第29話 英国へ 美亜目線
2012年8月(中等部3年生の夏)
夏休みに入り、ずっと怖くて乗れなくなっていた飛行機にチャレンジしてみよう、と思った。
大好きなおばあちゃんに、この先ずっと会えないなんて絶対に嫌だ。
目的地は、お父さんの実家——イギリスのコッツウォルズ。
その風景は、「羊のいる丘」を意味する名の通り緑豊かな牧草地と、地元産のはちみつ色の石灰岩「コッツウォルド・ストーン」で作られた家々が特徴だ。
絵本の中のように美しく、散歩しているだけで楽しくてしょうがない所だ。
もちろん、お母さんは「セリーヌがいるから」と理由をつけて家に残る。
本当は行きたくないだけなのだと、もうわかっているけれどね。
正直、空港に向かう道中も、搭乗ゲートをくぐる瞬間も、心臓がずっとバクバクしていた。
航空会社はブリティッシュエアウェイズ。
飛行機に乗り込むと、どことなく雰囲気が英国っぽくなるから面白い。
私は備え付けのノイズキャンセリンングのヘッドホンを装着すると《ジムノペディ第1番》を聴いた。
幽霊の時に、黒野君が私を寝かしつけるために弾いてくれた曲。
木漏れ日ピアノコンクールでも弾いて、全てを思い出すことができた特別な曲。
……いよいよ……飛行機が動き出した。
ドキドキする。
でも、ここからが長いんだよね…タキシング…。
20分はノロノロと動いていただろうか?
滑走路に入ると轟音とともに急加速する。
思わず、お父さんの手をぎゅっと握った。
そして、機体が浮き上がった瞬間———。
不思議なくらい、心がすっと落ち着いた。
……大丈夫……。
もう、あの未来にはならない。
窓の外に広がる太陽と青空と雲海を眺めていると「私には素敵な未来が待っている」そんな気分になった。
* * *
コッツウォルズの夏は日本とは違い、爽やかで、空気が澄んでいる。まるで高原の朝の様な気候だ。
おばあちゃんの家に来るたび、私はここが本当に好きになる。
「Come here, Mia. Let’s make some jam together.」
(おいで、美亜。一緒にジャムを作りましょう)
おばあちゃんはエプロンをつけて、にっこり笑った。私はうなずき、ベリーの実を鍋に入れる。コトコトと煮える音と甘い香りが、胸いっぱいに広がった。
「This… is the kind of thing money can’t buy, Mia. Remember that.」
(こういうのは、お金じゃ買えないのよ、美亜。覚えておきなさい)
「I know, Grandma. I love this time with you.」
(うん、おばあちゃん。こういう時間、大好き)
おばあちゃんは嬉しそうに私の頭を撫でた。
けれど、お母さんは——この時間を絶対に理解しない。おばあちゃんは時折ため息まじりに言う。
「Your mother, Reiko… she doesn’t understand simple happiness. But Reiko only cares about… appearances.」
(あなたのお母さん、麗子はね…ささやかな幸せを理解できないのよ、美亜。麗子は…見栄ばかり気にしている)
「I know… she never came with us, right?」
(うん…お母さん、こっちには全然来ないもんね?)
「She said… ‘I won’t walk in the dirt like a peasant.’ Can you believe that?」
(『私は農民みたいに泥の中なんか歩かない』ですって。信じられる?)
おばあちゃんは少し怒ったように首を振った。
「I love her because she’s James’s wife… but honestly, Mia, I can’t like Reiko.」
(麗子はジェームズの妻だから愛してはいるけれど…正直、私は麗子のこと好きにはなれないのよ)
私は黙って頷いた。お母さんとおばあちゃんは、まるで違う世界の人だ。
お母さんはブランド物や豪華な暮らしが大好きだけど、おばあちゃんは土の匂いのする生活を愛している。
「You… you’re different. You have a good heart.」(でも…美亜、あなたは違う。いい心を持ってる)
「Thank you, Grandma. I think… I want to be like you.」
(ありがとう、おばあちゃん。私…おばあちゃんみたいになりたい)
おばあちゃんは目を細めて微笑んだ。
その笑顔が、とてもあたたかくて…私はこの人のそばにいたいと強く思った。
こんなにも素敵なおばあちゃんだけれど、聞けば、おじいちゃんはとても厳しい人だったらしい。
だからこそ、お父さんは幼い頃から必死に努力し、名門大学を出て、今では医療機器メーカーの社長にまでなれたのだろう。
そんなお父さんを、かつて秘書として支えたのがお母さんだった。外ではいつも完璧で、美しく、社交的で、頭の回転も速いお母さん。
きっとお父さんは、そんなお母さんに心を奪われてしまったのだと思う。
でも、どんなに違和感を覚えることがあっても
私は間違いなく、お母さんの娘だ。
だからこそ、なるべく「お母さんのいいところ」を見ようと心がけている。
そうしないと、きっと私は、この先どこまでもお母さんを嫌いになってしまう気がするから…。




