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第35話 ストリートピアノ 黒野目線

2013年11月


兄さんの野球道具は、クローゼットにしまったままだ。今は受験勉強に忙しいらしく、部屋からも出てこないし、あれから話すこともない。


野球が大好きで、勉強もできて、誰にでも優しかった兄さん。


でも、その野球が兄さんをぶっ壊してしまった。



「1度捨てたものは、取り戻すのがすごく難しいんだよ」


そのことをどうしても伝えたかったが、口下手な僕には簡単に言葉にできることではなかった。


それに、美亜ちゃんと文通をしていただけの自分のことと、親元を離れて野球にすべてを捧げてきた兄さんを同列に語るのは、あまりにも失礼に感じたからだ。


僕は、美亜ちゃんとの恋愛のことに対して、あまりにも怖くなって、すべてを捨ててしまっただけだ。


何1つ、頑張ったことなどなかったと、今さら気づいた。


でも、せめてランニングだけでも一緒にできないかな。


そう考え、勇気を出して部屋をノックした。


トントン


「入るよ」


「……何?……」


「明日からランニング一緒にどうかなって思って」


僕が言った言葉は、かなり小さくて、震えていた。

部屋の中は静かだった。


兄さんは黙ったままで、僕の顔をじっと見つめている。


「……」


その間、まるで何も言わないほうがいいんじゃないかと思うほどの沈黙が流れた。


でも、僕はそれに耐えて、じっと兄さんの目を見た。


何度も何度も、考えた言葉だったから。


やっと、兄さんが口を開いた。


「そんなことより勉強に集中したい」


その声は、冷たいものだった。


僕は、少しだけ引き下がった。


けれど、黙って部屋の前に立っているのも耐えきれなかった。


「……ごめん」


一度、深く息をついた後、もう一度言った。


「じゃあ……せめて、また何か話してくれないかな?」


その言葉に、兄さんは一瞬だけ目を細めた。


その後、すぐに何も言わずに顔を背けたけれど、その背中には少しだけ、かつての優しさが残っているように見えた。


「……ああ……」


兄さんがぼそっと言って、顔を上げてきた。


「……じゃあ、走るよ……」


少しだけ、不意に笑った顔を見せて、兄さんはベッドから起き上がった。



         2023年12月



ランニングを再開してから、元気が出たらしく、笑顔が増えた。1人で走るのも気持ちがいいけれど、2人で走る方がもっと楽しい。お互いのペースに合わせながら、少しずつ距離を伸ばしていく。


その時、あの頃の兄さんのような輝きを少しだけ取り戻した気がして、嬉しくなることがある。


でも、大好きなピアノの方は全く弾けていなかった。勉強や部活が忙しいのもあるけれど、やっぱり何より、聴いてくれる人がいないと、どうしても弾く気が起きないのだ。


夕霧駅の地下のコンコースや夕霧空港の出発ロビーにストリートピアノがあるのは知っていた。


そこで何か弾くことができれば、ピアノを練習する気にもなるだろう。そう考えた。


あまりマニアックではなく、僕好みのしっとりとした、12月っぽい曲がいいかな?


少し考え、選んだ曲は坂本龍一先生の「戦場のメリークリスマス」だ。


コンクールではないから、細かいことを気にせず、ただ自分の気持ちを込めて弾くだけ。

別に難しい曲でもない。


楽譜はインターネットでダウンロードした。


今は部活もシーズンオフで早く終わるので、1週間練習したら行ってみようと思う。


途中で何人か足を止めて、聴いてくれる人がいる姿を想像したら、自然とワクワクしてきた。



         * * *

  


今日は夕霧空港の出発ロビーに来ている。


1週間みっちり練習した「戦場のメリークリスマス」をストリートピアノで弾くためだ。


この方法はとてもいいかもしれない。


通りがかりの数人でもいいので、誰かに聴いてもらえると思うと、練習にもめちゃくちゃ気合いが入るからだ。


ストリートピアノは出発ロビーの通路の片隅に置いてあった。


黒い光沢の美しいアップライトピアノだ。


幸い今は誰も弾いていない。


少し緊張しながら、静かに腰を下ろし、鍵盤に手を置いた。


最初の音が響いた瞬間、ざわめきの中に小さな静けさが生まれた気がした。


ゆっくりと、丁寧に、音を紡いでいく。


明らかに足を止めて、聴いてくれている人がいる。


すごく嬉しい!


そして楽しい!!


家で1人で弾いている時とはこんなにも違うのか。


コンクールの時のような嫌な緊張はまるでない。


ただ、ただ楽しい!!


もっと足を止めて僕のピアノを聴いてくれ!


その時、一瞬、鏡の様に映し出された真っ黒なアップライトピアノのボディに目をやると一瞬、美亜ちゃんが振り向く姿が映った気がした。


「…まさか…ね…」


曲が終わると、僕は静かに立ち上がり、一礼してその場を離れた。4、5人の外国人グループと5、6人の日本人が拍手してくれた。


思ったより反響があったな。


めちゃくちゃ楽しかった。


また弾きたいな、と思い空港を後にした。

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