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第36話 別れ 美亜目線

2013年11月


あの日から4日が経ち、お父さんは家でゆっくりコーヒーを飲んだり、庭の草木の手入れをしたり、映画や音楽鑑賞をしたり、非常に落ち着いている。


美しいコッツウォルズに帰り、おばあちゃんとの生活に胸を躍らせているのだろう。もちろん私を連れて帰りた事は十分伝わっている。


対照的にお母さんは、食欲がなくやつれ気味で元気がない。


この前、離婚の話をした時の様な余裕はまるでなかった。去年に母を亡くし、帰る場所もない。ブランクもある仕事を再開しなくてはいけない…。差し迫る現実に不安でいっぱいなのだろう。


私は当初お父さんについて行く事に完全に心が傾いていた。コッツウォルズの生活は幸せが保証されている気がしたからだ。


時間をかければイギリスの高度な英語にも対応できる自信はあったし、大学受験も浪人しても許されるだろう。生活習慣もそこまで問題はない。


私の全てを優しく包み込んでくれる、夢の様な生活が待っている様な気がしてならなかった。


しかし、1度イギリスに根を下ろしたら、黒野君とはもう2度会えはしない気がした。この事は私の中ではかなり重要な事だ。単なるオトコの話ではない。


もう1つの選択肢はこの家に残ってお母さんと2人で生活する未来だ。


お母さんの今の気持ちと人生を軽く反芻してみる…。


今まで裕福ではない生活の中、必死に勉強し、いい大学に入り、英語をマスターし、いい会社に入社して秘書になり、お父さんと結婚して、私を産んだ。


よくわからないけど、小さな頃から何かと私に辛く当たってきたお母さん。


そんな私もお母さんを憎み、忌み嫌ってきた。


でも私はお母さんに何をしてあげたのだろうか?


今までは与えられて当然、子供だから愛されて当然と思っていなかっただろうか…。


お母さんだって感情のある1人の人間なのだ。


1度思いっきりぶつかってもいいから、お母さんとしっかり向き合いたい。


弱っているお母さんをしっかり支えたい…。


イギリスに行く選択をし、坂道を転げ落ちて行くお母さんを見放したら私は一生後悔をするだろう。


そんな気持ちが湧き上がっていた。


お父さんは大丈夫だろう。優しいおばあちゃんもいるし。


家では完全にお母さんの尻に敷かれていたが、本当はすごく強い。


イギリスで羊飼いの仕事をしてみたいと夢も語っていた。聡明なお父さんは必ず成功するだろう。そんな気がした。


私は飛行機にも乗れる様になったし、お父さんには定期的に会いに行ける。



         * * *



あの日から1週間が経ち、腹は決まった。


朝の8時にリビングで、私は2人に伝えておいた。


お父さんは、堂々と落ち着き払っている。


“私がお父さんを選ぶ”と言う自信もあるのかもしれない。


コーヒーを飲みながら、セリーヌの頭を撫でている。ちなみに、セリーヌは私について行く事だけは決まっている。


一方でお母さんの目は、ますます虚ろになり、目の下には深い隈ができているのが見えた。


今、この瞬間がどれだけ辛いのかが、ひしひしと伝わってくる。私に嫌われているのはわかっているから…。


……死ぬほど言いづらい……。


大きく深呼吸を1つ。


「……まずは……お父さん……本当にごめんなさい」


私は頭を深く下げた。


「……いいんだよ……」


その言葉を聞いたとき、絶対に泣かないって決めていたのに、涙がポロポロと溢れてきた。


お父さんがあまりにも悲しそうな目をしていからだ。


お母さんは安堵した様で涙ぐんでいる。


「それがいいよ、美亜。麗子を守ってあげなさい。私が1度本気で愛した麗子を…」


「…うん…本当にごめんね。絶対に、コッツウォルズに行くから…羊飼いの夢、叶えてね」


「……うっ……」


お父さんが泣いているのを初めて見た…。


「本当にごめなさい!!」


その言葉が出た途端、もう抑えきれなくなった。


声を上げて、子供のように号泣してしまった。


絶対に泣かないって決めていたはずなのに、あふれる涙は止まらなかった。



        2013年12月 



今日はお父さんがイギリスに帰国する日だ。


私とお母さんの物だけが残され、改修工事が終わったばかりの家は寒さも相まって、とても淋しく感じられた。


うちにはもう本当にお金がないらしく、家庭教師も家政婦のタエさんとも契約を終了した。


バタバタしていて、きちんとお別れも言えなかったけれど、今日は自宅に来てもらい、一緒に空港に見送りに来てくれることになっていた。その時にきちんと、お礼とお別れの挨拶をしようと思う。


