第25話 野球部 黒野目線
2010年4月28日水曜日
中学生になってから、急に自由な時間がなくなった。朝は、2つ上の兄さんと一緒に始めたランニング。放課後は野球部の練習が2時間。月曜日だけは部活が休みだけど、その日は英語の塾が入っている。
土日だって、ほとんど練習だ。こうなることは、ずっと兄さんの背中を見てきたから覚悟はしていたつもりだった。
だけど実際に始まってみると、想像以上だった。
大好きだったテレビゲームも、家の電子ピアノも、触れる時間がほとんどない。別の世界に来たみたいだ。
これが中学生ってやつか……。
そんな事をふと思った。
クラスの方はというと、僕の通う平原三中は、2つの小学校が合わさったので、クラスメイトの半分は見知らぬ顔だった。だから、毎日がちょっと新鮮で楽しい。
入学当初は、学生服に袖を通しただけで「みんな大人になったな」なんて思った。
しかし、みんなも、そんな急には変わらない。
クラスの雰囲気も、今のところは小学校とあまり変わらない気がする。
そんな中で、新しくできた友達がいる。
名前は結城龍星君。
自己紹介の時に「ピアノが趣味です」と言った僕に、「僕もだよ」と返してきたのがきっかけだった。
男子でピアノが趣味って珍しい。
だから、すごい嬉しかった。
都内からお父さんの転勤で引っ越してきたらしく、知り合いは誰もいないはずなのに、すぐに馴染んでて「すごいな」と思った。
噂では家がものすごいお金持ちだとか…。
しかも、顔がやばいくらい整ってる。
イケメンって言葉じゃ足りないくらいに。
他のクラスから女子が見に来るだけにとどまらず、3年生の先輩女子まで廊下から覗いてきたりして、ちょっとした騒ぎになっていた。
「芸能人でもいるのかよ」って思ったくらい。
本人もそれを気にする様子もなく、自然な笑顔で手を振ったりしてたから、余計にキャーキャー言われていた。
しかも野球部に入るというではないか。
「ずっと一緒にいられる」男の僕でも胸が高まった。
ただ、野球部はまったく別の世界だった。
顧問の林田先生がとにかく怖い。これも兄さんから聞いてはいたけれど、正直、想像以上だった。
年がら年中怒鳴り散らしていて、練習の空気は常にピリピリしている。
しかも、ものすごい甲高い声で怒鳴って、何を言っているのかいまいち聞き取れないのだ…。
先輩たちも怖かった。
たった1つ上の先輩ですら「神様」みたいな扱いだ。
正直それには面食らった。
小学校の頃、一緒にテレビゲームをしてよく遊んだ河田君。
「あ、河田君!」
久しぶりに顔を合わせた時、僕はうっかり小学生の頃の感覚でタメ口をきいてしまった。
その瞬間、河田君はものすごい剣幕で怒鳴ってきた。
「舐めんな!!」って。
あんな河田君を見るのは初めてだった。
多分、彼も上から同じようにされてきたのだろう。
いや…これからは「河田さん」だ。
でも正直、意味不明だと思う。
僕は後輩が入ってきてタメ口をきいたからって絶対に怒らないと思うけどね。
でも父さんも言っていた。
「大人の社会もそんなもんだ」って。
ただ、僕は恵まれている方かもしれない。
兄さんが野球部の部長でエースで4番、先輩たちの中でも絶対的な存在だ。
その弟というだけで、僕に対してあまり強く出られない雰囲気が自然とできあがっていた。
河田さんは例外だったけど…。
そんな中でも、こんな出来事があった。
キャッチボールの練習中、いきなり顧問の林田先生に怒鳴られたのだ。
「おい!!!クロゲン!!!」
(僕は野球部でそう呼ばれている)
「はい!!」
甲高い怒鳴り声は、どうしても“あの事件”を思い出してしまいゾッとする。
思わずボールを持ったまま林田先生のところへ駆け寄る。
すると先生は突然「お前、見込みあり!!」
と言った。
「ありがとうございます」
思わずそう答えたけど、それ以上は何も言われなかった。
怒られると思っていたから…余計に嬉しかった。
帰って兄さんに話すと、「新入生がそんな風に褒められるのは、かなり珍しいぞ」と言われた。
結局、なぜ褒められたのかは怖くて聞けなかったけど……なんだか、それだけで俄然やる気が出てきた。
もし、奇跡的にプロ野球選手になれたら——。
美亜ちゃんの前に堂々と現れることができるかもしれない。
それはさすがにありえないよな。
そもそも運動神経なんてよくもないし…。
そんな馬鹿な妄想までしてしまった。
それにしても、キリコ先生とは180度違うこの先生のもとで、本当に3年間やっていけるのかな…?
