第15話 コンクール② 美亜目線
2009年11月28日 日曜日
午後の部、私は舞台袖で順番を待つ間、心臓の鼓動がわずかに速くなっているのを感じた。
別に緊張しているわけじゃない。
ピアノを弾くことは好きだし、ここに立つのも慣れている。
黒野君と駆け抜けた川沿いの道、シンデレラみたいにドレスを揺らしながら走った時間。
一緒に見た映画の舞踏会のシーン。
その事を思い出してドキドキしているのだ。
——ふふっ。
気づけば、自然と笑みがこぼれた。
今日は“この気持ち”のまま弾こう!
「スミス・美亜さん、お願いします」
呼ばれて、私は静かに舞台へと歩み出る。
グランドピアノの前に立ち、客席を見渡した。
パパとママが最前列に座っている。
そして、そのすぐ後ろ——黒野君の姿があった。
チラリとみる。
ほんの一瞬だけど、確かに目が合った。
そのまま、スッと息を吸い、鍵盤に手を置いた。
——ショパン 「華麗なる大円舞曲」
音目がホールに響いた瞬間、世界が変わった。
黒野君…この気持ちのまま弾くよ…。
大きなシャンデリアの灯る豪華な舞踏会。
私のドレスはふわりと広がり、青白く輝いている。
広いホールの中央で、黒野王子が手を差し伸べる。
「僕と踊ろう」
「はい」
黒野王子の声が聞こえ、胸が高鳴る。
——くるり。
軽やかに回る。
旋律が優雅に舞う。
鍵盤の上を指が滑るたび、煌めく音が弾ける。
リズムに乗って駆け出すように、ドレスの裾がふわりと広がる。
ステップを踏むたび、音が跳ねる。
強弱をつけて、次第に高まる熱。
指先が、思いのままに鍵盤を駆ける。
ピアノの音は、ただの音じゃない。
今日は、私の気持ちそのもの。
「やばい!最高に楽しい!」
最後のクライマックス。
黒野王子が、私の手を取って高く掲げる。
ふわりと舞うドレス。
回転し、回転し——
そして、フィニッシュ。
パーンッ!!
華やかな音が最後に響き、ホールの空気が一瞬止まった。
—————静寂——————
……次の瞬間……。
「……ブラボーーーー!!!!!」
誰かが叫ぶと、ホールが割れるような拍手が巻き起こった。
間違いなく今日1番の拍手の大きさだ。
私は立ち上がり、優雅にお辞儀をしようとして——
ふと、思いついた。
せっかくだし、やってみよう……。
ほんの少しだけスカートの裾を摘み上げ、西洋のご令嬢のように、上品に膝を折り、黒野王子に礼をする——。
ホールの空気が、一瞬華やぐ。
客席のあちこちから、微笑ましいどよめきが聞こえた。
「かわいい!!!」
誰かが、叫んだ。
私は微笑み、堂々と舞台を後にした。
舞台袖を抜け、そっと客席に戻る。
次の演奏が始まる前に、静かに席に座った。
……と、その瞬間。
横に座っていたママが、ものすごい形相でこちらを睨んでいる。
……えっ?なに??
何か言いたげだけど、演奏中なので声を出せない。
それでも、ママの目が「後で話があるわよ」と言っているのは明らかだった。
……あれ?もしかして、さっきの…?
お辞儀の時に、調子に乗ってスカートの裾をちょこっと摘んでしまったことを思い出す。
……確かに、あれは品のある社交界のマナーというより「おふざけ」に見えなくもない…。
ママの中ではきっと、「ピアノの発表会とは格式ある場であり、ふざけるべきではない」っていう意識が強いのだろう。
……うわぁ、めちゃくちゃ怒られそう……。
でも、パパの方を見ると、にこにこ満足そうに頷いていた。心なしか「美亜、よくやった!」という無言のメッセージを感じる。
……やっぱり、パパは私の味方だよね。
とはいえ、今は演奏が続いているので、ママの怒りは「保留」されている。
私は気配を消すようにそっと姿勢を正し、静かに舞台へと視線を戻した。
……怒られるのは、終わってからだな……。
そう思いながらも、口元にうっすら笑みが浮かんでしまう。
だって……やっぱり楽しかったんだもん!
まるでシンデレラになったみたいに、華やかに踊る気持ちで弾いたピアノ。
そして、今も心のどこかで残っている黒野君の視線。
怒られるのは覚悟の上だけど、後悔はしていない。
さて、どうやって言い訳しようかな?
