第37話 ビデオメッセージ 黒野目線
2014年2月
去年、空港でストリートピアノを弾いてからというもの、ピアノの練習が楽しくてたまらない。
先月も1度足を運んび、今日もまた行く予定だ。
電車を乗り継ぎ、ピアノを1曲弾いて、カフェで図書館で借りた本を読みながら、コーヒーを1杯飲む。そのあと、展望台で飛行機の離着陸を眺めたら帰路につく。
たったそれだけのことなのに、不思議と心が満たされる。交通費とカフェ代を合わせて1500円くらいかかってしまうが、これで1ヶ月ピアノの練習が楽しめるのだから、安いものだ。
今日は「春よ、来い」を弾くつもりだ。
まだ寒さの残る2月の終わりに、ぴったりの1曲だと思うったからだ.
ストリートピアノの前には、すでに数人が並んでいた。3人ほどの演奏を静かに見守ってから、自分の番が来る。
それぞれの人が、それぞれの思いを込めて弾いているのが伝わってきて、待っている時間も心地よかった。
自分の番が回ってくると、深呼吸をひとつしてから、静かにピアノの前に座った。少し冷たい鍵盤に指を置くと、不思議と心も落ち着いていく。
そして、「春よ、来い」の最初の音を、そっと響かせた。
満開の桜…アルティスの卒業と美亜ちゃんとの別れを思い出しながら弾く。
あれから4年が経つのか…。そんな思いが心をよぎる。
君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています
歌詞を心の中で噛みしめながら、最後の和音を静かに響かせた。
しばらくの沈黙のあと、どこからともなく、拍手が起こった。15人ほどの人たちが、足を止めて聴いてくれていた。
僕の弾き方がよかったのか、それとも選曲がよかっただけなのかはわからない…。
けれど、誰かの心に何かが届いたのなら、それで十分だった。
小さく会釈してピアノから立ち上がると、目の前で拍手していた年配の女性が、そっと言った。
「…あたたかい音でした。明日にでも春が、来る気がしますね」
思わず笑って「ありがとうございます」と返すと、胸が熱くなった。
外はまだ冷たい風が吹いていたけれど、僕の中には確かに、春がひと足先に訪れている様な気がした。
2014年3月
部活が終わって家に帰ると、ちょうど電話が鳴っていた。母が受話器を取り、少し驚いたような声で振り返る。
「元一、キリコ先生から電話よ」
一瞬、頭が追いつかなかった。
もう2度と会えないと思っていたからだ。
受話器を手に取ると、懐かしい声が聞こえてきた。
「ご無沙汰しています、キリコです。元気?」
「はい、元気っす」
「ふふっ。いいわね。その部活言葉!」
声を聞くのは、もう4年ぶりくらいになる。
「今は携帯持っているよね?」と聞かれ、番号を伝えると、数秒後、今度は携帯に着信があった。
「本当久しぶりね」
「はい、お久しぶりっす」
「声も変わったね」
「ええ、ももう直ぐ高二っすから」
「そうよね、身長も伸びたでしょう」
「ええ、182㎝になりました」
「えー!20㎝くらい伸びたんじゃないの?、街であっても絶対誰だかわからないや」
「そうかも知れませんね。……文通の件は本当にありがとうございました。お礼言わなきゃって…ずっと思っていたのですが言いそびれてしまって、申し訳なかったっす」
「ああ…いいのよ…聞いたわ。ずっと会えなくて、やっと会えるって時に、美亜ちゃんのお祖母さんが亡くなって…黒野君の気持ちもわかるよ…辛かったね?」
「…すいません…」
「私に謝らないでよ。黒野君、彼女できた?野球部でそれだけ背が高いとモテるでしょ?」
「いや、全然。女子と話する事すらないっすよ」
「そうなの?あ、今日の要件なんだけど…美亜ちゃん、今月の3月でアルティス辞めちゃうのよ」
「えっ!?そうなんすか…。それは残念すね…受験勉強に集中する為ですかね?」
「まあ、そんなとこかな。黒野君は今月末暇?美亜ちゃんの最後のレッスンの日に黒野君がやったみたいにサプライズで呼ぼうかな?って思っているんだけど…」
その日は卒業する3年生との引退試合があるのだ。
引退試合はとても大事だけど、休みたい…。
でも…それだけは絶対に事できない。
せめて時間が違えば…。
「何時からすか?」
「13時からよ」
試合時間と一緒だ…。
部活サボろうかな…。
だめだ…。大切な引退試合をサボるなんてできない。
もしバレたら、野球部に居られなくなる可能性すらある…。
「すいません…その日大事な3年生との引退試合で…またすれ違い…すね…」
「それはしょうがないよ、そっち優先しなさい」
「…はい…」
「それじゃ…後でLINEのID教えるから、なんか動画送ってよ…なんでもいいから」
僕は1人で喋るのがとにかく苦手なのだ。そんな理由で留守番電話の音声入力になると切ってしまうほどだ。でも、さすがに断れない。
「はい、わかりました。でも…迷惑じゃないすかね?僕のことなんてもう…」
「何言ってるの?美亜ちゃんの事はなんでもわかるの。3歳から教えているのよ」
そんなキリコ先生がそう言ってくれたのが僕の胸を熱くさせた。
「わかりました。動画撮影、全力で頑張らさせて頂きます!」
「ハハハ、そんなに頑張らなくていいから。自然体でいいのよ。まだピアノはやっているの?」
「はい、ストリートピアノを月に1回弾くようにしてから練習に身が入る様になりました」
「それはいい考えね。何を弾いているの?」
「初めて弾いてのが12月のクリスマスの前の日曜日に空港で『戦場のメリークリスマス』を。この前は『春よ、来い』を弾きました」
「いい選曲ね、美亜ちゃんの事思い出しながら弾いたんでしょ?」
「すごい…なんでもお見通しなんすね?」
「伊達に女45年間もやってないわよ」
「えっ先生45歳なんですか?」
「そうよ、知らなかった?」
「若々しかったから…」
「ハハハ、ついにお世辞まで言える様になったのね。成長したじゃん!じゃあ、そう言う事でショートメールにLINEのID送るからね。動画よろしくね」
「はい、わかりました」
色々考えた結果、ピアノを1曲弾いた後、何か短いメッセージを伝えようと思う。ピアノは家の電子ピアノを使う予定だ。
頭が混乱したが、美亜ちゃんに見てもらえると思うと気合が入った。




