第33話 高校入学 黒野目線
2013年4月
穂平高校の理数科に入学した。偏差値は62。特別な進学校というわけではないが、地元ではまずまずの進学実績を誇る高校だ。
野球部にも入部した。毎年、夏の大会は2~3回戦あたりで敗退するので、強豪校というほどではないが、真面目に取り組んでいる雰囲気はある。
クラスの雰囲気も悪くない。中学のように、やんちゃな生徒が騒ぐことはほとんどなく、授業中はとても静かだ。
喋る友達はいる。
でも、特別に仲がいいわけでもないし、相変わらず女子とはほとんど接点がない。
通学は、最初は電車を使っていた。
家から駅まで歩いて15分、電車に揺られて15分、さらに学校まで歩いて15分。合わせて片道45分。
けれど半月も経つ頃には、自転車通学の方が楽だと気づいた。
自転車ならおよそ35分。少し汗はかくけれど、電車を待ったり、人混みに揉まれたりするストレスがないぶん、ずっと気が楽だった。
ただ、当然ながら良いことばかりではない。
ある雨の日には全身びしょ濡れになって登校し、静かな教室の中でひとりだけ足元をぐっしょり濡らしながら過ごした。
向かい風の日は、ペダルを踏んでも思うように進まず、知らないうちに体力を消耗していた。
近いようで、意外と遠い道のり。
けれど、サイクリングだと思えば楽しくもあったし、帰り道にひとりで自転車を漕いでいると、学校も家も、何もかもからふっと解放されたような気分になった。
何より今の季節、風が最高に気持ちいい。青い空や新緑も本当に綺麗だ。
たまに、地球と自分がしっかり繋がっている様な感覚を覚える事まであるほどだ。
そんな中でも美亜ちゃんと偶然どこかで会えたらな、なんて都合のいいことを考えてしまう。
彼女は徒歩通学で、僕は自転車。
部活で女子高の聖英女学院に行く機会もまずないし、その“偶然”すら、きっと訪れないだろう。
考えれば考えるほど、それが現実なんだと思い知らされた。
美亜ちゃんの事は今でも好きだ。
ただ以前の様に、狂おしいほどって感じではない。
彼女が幸せなら、それでいいと思っている。
2013年 9月
野球の強豪校、美波栄心学園高校に進学した兄は、かつて中学時代のエースで4番だった。
県大会の決勝まで投げ抜いた姿は、僕にとって憧れそのものだった。
だから当然、高校でもエースとして活躍し、もしかしたらプロから声がかかるんじゃないか?
そんなふうに本気で思っていた。
けれど、現実は違った。
高校では3年間、ついに1度もベンチ入りすることなく、兄さんは引退を迎えた。
そして今、部活を引退して寮を出て、家から通学している。
やはり、元気がない。
そして何より、僕と野球の話をしようとしない。
気持ちは、わからないでもない。
でも、ずっと兄さんに憧れてきた僕にとって、その沈黙は寂しいし、どこか複雑でもあった。
兄さんは、以前のようにプロ野球中継を見ることがまったくなくなった。
かつては一緒になって熱心に観戦していたのに、いまは中継に目もくれない。
それどころか、僕がテレビで野球中継を見ていると
「悪いけど、自分の部屋で見てくれない?…その音、聞いてると頭が痛くなってくるんだ」
そう言われた。
目は合わせず、声も低く、まるで音楽か何かが騒音にしか聞こえないような言い方だった。
最初は、わかっていたつもりだった。兄さんがどんな思いで引退を迎えたのか。言葉にできない悔しさを抱えていることも。
でも、何度も何度もそんなふうに言われるうちに、だんだんこっちの中にも、何かがたまってきた。
ある日、何気なくつけたテレビに高校野球の中継が映っていた。気になる高校だったので見入っていたら兄さんがちょうど部屋から出てた。
それを見た瞬間に表情を曇らせた。
「また見てんのかよ?ほんと、やめてくれよ…」
その瞬間、何かが切れた。
「そんな野球が嫌ならとっとと忘れちまえよ!!」
普段からおとなしい僕がキレた事で、兄さんは驚いた顔で立ち尽くしていた。
そのまま無言ですれ違い、階段をのぼって自分の部屋に戻った。
それ以来、僕と兄さんはほとんど口をきかなくなった。
朝、顔を合わせてもお互いに目を逸らす。
食卓を囲んでも、そこには重たい沈黙だけが残るようになった。
朝のランニングは、相変わらず続けている。
けれど、兄さんはもうやめていた。
靴を履いて玄関を出たとき、ふと、なぜかゴミ置き場に目がいった。
積み重なる半透明のゴミ袋。
その中に見慣れたものを見つけて、目を疑った。
グローブ。それから、使い込まれた練習用のユニフォーム。バッティンググローブ、アンダーシャツ、練習ノート。
すべて、兄さんが使っていたものだった。
慌てて袋を開け、全部を回収した。
そして、何も言わず、自室のクローゼットにそっとしまった。
今日のランニングは、中止にした。
野球はやめても、野球そのものを嫌いにならないでいてほしかった。プロ野球の中継だけでも一緒に見たかった。
僕のことも、少しだけでいいから、温かく見守っていてほしかった。
野球を辞めるのも、決別のために道具を手放すのも、きっと必要なことだったのだろう。
兄さんの気持ちは痛いほどわかっているつもりだ。
じゃあ、なぜ僕はそれを回収したのか?
自分でもはっきりとは分からない。
ただ、僕も、大切なものを、自分の手で捨てたことがあった。
それは…美亜ちゃんとの事だ。
終わらせたのは、僕自身だった。
それでも、いまだに美亜ちゃんのことは“人間として大好き”で、どこかで見守っているつもりでいる。
だから、兄さんも僕の事を見守ってほしかったし、
野球を嫌いにならずにいてほしかった。
そんな風に思ったのかもしれない。