そう思いながら、私はそっと指を組み、舞台を見つめ続けた。
全てのプログラムが終わると、いよいよ表彰式が始まった。
結果なんてどうでもいい———
そう思っていたけど、今日は黒野君と一緒に壇上に上がりたい。
正直、私は自信はあった。
気になるのは——黒野君の結果。
彼の演奏した「ジムノペディ第1番」は、難易度的にコンクールで入賞を狙えるような曲ではない。
その上楽譜もテンポも無視。
でも、私は知っている。
あの演奏が、どれほど美しかったか。
そんなことを思いながら、じっと発表を待った。
「それでは、入賞者の発表をいたします」
司会の方がマイクを通して告げる。
会場の空気が、静かに張り詰める。
まずは3位から。
「第3位…エントリーナンバー16番、佐藤理央さん!」
場内に拍手が響く。
舞台袖から、1人の女の子が少し緊張した面持ちで立ち上がった。
彼女は別の音楽教室の生徒で、名前は聞いたことがあるけれど、直接話したことはない。
演奏していたのは「渚のアデリーヌ」。音色が澄んでいて、とても丁寧に弾いていたのを覚えている。
舞台に向かう彼女を見ながら、私もそっと手を叩いた。
次は2位の発表。
「第2位…エントリーナンバー……」
私は無意識に、手をぎゅっと握る。
どうか、頼みます——。
「…黒野元一さん!」
「えっ…?」
一瞬、会場が静まり返った。
私も驚いて息を飲む。
でも、その直後、大きな拍手が響き渡った。
「おめでとう!」
「すごい!」
ざわめきの中、黒野君がゆっくりと立ち上がる。
本人も驚いているのが、遠くからでもわかった。
「なぜこの曲で?」
そう思う人もいるかもしれない。ジムペディは簡単な曲で、入賞の対象とはなりにくいからだ。
でも、私はわかる。黒野君のジムノペディは、他の誰とも違った。静かで、心の奥に染み込むような、あたたかくて、不思議な演奏だった。
良かった……本当に良かった!
ここの審査員さんも…すごい。
思わず胸がいっぱいになる。
そして、ついに1位の発表。
この流れで私じゃなかったら、ずっこけるよね?
ふふっ。
それはそれで面白いけど…。
「第1位…エントリーナンバー23番、スミス美亜さん!」
うん、うん!
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!
拍手がさらに大きくなる。
私は立ち上がり、舞台へと上がった。
黒野君と目がう。
「おめでとう!」
私が小さく口を動かすと、黒野君は少しぎこちなく、それでも嬉しそうに微笑んだ。
壇上に並ぶ入賞者たち。
中央に立つ私は、手にしたトロフィーの重みを感じながら、客席をそっと見渡した。
パパは……すっごく満足そう。
にこにこしながら、軽く手を叩いている。
その隣では——。
……やっぱり、ママ怒ってる。
さっきの「お辞儀」の件が、まだ許されていないらしい。冷静な表情をしているけれど、目が全てを物語っていた。
うわぁ……この後、めちゃくちゃ怒られそう。
そう思うと少し気が重くなるけれど、今はそれよりも、隣に立つ黒野君が気になった。
黒野君は、静かに客席を見つめていた。
ちょっと緊張しているような、でも……どこか誇らしげな表情だった。
でも、時折ちらりとこちらを見て、そのたびに目が合うと少しだけ笑ってくれる。それが、なんだか嬉しかった。
司会者の声が響く。
「それでは、皆さま、今一度、大きな拍手をお願いいたします!」
盛大な拍手がホールに響く。
私はゆっくりと頭を下げた。
その隣で、黒野君も同じようにお辞儀をする。
そして——ほんの一瞬、私は黒野君の腕を指でそっとつついた。
「……ねえ、やったね?」
小さく囁くと、黒野君はちょっと驚いた顔をした。
「うん」
とても柔らかい笑顔で、短く頷いた。
司会者が「以上をもちまして、表彰式を終了いたします」と告げると、私たちはゆっくりと舞台を降りた。
客席へ戻る途中、私は横目で黒野君をちらりと見た。
もうすぐ、この時間も終わる。
また、会えるかな?
そう思った瞬間、黒野君も同じようにこちらを見ていた。
「……?……」
お互い、何か言おうとしたけれど、タイミングが合わなくて、結局言葉にはならなかった。
……まあ、いいか。
私は、ふっと小さく息をつく。
また、きっと会えるよね。
黒野君との距離が、また少しだけ縮まったような気がした——。
その後、表彰式が終わるとすぐにママに連れられ、控え室へと戻った。
「美亜!あなた、なんてことをしたの⁉︎」
予想はしていたけれど、やっぱり怒られた。
ママの眉間にはしっかりと皺が寄っている。
「発表会はお遊戯会じゃないのよ?お辞儀の仕方ひとつでも、きちんと品格を持たないとダメよ!!」
「……ごめんなさい」
「もう!今日は本当に……」
思ったほど、怒られなかった。
そう言いつつ、私の頭を優しく撫でる。
ママはとても怖いけど、怒った後は必ず、こうしてくれる。
私はこのギャップにとても弱いんだ…。
そんな時、パパがのんびりと歩いてきて、満面の笑みで私の肩をポンと叩いた。
「Mia, that was amazing! You looked just like a real princess!」
(美亜、最高だった!あれはまるで、本物のプリンセスのようだったよ!)
「あなたまで変なこと言わないでちょうだい!!」
ママがますます呆れたような顔をする。でも、私は思わず笑ってしまった。
あ〜今日は最高に楽しいコンクールだったなぁ。
そして、ピアノ教室のキリコ先生が撮ってくれた黒野君とのツーショット写真は、きっと私の大切な宝物になるだろうなぁ。




