第34話 大事な話 美亜目線
2013年4月
春が来て高等部に進学した。
再び手芸部に入り、校舎も中等部から高等部に移ったけれど、それは同じ敷地内の別の建物に過ぎず、毎日の生活は大きくは変わらなかった。
外部生もちらほら入ってきた。全体の2割ほど。けれど、彼女たちの話す内容も、身につけているものも、どこか聖英女学院の空気に馴染んでいて、「変化」というほどのものではなかった。
変わったとすれば、夏まで文通を交わしていた、黒野君という心の支えを失ったこと…。
私を蘇らせてくれた黒野君の事は今でも大好きだ。
多分これからも、ずっと好きだろうな。
ポストにセリーヌの手紙を一緒に投函した時に私は
「黒野君以外の事を好きにならないから」って約束したのだから…。
黒野君も2023年、つまりあと10年後になったら、私みたいに全て思い出すと思っている。
“6日間の記憶”あの時体験した、スマホやサブスクは今や現在爆発的の普及して、当たり前の日常的になりつつある。あの記憶は幻想なんかではないはずだ。
* * *
今の絶対的な目標は、医学部に進学することだ。
このあたりで医学部のある大学は3校ある。
ひとつは夕霧大学。国立で、学費も安く、医療界での評価も高いが、かなりの狭き門だ。
もうふたつは私立の大学で、夕霧医療大学と上星館大学医学部。それなりに難関ではあるが、国立の夕霧大学ほどの競争率ではなく、現実的な進学先として考えていた。
私立のどちらかに入れたらいい……。
この頃は、漠然とそんなふうに考えていた。
2013年 8月
家の改修工事が始まって4ヶ月が経過した。
この洋館は、両親が結婚したときに購入したものだ。元々は、貿易で財を成した外国人が建てたもので、外観は今でも息をのむほど美しい。
けれど、築年数は60年を超えていて、細部の傷みはかなり進んでいた。壁のひび割れ、雨漏り、軋む階段、耐震補強もしなくてはならない。見た目の華やかさとは裏腹に、住むには限界が来ていたのだ。
改修工事は、家に住みながら、左右半分ずつを順に行う形で進められていた。
平日の昼間は、大工の足音や工具の打撃音が家中に響き渡る。
お母さんはその騒音をひどく嫌い、次第に家を空けることが多くなった。
昼間の洋館に残っているのは、タエさんとセリーヌだけだった。
一体、誰の家なのか――そんな疑問が、私の胸にふと浮かぶこともあった。
工期は半年の予定だけど、お父さんは今のお母さんの態度にひどく憤慨しており、2人の間の空気は、目に見えて冷え込んでいった。
どんな時でも穏やかで優しかったお父さんが、最近は常に機嫌が悪い。仕事の方でも何か重大なトラブルを抱えている様であった。
そんな中、お母さんが珍しく謝っていた。
「工事が終わったら、ちゃんと家にいるから。こっちも頭が変になりそうなのよ。ごめんね」
そう口にしてはいたが、どこか他人事のような、上の空のような口調だった。
2012年 10月
日曜日の朝。お父さんとお母さんが無言でテーブルに座っている。
「……おはよう……」
「おはよう、美亜」
「Good morning」
声のトーンも、表情も、まるで何かを押し殺すようだった。
———世界が一変しているのを感じた。
眩しい太陽がリビングに差し込んでいる。
空も限りなく青い。
動悸がした。
嫌な予感が、胸の奥をじわじわと締めつけてくる。
私は怖くなりセリーヌを抱きしめた。
その時、お母さんが静かに口を開いた。
私は思わずセリーヌから手を離し耳を塞ぎたくなった。
何を言うのかわかっていたから…。
「美亜、座りなさい。あなたも、今は日本語で話してちょうだい」
「……OK」
OKは英語だけど…。
…って、今は突っ込む雰囲気ではない。
「私たち、離婚することにしたの。お父さんは昨日で仕事を辞めたわ。イギリスに帰りたいんですって」
「……」
わかっていたはずだった。
でも、いざ言葉にされると、頭の中が真っ白になった。