2010年5月
最近は月曜日に英語の塾に通い始めたけど、兄さんが言うには「数学も早めに塾に行っとけ」だって。
中学の数学はつまづくと、どんどんわからなくなって、取り返しがつかなくなるらしい。
正直、乗り気じゃないけど……。
まぁ、確かにそうかもしれない。
多分、通うことになるんだろうな。
小学生の頃の様に時間がゆっくり流れている様な日々は2度と訪れないのかと思うと淋しい気分になった。
部活の方では、案の定というか……事件が起きた。
龍星君のモテっぷりは半端じゃなくて、なんと練習中にまで女子たちがグラウンドの外に集まってくるようになった。
まだ球拾いしかしていない僕たち1年生に、だ。
しかもなぜか、特に3年生の女子たちからの人気がすごくて、遠くから「りゅーせーくーん!」なんて黄色い声が飛んでくる。
そんな中で、彼は相変わらず手を振って笑顔を返している。
……お〜い……空気、読もうよ。
もっと不思議なのは、あの林田先生が何も言わないことだ。
怒鳴るときは金切り声でぶちギレてくるくせに、龍星君と女子の件については完全にスルーしている。
この先生の怒りのスイッチ、本当に意味不明だ。
僕はさすがに不安になって、休憩中に龍星君に声をかけた。
「龍星君、それ……まずいって。絶対、上の先輩に睨まれるから……。気をつけた方がいいよ!」
「え?そう? 気にしすぎじゃない?」
なんて、あいかわらず爽やかに返してくる。まったく悪気がなさそうだ。
「龍星君がいた私立の小学校と違ってさ、そう言う空気ってあるんだよ。公立は……先輩がやばいんだって……」
「ふ〜ん……そうなんだ?」
ニコニコしながら言われた。
こりゃ、全く伝わってないな……。
* * *
部活が終わって着替えに部室へ向かうと、なぜか河田さんが入口の前に立っていた。
腕を組み、まるで門番のように仁王立ちしている。
僕が通ろうとすると、目を吊り上げて睨んできた。
「……どうしたんですか?」
「なんでもねーよ!早く帰れ!絶対言うなよ!」
その返しに、ますます不安が募る。
さっきまで一緒だった龍星君が、複数の先輩に囲まれているのを見ていたからだ。
…嫌な予感がする…。
ふと、校庭の向こうに兄さんの姿を見つけた。
僕は迷わず駆け出した。
「兄さん!……大変だ。結城龍星君が……」
「なに?」
「たぶん部室でしめられてる。さっき河田さんが、入口で見張りみたいなことしてて……!」
兄さんの表情が変わった。
「河田が…見張り?」
その言葉と同時に、兄さんはダッシュで部室へ向かった。
近づくと、河田さんを突き飛ばしてドアを開け放つ。
僕も続いて中に入った。
そこで見た光景に、思わず息を呑んだ。
龍星君が、練習着を剥ぎ取られ、裸で正座させられていた。
両手を後ろで縛られ、顔には泥の汚れがついていて、目は赤く腫れていた。
「おい!!お前ら、自分たちが今、何してるかわかってんのか!?」
兄さんの怒鳴り声が部室に響き渡る。
凍りついた空気の中で、先輩たちが次々に動きを止め、顔を伏せた。
兄さんの存在は、この部において“絶対”だった。
「元一、先生呼んでこい!早く!!証拠、消させるな!!」
僕は我に返って、職員室へ走った。
「先生!誰でもいいから、すぐ来てください!野球部の部室で、事件です!」
その声に、数人の先生が立ち上がって一斉に駆け出してくれた。
部室に戻ると、兄さんは龍星君のそばにしゃがみこみ、そっと肩に手を置いていた。
先生たちもすぐに状況を把握し、騒然とした空気に包まれる。
