第23話 卒業 黒野目線
2010年3月27日 土曜日
満開の花が咲き誇るこの季節は、出会いと別れの季節だ。
僕も昨日、小学校の卒業式を迎えた。
そして今日——3年間通ったピアノ教室・アルティスでの最後のレッスン。
こうしてピアノを弾きにアルティスへ来ることも、もう2度とないだろう。
ここは週1回、完全予約制の教室だ。1人45分。その15分後には次の生徒が来る仕組みだから、他の生徒とすれ違うことはあまりない。
キリコ先生のレッスン室は、いつも通り優しい光に包まれていた。最後に大好きなエリック・サティの曲を思う存分弾いた。
はらりはらりと桜の花びらが舞い散る風景を想像しながら…。
「さすが『木漏れ日ピアノコンクール』で2位になっただけのことはあるわね。素晴らしかったわ…」
「はい……今まで本当にありがとうございました」
僕は、ゆっくり深々と頭を下げた。
天皇陛下みたいな、90度のお辞儀。
最上級の感謝を表したつもりだった…。
「ハッハッハーーー!!!」
キリコ先生が思いきり吹き出して、お腹を抱え
て笑う。
……そんなにおかしかったかな……?
「黒野君、最高!そんなお辞儀どこで覚えたの?」
「い、いや……なんとなく……」
「ハハハ、まあ、いいわ。そう言うのやらなくていいからね」
「…あ、はい…」
「もう時間だわ……」
先生はふっと笑顔を見せると、奥のトイレを指差した。
「今日はね……もう15分だけ、ここにいて」
「えっ? どういうことですか?」
「次、美亜ちゃんが来るの」
「えっ……美亜ちゃん?」
「そう。あのお母さんも一緒に来るかもしれないから……だから、隠れててもらうの」
先生は、ちょっと照れくさそうに笑った。
「私、絶対に美亜ちゃんと黒野君、もう1度だけ会わせてあげたかったの。あんな別れ方しちゃったでしょう? 」
「あ、はい…」
「あれから美亜ちゃん、全く元気なくなっちゃってね。私も黒野君から話を聞いたとき、泣いちゃったでしょ」
「……先生……」
「大丈夫。私がタイミングを見てノックするから、その時出てきて。帰りは裏口から出れば絶対にバレないから」
「そ、そんな……そこまでしてもらって……」
「嫌?」
「……いえ。心の準備が……その……」
心臓がバクバク鳴る。
「ふふ、大丈夫。私、会話は聞かないから。イヤホンしてトイレにいるからね!」
いたずらっぽくウインクする先生。
「ああ……だから先生、この時間を指定したんですね」
「そういうこと。最後に、きちんと挨拶くらいはしてほしかったの。春からは、2人とも別々の道へ進むでしょう?それなら、ちゃんと『さよなら』くらい言っておかないとね」
「……ありがとうございます」
「よし、じゃあトイレに隠れてなさい。何を言うか、ちゃんと考えておくのよ?」
「はい…」
こうして僕はトイレで、最後の時間を待つことになった。
トイレの中でも緊張は続いている。
何を言えばいいのかなんて、全く思い浮かばない。
この狭い空間が僕を余計に不安にさせる。
その時、僕は美亜ちゃんのお母さんに言い返した時の事を思い出した。
あの時だって、何も準備はしていなかったのに、きちんと言い返せたではないか。
今回も上手く言えるはず。
そう自分に言い聞かせた。
ドアが開く音がした。思わず耳を澄ます。
「こんにちは」
美亜ちゃんの声だ。キリコ先生の言う通り元気がない。お母さんの声はしないので、どうやら1人の様だ。
「こんにちは、美亜ちゃん。今日はスペシャルゲストが来ているわよ」
「えっ、誰かな?」
「さて、誰でしょう」
「…わからないわ…」
「今呼んでくるからね」
トントン
やばい、緊張し過ぎて足が動かない。
トントン
「早く出てきなさいーー」
行くぞ!
