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第38話 花束 美亜目線

2014年3月


両親の離婚をきっかけに、私の生活は大きく変わった。週に5日来てくれていた家庭教師はすべて解約した。家政婦のタエさんとも契約を終了したため、家事の多くは私が担うようになった。


アルティス音楽院には月に1度通っているけど、この春で辞める事が決まっている。


お父さんは雇われ社長としての退職金を数千万円受け取ったそうだけど、家の改修費用と、あと2年分の聖英女学院の学費に充てると、手元に残る額はそう多くはないらしい。


そのため、私の大学受験は国立の医学部一本に絞られることになった。


お母さんは高級ホテルの中にあるブティックで働き始めたけど、給与は思ったほどではないという。


これまで無知過ぎて知らなかったけれど、肝臓を患っているセリーヌの毎月の治療費もかなりの負担になるようだった。


そんなセリーヌも最近は体調が悪く元気がない。


お父さんの家系は貴族の末裔なのだけど、度重なる相続により疲弊し、今ではそれほど資産も残っていないという。夢である羊飼いの暮らしを始めるにも、お金はかなり必要になるだろう。


今までお金の心配など1度もしたことがなかった。

けれど今は、毎日の生活の中に不安がつきまとう。


お母さんがぽつりと「最悪、家を手放すかもしれない」とつぶやいたとき、その現実味に胸が締め付けられた。


浪人――そんな余裕は、もうこの家には残されていないのかもしれない。


でも、そんな私は、実はお金のない暮らしに、どこかで少し憧れてもいた。


激安の服を買っておしゃれしたり、お金を使わないで遊んだり、頭を使って節約したり、時には食事を我慢したり、ハンドメイドで物を売って日銭を稼いだり、アルバイトをしたり…。


そんなサバイバルみたいな生活って、「生きている!」って気がして、むしろ輝いて見えたのだ。


もちろん、考えが甘いのはわかっている。


現実は厳しいだろう。


お金なんてあるに越したことはないのだから…。


でも、国立医学部一本で浪人もできない――。


なんて状況も、考えただけで心臓が高鳴る。


私ってすぐに泣くくせに、スリルが大好きで、強いのかもしれない…。


今まで夢だった“救命医”という職業も、どこかで「向いてない」と感じていた。


考えてみたら当然だ。お嬢様学校に通い、家庭教師を週5でつけ、家には家政婦がいて、手芸部でピアノが趣味――そんな人間が命を預かる医療の最前線で活躍できるはずがないのは明白だった。


けれど、これからは少違う。


もう私は、守られてばかりの世界にはいない。


なるべく人頼らず、自分の手で日々をつくり出していくのだ。


イージーモードからハードモードに切り替わる私の人生。


ここから先は、“強い自分”に、自分の足で会いに行くんだ!


         * * *



今日で、13年間通ったアルティス音楽院を卒業する。理由は、家庭の事情――お金が厳しくなったからだ。


両親の離婚については、キリコ先生にはすでに伝えてある。お母さんが働き始めてからは、送り迎えもなくなり、自転車で通っている。


3歳からアルティスに通い、キリコ先生に教わってきた。独身で子どもがいない先生は、まるで本当の娘のように私をかわいがってくれた。月謝は決して安くなかったけれど、それでも、今まで通わせてくれた両親には感謝しかない。ここでは、本当に楽しい思いでばかりだ。


これからは、すぐに泣くのやめようと思っている。それは、将来医師になったとき、患者さんに感情移入しすぎて現場で泣いてしまうことを心配しているからだ。医師が泣くなんて、聞いたことがない。


だから、どんなときでも冷静で、落ち着いた自分でいなければならない。まだ、医学部すら受かっていない、高校生だけどその様な心構えは大事だろう。

だから、今日も泣かないと心に誓っている。


レッスンはいつも通り進んだ。


本当に、驚くほどいつも通りで、少し拍子抜けするくらいだった。卒業しても、もう2度と会えないわけじゃない。家からは近いし、キリコ先生とはLINEでも繋がっている。


それでも、今日という日は“節目”だった。


ふと時計を見ると、あと20分でレッスンの終わり。


「ちょっと待っててね」


そう言って、先生は自分のiPhoneを取り出し、テレビに繋ぎ始めた。


どうやら何か動画を再生するつもりらしい。


ちなみにこの部屋のテレビは55インチと大きくて、音響にもこだわっている。DENONのアンプに、DALIのスピーカー。クラシックを聴くには最高の環境だ。


私は、何が始まるのだろうと、少しだけ緊張しながらソファに腰を下ろした。


動画はスライドショーだった。


私がアルティスに入った3歳の時から順に成長していく過程で進んでいった。


小さい頃の自分は「我ながら可愛いな」って思った。


「私の成長物語」の様に思えて、大きく成長していく自分自身が愛おしく感じられた。


BGMは「匠のビフォーアフター」ピアノ曲だ。


高級オーディオ機器の為、音質がいいのは当然として、演奏も素晴らしい。


繊細なタッチで音がどこまでも澄んでいて、優しい。


一体誰の演奏だろう?