事件はその後、学校でも大問題になった。
龍星君のお父さんは、大企業の社長であり、さらに大物政治家とも深い繋がりがある人物だったらしい。
本人がそれを誇ることは一切なかったけど、学校側が事態を把握すると一気に警察沙汰へと発展した。
いじめに関わった先輩たちは、全員が強制退部処分。部全体も1か月間の活動停止となり、学校内に緊張が走った。
さらに驚いたのは、校内に複数の刑事が来ていたこと。調書の取り方も、まるで傷害事件の容疑者に対するそれだった。
「報復等、何かあったら、すぐに連絡してください」
警察官が僕と兄さんにだけそう告げたとき、とても心強く感じた。
仕返しがすごく怖かったからだ。
それにしても、いじめでここまで警察が本気になるなんて思ってもいなかった。
でも……これでよかったんだ。
見て見ぬふりをしなかったことを、後悔していない。
結局、龍星君はあの事件後すぐに、別の私立中学へ転校することになった。
両親の判断だったのだろう。
あんなことがあって、こんな学校に通わせる訳にはいかないだろう。
僕としては寂しい気持ちもあったけど、そもそもなんであんな御曹司が公立中学校に来たんだろう?
そしてある日曜日の夕方、僕の家に1台の黒塗りの高級車が静かに停まった。
中から降りてきたのは、背筋を伸ばしたスーツ姿の龍星君のお父さんと、品のある雰囲気をまとったお母さん、そして少しだけ大人びた表情になった龍星君だった。
「こんにちは……クロちゃん」
少し緊張した面持ちで、しっかりとした声だった。
彼の隣で、ご両親も一緒に深々と頭を下げた。
「この度は、息子が大変お世話になりました。本来なら私どもが最初に把握すべき事態でしたのに…。黒野さんご兄弟がいなければ、どうなっていたか…」
お母さんもお父さんも、恐縮したようにうなずいていた。僕も兄も、思わず姿勢を正して「いえ……」と声を揃えてしまった。
龍星君は、僕の前に立ち、少し唇を噛むようにしてから、まっすぐ目を見て言った。
「公立中学校には色々な“世界を見る”ために来たんだけどね。クロちゃんの言う事を聞かなかった僕がバカだったよ」
「……いや……」
なんて返していいかわからず言葉に詰まる。
「その点はお父さんにも怒られたよ。ハハハ。これからはもっとしっかりするから…。この恩は忘れないよ。いつか必ず借りは返すから」
「そんな…気にしないで…」
そして龍星君のご両親が丁寧に取り出したのは、見たこともないような大きな桐箱だった。中には、豪華な漆塗りの重箱に詰められた和菓子や、金箔があしらわれたような羊羹、そして手紙まで添えられていた。
「お気を遣わせてしまって……」と母が恐縮すると、ご両親は穏やかに笑って言った。
「いいえ。これは、感謝の気持ちです。息子のためにしてくださったことに、どれほど感謝しても足りません」
龍星君は、最後にもう一度、僕の手をしっかり握ってくれた。
「龍星君…また、どこかで会おうね。ピアノの話の続きも……それから、あのとき話してた“好きな作曲家”のことも、もっとと話したいから」
「転校しても野球は続けるから、絶対にまた会おう」
「うん!いつか対戦できるといいね」
「ハハハッ」
短い間の関係だったけど龍星君とは、またどこかで会える様な気がした。
車が走り去っていったあと、兄がぽつりと呟いた。
「……すげぇな。このレベルのお礼は中々だぞ?」
その声には、ちょっとだけ誇らしさが混じっていた。僕も同じ気持ちだった。