思い切って立ち上がり、ドアを開ける。
「黒野君!!」
「美亜ちゃん!!」
…やっと会えた…。3ヶ月ぶりだ。
「私はイヤホンしてトイレに入るからね。会話は聞かない。だから、思ったこと話なさい」
先生はイヤホンしてロックを大音量でかけて耳に装着した。
「キリコ先生ありがとう!」
「お礼はいいから!さあ……」
「えっと…黒野君…何を話せばいいかな?」
「うん…美亜ちゃんに出会えてよかったよ、ありがとう」
「なんか、すごい普通の言葉ね。ふふっ」
久しぶりに見た、美亜ちゃんの少し憂いを帯びた笑顔はめちゃくちゃ可愛かった。
「…すごく会いたかった…。ずっと…」
「僕もだよ」
今のセリフは、キリコ先生がこの場にいたら照れて絶対に言えなかった言葉だ。
「中学生になったら野球頑張ってね」
「うん…頑張るよ」
「私も勉強頑張って夢叶えるからね」
そう言うと美亜ちゃんはポロポロと涙を流した。
「黒野君、今度はいつ会えるかわからないけど待っていてね。ずっと…大好きだからね…黒野君は?」
「うん、僕も…大好き…」
しばらく、お互いに見つめあったけど、涙を浮かべたその顔があまりにも純粋で、思わず目を逸らしてしまった。
「そろそろ時間だよね?」
そう言うと美亜ちゃんはノックをせずにトイレのドアを開けた。
「終わったよーー」
ガチャ
「あっ…ノックしてよ」
先生が声を漏らす。
「キリコ先生、イヤホンしてないじゃん!?」
「ハハハ」
「ハハハじゃあないよー」
「ラブラブだね〜。ゴメン、ゴメン。どうしても気になっちゃってさ」
「もう!」
「美亜ちゃん、この前言ってた曲、練習してきたよね?」
「Time to say goodbyeね、練習したよ」
「じゃあ、今から弾いて、私が歌うから!」
「もしかして…この為に?」
「そう!」
キリコ先生は音大の声楽科を卒業していて、ミラノへの留学経験もある。
ピアノの腕前もかなりのものだけれど、本業の声楽も相当な実力らしい。「らしい」というのは、実際にその歌声をちゃんと聴いたことがないからだ。
「キリコ先生、私達の事すごい考えてくれてるね?」
美亜ちゃんが僕に向かって言った。
「うん」
「この曲は別れの曲じゃないからね。旅立ちの曲よ。じゃあ美亜ちゃん、弾いて!」
「うん!」
そう言うと、美亜ちゃんは椅子に座り、キリコ先生の方を見てそっと微笑んだ。
ゆっくりと息を整え、鍵盤に指を置く。音を1つ1つ大切に紡ぐように、丁寧に弾き始める。
すると、キリコ先生は優しくピアノの端に手を添え、目を閉じたかと思うと——柔らかく、澄んだ声で歌い出した。
その声はまるで、部屋いっぱいに広がる光のように、あたたかく僕を包みこんだ。
Quando sono solo 〜♫
e sogno all’orizzonte e mancan le parole
Sì lo so che non c’è luce
in una stanza quando manca il sole
Se non ci sei tu con me, con me
Su le finestre
mostra a tutti il mio cuore che hai acceso
Chiudi dentro me la luce che
hai incontrato per strada
Time to say goodbye
Paesi che non ho mai
veduto e vissuto con te
adesso sì li vivrò
Con te partirò
su navi per mari
che io lo so
no no non esistono più
con te io li rivivrò
con te partirò
Su navi per mari
che io lo so
no no non esistono più
con te io li rivivrò
con te partirò
Io con te ~~~~!!!
歌詞の意味は全くわからなかったけど、2人の思いは十分伝わった。
最後の「Io con te~~~!!!」のビブラートは、本当に圧巻だった。
僕も、美亜ちゃんも、ただその歌声に聴き入るしかなかった。
最後の一音が天井に吸い込まれるように消えた瞬間、僕はもう何も言えなかった。
「……すげ…」
思わず、ぽつりと呟いた。
「ハハハ!どう?これが声楽科卒業の実力よ。
イタリア留学までしたんだから、これくらい歌えなくちゃね。ミラノで毎日みっちり叩き込まれたのよ」
そう言って、どこか懐かしそうに遠くを見つめるキリコ先生。
「先生、私…すごく嬉しい。ありがとう…」
美亜ちゃんが、涙ぐみながら笑っている。
「ふたりとも、これからはそれぞれの道に進むけどね。これだけは絶対に忘れないで。音楽はいつだって、あなたたちを繋げてくれる」
「はい!」
僕たちは、同時に頷いた。
春の光が、窓の外に優しく差し込んでいた。
「さあ、美亜ちゃん、黒野君。最後に握手しなさい」
キリコ先生が促す。
僕たちは、ゆっくりと向き合った。
そして、ぎこちなく手を伸ばし、そっと握る。
「ありがとう、美亜ちゃん」
「ありがとう、黒野君」
あたたかい、小さな手の感触。
きっとこの感触は、ずっと忘れない——
「また、いつか」
「うん。きっとね」
そうして僕たちは、ゆっくりと手を離した。
春の始まりの、静かな別れだった——
キリコ先生の言いつけ通り、裏口からそっと出ると感動で胸がいっぱいだった。
午後の優しい春の日差しが心地よい。
このまま駅に直行するのではなく、近くの桜が満開の公園を散歩してから帰ろうかな…。