頭の中ででお母さんの声が響いているのに、それが何の言葉なのか、すぐには理解できなかった。
現実なのに、現実じゃないみたいだった。
まるで、悪い夢の中にいるような…そんな感覚だった。
「辞めた、というより……解雇されたんだよ。美亜、本当にごめん。見ての通り、最近は麗子とはうまくいっていない。どうか許してほしい……美亜にこんな話をすることになるなんて…」
お母さんはそれを遮るように、少し早口で言った。
「退職金は、この家の改修費に当てたわ。聖英を卒業するまでの学費くらいはあるけれど、あとはそんなに残っていないの。家は残るけど、今までみたいな生活はもうできないわね」
「えっ?」
「大学も、私立は無理ね。それから……タエさんに来てもらうことも、もうできなくなると思う」
「……何を言ってるの?」
私の声は、自分でも驚くほど小さく、かすれていた。
「今後の、ここでの生活の話よ」
お母さんは淡々とした声で言った。
お父さんが目を伏せ、ぽつりと付け加えた。
「私は実家に帰って、イギリスで仕事を探すつもりだ。今は年老いた母さんのそばにいてあげたいんだ…」
お父さんの声は静かで、どこか寂しさをにじませていた。
するとお母さんが、私の目を見つめて言った。
「それでね、美亜はどちらについて行きたい?答えは、1週間後でいいわ…。」
今すぐこの場を離れたかった。
「…ゴメンネ…セリーヌと、散歩に行ってきていい?ちょっと…外に出たいの…」
「いいわよ。いってらっしゃい」
空は高く澄み渡り、空気にはほんのりと秋の匂いが混じっていた。
涼しくなった10月の朝は私の気分とは裏腹に清々しかった。
何もわかっていないセリーヌはすごく嬉しそうに息を弾ませている。
こんな事がなければ最高の朝だったのに…。
裏手の森を抜ける小道を歩いて、小さな広場へ向かう。
あそこは静かで、自然に包まれた大好きな場所だ。
私はすぐに泣いてしまうけれど、このことでは泣かないと、心に誓った。
泣いてばかりじゃ、救命医になんてなれない。
命の現場に立つには、強さがいる。
広場に着くと、木陰にぽつんと置かれた小さなベンチに腰を下ろした。
セリーヌは足元に丸くなり、穏やかに呼吸している。
私は両手を膝の上に重ね、そっと、目を閉じた。
慣れ親しんだ日本を離れることは、正直、想像できなかった。けれど、この家で、お母さんと2人きりで過ごす未来を思い浮かべると、寒気がした。
優しいお父さん、そして大好きなおばあちゃんに囲まれて、コッツウォルズで過ごす日々が楽しいことは、間違いない。とはいえ、コッツウォルズやイギリスの大学の事情について、私はほとんど何も知らなかった。
どこかの大学には入れるのかもしれない。けれど、今までしてきた試験勉強と違うイギリスの医学部に入る事がいかに困難な事か…。それくらいは、分かっていた。
そして、こんな状況にもかかわらず、私はまだ黒野君のことを考えていた。
今、どうしているだろう…。
イギリスで新しい生活を始めたら、きっと、もう2度と会うことはできないかもな…。
「セリーヌ、私どうしたらいいの?」
「くぅ~ん…」
私が悲しい顔をしているのを感じ取ったのか、
セリーヌはそっと顔を近づけてきた。
そのつぶらな瞳は、何も知らないふりして、全部をわかってくれているようで思わず、首もとに顔を埋めた。
…泣かないって、さっき誓ったばかりなのに…。
そう呟いたけれど、もう手遅れだった。
涙は静かにこぼれて、セリーヌのやわらかな毛に染みこんでいく。
思わず、強く抱きしめた。
その温もりだけが、今の私をかろうじて支えてくれていた。
しばらくして涙が落ち着くと、顔を上げ、空を見た。
木々の向こうに、淡い秋の光が差し込んでいた。
「……あと1週間、必死で考えてみる!」
そう言ってみても、自分の心はまだどこにも動いていなかった。
けれど、こうして泣いたことで、ほんの少しだけ前を向ける気がした。