弱りきっていたお母さんは、私が日本に残ると決まったらすぐに回復して、仕事も決まった。来年から働く予定らしい。


回復してよかったけど、やはり神経が図太い。


仕事内容は、知り合いのホテルの中に入っている高級ブティックと言っていた。


なんか、すごくお母さんらしい…。


高級車のジャガーとカイエンは売却し、「本当にお金がなくなったのだな」と実感した。


しかし、お金がなくなった事では不思議と淋しさは感じなかった。


そんな状況でも見栄を張りたいお母さんは、値崩れが激しい、真っ赤なアルファロメオスパイダーを中古で安く買った。


この車は2シーターのオープンカーで、私とセリーヌが一緒に乗る事ができない。


このデリカシーのなさが本当にお母さんっぽいと、思い「これからの生活が思いやられる」と強く実感した。


夕霧空港までは黒塗りのハイヤーを借りた。


電車でもよかったのだが、最後の贅沢と言う事なのか、これもお母さんが決めた事だ。


こう言うの本当にいらないから!


ハイヤーには助手席にお母さんが乗り、後部座席の真ん中に私が座り右にお父さん、左にタエさんが座った。


運転手さんから見たら後部座席が家族だと思うだろうな。


お父さんとお母さんは、相変わらず殆ど話さないし…。



         * * *



空港にはお父さんの勤めていた会社の人達や友人も数人来ていて、最後のお別れをしていた。


私はまた、お父さんに会えるけど、ここにきた人達の中には「もうこれで本当に最後になる人もいるのかもしれない」と思うと感慨深かった。


本当に最後になる人…。


タエさんもお母さんも、もうお父さんには2度と会う事はないのかな?


もし、私が黒野君と結婚式を挙げたら、その場合両親の2人のどちらを呼べばいいのだろう?とか考えてしまった。


今日はお父さんを、絶対笑顔で見送ると決めていた。


いつも泣かないって決めているくせに、すぐに泣いてしまうけど。


……私は本当に泣き虫だ……。


チェックインカウンターの前に来ると、最近殆ど喋らなくなっていた2人が英語で何か喋っている。


小声で話しているので、内容までは聞き取れないけど、はにかみながら話す姿がまるで出会ったばかりのカップルの様に親密に感じてしまい、また泣きそうになる。


今日は泣かないから…。


お父さんが何か言い終わるとお母さんを抱き寄せ、2人は強く抱き合った。


それを見た私は、一瞬で号泣してしまった。


お父さんがお母さんと出会い、デートをして、結婚式を挙げ、私を産み、洋館を買い……。


すれ違う前の幸せな生活を想像したらいっそう泣けてきた。


本当に何でこんな風になってしまったのだろう?


会社や友人の人でも泣いている人がいる。


おそらくその人達は、私が生まれる前から2人を見届けてきて、結婚式にも参列した方なのだろう。


「もう時間だ。麗子。美亜をよろしく頼むよ」


「…はい…お身体に気をつけて…」


「タエさんも長い間本当にありがとうございました。落ち着いたら美亜とイギリスに遊びにきてください」


「はい…必ず行きます。こちらこそ本当にありがとうございました」


会社の人や友人たちにも丁寧に挨拶をした後、振り返らずに颯爽とセキュリティチェックのゲートの中へ消えていった。


最後に振り返らなかったのは過去の未練を断ち切り、前を向く為の強い意志だろう。


遠ざかって行くお父さんの背中を見てそう感じた。


「羊飼いの仕事頑張ってね、絶対に行くから…」


私は心の中でつぶやいた。



         * * *



送迎車専用レーンにハイヤーは待たせてある。


お母さんとタエさんと3人で向かっていると、どこからか、ピアノの音が聞こえてきた。


《戦場のメリークリスマス》だ。


「この映画、見たことがある」


ふと、そんなことを思い出す。


昔、お父さんが録画してくれたのを、一緒に観たのだ。インドネシアのジャワ島を舞台に日英のスターが共演した作品だ。


今日の日英の2人の別れのシーンもちょっと映画のワンシーンっぽかったな?


今日はクリスマスの4日くらい前…。


優しくていい音色…。


足を止めてゆっくり聴きたいけど、今はできない。


ふと振り返ると、その後ろ姿はどことなく黒野君に似ている気がした。


「まさか、ね……」


自分に言い聞かせるように、私は前を向いた。


ハイヤーの扉が開き、タエさんが私の肩にそっと手を添えてくれる。


その温もりに、ようやく少し落ち着きを取り戻した。


心の中ではまだ、「戦場のメリークリスマス」が響いていた。


今日の日の出来事はこの音色と共に一生私の心に刻まれる事になるだろう。


やさしくて、切なくて、どこか懐かしくて、心に残る音色…。


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