スライドショーを上手く引き立てているな、と感じた。


小6の12歳になると胸が詰まる。


この時にセリーヌも、お父さんもお母さんも私も1回死んでいるからだ。


別れてしまったけど、みんな生きているだけで、十分なのかも知れない…。


今みんな生きている事が本当に愛おしく感じる…。


この、映像を見て初めてそう思えた。


そんな記憶は、ないだろうけど、黒野君本当ありがとうね。


発表会やコンクールの写真が多いが、日常の何気ない写真も混ざっている。


キリコ先生がいっぱい写真を撮ってくれたのだな、と思うと感慨深い。


段々と現代に近づいてくる。


4年前の黒野君と1位2位を取った時のツーショット写真だ。


やっぱりこれが1番の思い出だ。


その後のクリスマスパーティーの写真も出てきた。


この日のお母さんにされた出来事を思うと今でも胸が苦しくなる。


中学生になると、ピアノ以外でも私がLINEで送った入学式やイギリスの写真も出てきた。


なんと先生が隠し撮りしているっぽい、私が文通の手紙を読んでいる写真まであった。


思わずキリコ先生を睨むと、爆笑している。


私も連れれて笑顔になる。


そして、高校生になり現在のところでスライドショーは終わった。


昔からのこんなにたくさんの写真を大切にとっておいてくれた事が何よりも嬉しかった。


「先生ありがとうね」


「まだ終わってないわよ」


画面は切り替わる。


あ、黒野君だ!!


ピアノを弾いている。


しかも、すごく大きくなっている。


なんとBGMで流れていた「匠」のピアノ曲は黒野君が弾いていたのだ。


どおりで心に響くはずだ。


それにしても大きくなったな…。


ピアノが弾き終わると黒野君がカメラに向かって喋り出した。


「なんて言う事でしょう!」


思わず笑ってしまった。


「なんということでしょう!」は、「匠」のナレーターがリフォーム後の、見事な変化に驚く様子を表す時に使う決め台詞だ。


こんな冗談を言う様になったんだ。それにだいぶ声変わりしている。


こんなにも男になったんだなぁ…。


会っていなかった時間の長さを感じた…。


「あんなに小さかった美亜ちゃんが、こんなに大きくなりました。キリコ先生から聞きました。今日で卒業だそうですね」


「僕が初めて会ったのは、美亜ちゃんが小学校3年生の時で、天使の様に可愛らしくて…それでいて破天荒で…」


思わず笑ってしまった。破天荒と言うか、今思うと、かなりやばい小学生だったからだ。


「でも、話をして、文通して、色んな思いを知って…今でも、すごく大切な人だと思っています。

だから…今日この日をちゃんと祝いたくて、下手くそなりに頑張って弾きました」


「今日来れなくてごめんなさい。どうしても外せない部活の試合がありまして…。でも、今もこうして繋がっていられる事を嬉しく思います」


「あと、プレゼントがあります。アルティス宛に送ってあります。キリコ先生から受け取ってください。

卒業、本当におめでとうございます。これからも応援しています!」


ここで動画は終わった。


こんなにいっぺんに話す黒野君は初めて見た。


成長したんだな。


「はい、これね。黒野君からよ」


キリコ先生が縦に長い箱から取り出した物はピンクを基調とした大きな花束だった。


部活でアルバイトもしていないと思われる黒野君が、大切なお小遣いを使って買ってくれたのだと思うと感慨深かった。


家にお金がなくなった今なら、それがどれほど大変な事が理解できたからだ。


以前は気にしなかったであろう、他人のかけてくれたお金のありがたみが、本当に嬉しかった。


「美亜、花束持って笑って!」


「うん!」


「あとでプリントアウトするから、写真同封で必ず黒野君に送るのよ!黒野君からの宛先はまたここでいいから。美亜の私書箱復活させるから」


「うん!ありがとう」!


「手紙が来たらLINEするから、必ず取りに来るのよ」


「うん!」


今日は必死であふれそうな涙を堪える。


絶対に泣かない。


笑顔で卒業するんだ。


花束に顔を近づけると濃密な花のいい香りがした。


香りが記憶が呼び起こす。


黒野君に花束をプレゼントもらった事は幽霊時代にもあったね。


花束の入った袋に顔を埋め、嬉しくてスキップして帰ったね。


これが2回目の花束。


やっぱり私……黒野君が大好き…。


そして、気がついた時にはもう遅かった。


あたたかくて、懐かしくて、切なくて…どうしようもない感情が溢れ出し、キリコ先生に抱きついて泣いてしまった。


多分、私は医師になっても、どうしようもなく嬉しい時、悲しい時は患者さんの前でも絶対に泣いてしまうだろな…。

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