだから…。
リアカーに毛布を敷いて、そっとセリーヌを乗せた。でも、その揺れが辛いのか、セリーヌは苦しそうな表情を浮かべ、低いうめき声を漏らした。
大型犬を車に乗せてもらうのは、毛や匂いの問題もあり、かなりハードルが高い。
でも、お隣の須藤さん夫婦は私に対してすごく優しく、何かあった時に頼れるご近所さんだった。
「やっぱり……須藤さんに頼もうかな」
一瞬、そう思いかけたその時だった。
セリーヌが、嘔吐した。
さらに、これ以上揺らせばおそらく排泄もあるかもしれない。
そう思った私は、やはり他人を頼るわけにはいかないと腹を括った。
私がやるしかない。
坂道をゆっくりと下り、大通りに出る。
青いドット柄のワンピースでリアカーを引く。
服装が完全にミスマッチだった。
「失敗したかも…」と思ったその時———
「リアカーに犬ー!」
「なにあれー!犬めっちゃでかい!」
「お姉さんがんばれ~ アハハ」
通りすがりの子どもたちが大声で笑った。
無邪気な笑い声だったけど、私の胸にチクリと刺さった。
セリーヌが笑われているようで、悔しかった。
なんで笑うの?
この子は、今、こんなにも頑張ってるのに…。
1時間の道のりが、途方もなく長く感じたけど、体力的には問題なかった。
毎朝のジョギングの成果だ。
だけど――。
リアカーの中で、苦しそうに呼吸をするセリーヌ。
うなだれた首。
かすかなうめき声。
何度も振り返っては、その姿を見るたびに胸が締めつけられた。
「ごめんね、もう少しだから……がんばって」
そう声をかけることしかできなかった。
ようやく病院が見えたとき、私は涙が出そうになった。
でも……。
到着したリアカーの中で、セリーヌは目を閉じたまままったく動かなかった。
長時間の揺れに体力を奪われたのだろう。
その目には、生気がなく、ただただ静かに目を閉じていた。
「セリーヌ……」
私は震える手でセリーヌの頭を撫でた。
冷たくはなかった。
でも――その沈黙が、何よりも怖かった。
受付のカウンターに駆け寄ると、私は声を張った。
「ごめんなさい!今すぐ診てほしいんです。セリーヌが……すごく具合が悪くて……!」
スタッフさんが顔を上げて、リアカーの中を覗き込んだ。
「すぐ診察室へ運びましょう。大丈夫、先生を呼びますから」
そう言われて、私はほっとした。
診察台の上で、セリーヌの身体に聴診器が当てられた瞬間、獣医さんの表情が曇った。
「……心臓が、止まっています……」
耳を疑った。
「うそ……だって、さっきまで……!」
獣医さんは言葉を選びながら、静かに告げた。
「おそらく、病院に来るまでの負担が大きかったのでしょう。肝臓の数値もかなり悪化していたようです。今朝の時点で、もう危険な状態だったのかもしれません」
視界が歪んで、涙があふれた。
「私が……リアカーなんて使ったから……いっぱい揺らして……でも、どうすればよかったの?」
まだ温かいセリーヌを抱きしめながら人目もはばからず号泣してしまった。
私はセリーヌの亡骸を、毛布にくるんで、動物病院のスタッフと共に再びリアカーに乗せた。
そして、来た道を、黙って、ゆっくりと戻った。
通りすがりの子供たちも、今度は誰も笑わなかった。私の目が、泣き腫らして赤くなっていたからかもしれない。
誰かが心配そうにこちらを見ていたけれど、私は視線を逸らした。
仔犬のセリーヌを連れてきてくれた夜、嬉しくてその小さな身体を抱きしめたまま眠った。
あっという間に大きくなり、一緒に庭を駆け回った休日。
お母さんに怒られて辛い思いをした時に、抱きしめて涙を受け止めてくれた夜。
学校から帰ってきたら肝臓の病気で、冷たくなっていたこと。
黒野君の手紙のお陰で、一家全員がよみがえった朝。
病院に連れて行き、治療がうまくいったこと。
鍵をつけて突然家からいなくなった冬の夜。
両親の離婚で傷ついた私に寄り添ってくれたこと。
この前のセリーヌと黒野君との森のデート。
そして今日、2度目の死……。
艶々の毛並み、大きな身体、嬉しそうに振っていたしっぽ。
そのすべてが、もう動かない。
「ごめんね……セリーヌ……ごめんね……」
嗚咽を漏らしながら、私はリアカーを引き続けた。
* * *
次の日私は学校を休んだ。
なんと、お母さんも仕事を休んでくれた。
てっきり、何事もなかったかのように家を出ていくと思っていたから…。
まさか、私と一緒にセリーヌを見送ってくれるなんて、思ってもみなかった。
2人でお葬式を済ませて、たくさんの薔薇の花と一緒に、庭の隅にセリーヌを埋葬した。
以前飼っていたビション・フリーゼのララのお墓の隣に――朝陽の当たる、静かな場所。
「……こんなに辛い思いをするくらいなら、私……もう、絶対に犬は飼わない……」
そう呟いた私の言葉に、お母さんはしばらく黙っていた。
「そうね……その方がいいわね……」
低く、少しかすれた声でそう返すと、私の頭を、そっと撫でてくれた。
その手の温かさが、かえって涙を誘った。
スコップで最後の土をかぶせる時、私はもう堪えきれず、声を上げて泣いた。
幼い頃からずっと一緒だった、大切な家族…。
お母さんもそっと顔を上げ、澄んだ12月の空を見上げていた。




