第10話 びろうど山 黒野目線
2023年10月13日 金曜日
スマホのアラームで目覚めると、美亜ちゃんはすでに起きてソファに座っていた。
「黒野君おはよう!楽しみでよく眠れなかったよ」
「おはよう!」
僕も眠かったが、思い切って大きな声を出してみた。
今日は気合を入れて一刻も早く帰るつもりだ。
朝食を食べ終えると、いつもより少し早めに家を出ることにした。
「いってらっしゃい、がんばってね!」
その声に少し笑みがこぼれる。
「いってきます!」
僕も元気よく答え、玄関を出た。
* * *
仕事は猛烈に捗り、気づけば11時前にすべてが片付いていた。
周りを見渡すと、同僚の水谷がこちらを見て話しかけてきた。
「やけに張り切ってたじゃん。もしかしてデートかな?」
普段なら適当に笑ってはぐらかすところだが、今日はなぜか口が滑った。
「まあな」
「マジで?黒野がデート?」
女っ気のない僕がデートだと、水谷もびっくりだ。あまりの驚きに、彼の顔が少しこわばっていた。
「ちょっと意外すぎるんだけど?」
水谷はしつこく詮索してきたが、僕は適当に相手をして、早く切り上げようとした。
どうせ、後で女なんていなかったとか、フラれたとか言われるのがオチだろう。
急いで家に帰ると、玄関で美亜ちゃんが笑顔で待っていた。
「おかえりなさい、早いじゃん!」
その「おかえり」の一言が、今日で最後になるかもしれない。僕はその言葉を心の中でゆっくり噛みしめながら聞いた。
「ただいま」
山は少し寒いだろうから、僕はコートを持っていくことにした。
ちなみに幽霊は、寒さも暑さも感じないらしい。大切な手紙もバッグに入れた。
帰りに夜になって霧が出れば、そのまま洋館に向かうつもりだ。
車に乗り込むと、僕は美亜ちゃんにプレイリストを作ることを提案した。「せっかくだから、一緒に車内でカラオケでもしようか」と言うと、美亜ちゃんはすぐに15曲を挙げてくれた
「そう!せっかくのドライブだから、たっぷり楽しもうよ!」
美亜ちゃんはニコニコしながら答えた。その笑顔を見て、僕も心が弾んだ。楽しいドライブになりそうだ。
その美しい歌声が車内に響きわたる。
「黒野君も一緒に歌って!」
美亜ちゃんが楽しそうに促す。
「う、うん、頑張るよ」
得意ではないけど、僕も洋楽の《The Rose》を一緒に歌い始めた。
彼女の完璧な発音に少しプレッシャーを感じながらも、楽しく一曲目を終えた。
「次は《Heal The World》ね!」
少し照れくさくなりながらも、だんだんと歌うことの楽しさを感じ始めていた。
山に差し掛かると、木々はすでに鮮やかな色彩をまとい、紅葉が秋の訪れを告げていた。
青々と澄んだ空が広がり、窓から入り込む風は涼やかで心地よい。車内には透き通るような歌声がBGMとして響き渡り、風景と溶け合っているかのようだった。
平日のため、道路には他の車もほとんどなく、空冷エンジンの音が軽快に響く。
最高のドライブ日和だ。
自然と僕の顔にも笑みが浮かぶ。
山をどんどん上るにつれて、紅葉がますます鮮やかになり、秋の美しさが一層引き立ってきた。
美亜ちゃんも、しばらく歌うのをやめ、車窓からの景色にうっとりと見入っている。
僕はプレイリストを静かなクラシックに切り替えた。音楽が、車内の空気をさらに柔らかく包み込み、2人だけの穏やかな時間が流れる。
目的地である山頂の鏡湖に到着すると、目の前には信じられないほどの絶景が広がっていた。
湖面は名の通り鏡のように静かで、紅葉に染まった山々がそのまま美しく映し出されている。
無風で、水面は一点の揺らぎもない。
まるで自然が作り出した完璧な絵画のようだ。
澄み切った青空と、赤や黄金色に染まった木々が、湖面にくっきりと映り込んでいるその光景は、言葉にできないほど美しい。
美亜ちゃんもしばし言葉を失い、ただその光景をじっと見つめている。
2人はその静寂の中で心が癒されていくのを感じた。
今日ここに来て本当に良かった。
明日は土曜日なので人がいっぱいだろう。
僕らは色々な話をしながら、湖の周囲をのんびりと散歩することにした。
湖の水面に映る紅葉が揺れるたびに、自然と会話も弾んでいく。
「美亜ちゃん、将来の夢とかあるの?」
思い切って禁断の質問をしてみた。
ずっと気になっていたが、今なら聞いてもいいと思えたからだ。
「夢?いっぱいあるよ。1番の夢はお医者さんになる。救命医!」
美亜ちゃんは即答した。
「病気や怪我で苦しんでいる人を助けたいの。でも、その前に今日は自分を助けないと!」
「いいね。立派な夢だね」
「他にもあるよ。ピアニスト」
「おお、いいじゃん!美亜ちゃんには大人になってもピアノを弾いていてもらいたいからね」
「うん!もっとあるよ。街を花でいっぱいにすること」
「それは…壮大な夢だね」
「あとね…家族円満。パパとママと私がもっと寄り添える事ができたらいいなぁ」
「うん、うん」
「もっとあるよ」
「えっ、まだあるの?」
「素敵なお嫁さんになる事!」
「うん、きっとなれるよ…」
その時は、記憶もなくなっていて、僕の事も覚えていないだろうけど、全部の夢を叶えてもらいたいなと思った。
「いっぱいあるんだね、まとめると…職業はドクター兼ピアニスト、町中に花を植える、家族円満、素敵なお嫁さん」
「最高でしょ?」
「それは本当に最高だね」
話しているうちにボート乗り場に着いた。
「またボートでごめんね」
「いや、謝らないでよ。こんな絶景をボートから眺められるなんて最高の贅沢よ」
「確かにね。また音楽かける?無音?」
「景色と一緒に、心にずっと残る気がするね。クラシックがいいな。静かな中に音が溶け込んでいく感じが好きなんだ」
僕はバッハのG線上のアリアを小さめにかけた。
鳥の声と音楽が見事に調和して、静かな湖の上に漂っていた。ボートを漕ぎ出すと、自然の音と美しい旋律が心に染み込む。
湖面はまるで鏡のように紅葉を映し出していた。「鏡湖」という名前にふさわしい、今だけの刹那的な美しさがそこにあった。
紅葉が水面に揺れる様子を眺めながら、僕たちはただ静かに、その瞬間を味わった。
ボートから降りると、再び歩いて湖が見えるカフェへ向かった。昼食兼夕食には、カレーセットを頼むことにした。カレーは野菜がたっぷりで見た目も華やかだ。
料理が運ばれてくると、美亜ちゃんの前には、香ばしい香りが漂うパクチーのスープを置いた。その香りに顔を近づけ、目を閉じて満足そうに息を吸い込む。
そして、いつものように飲む真似をしてみせた。
「カレー美味しそうだね…」
「うん、美味しそう」
確かにボリュームたっぷりで美味しかったが、胃にもたれる感覚が残った。
特に穏やかな時間も相まって、なんだか眠気がじわじわと襲ってくる。
車に戻ると時刻はすでに17時過ぎ。日が傾き始め、あたりは肌寒くなっていた。ふと、美亜ちゃんの方に目を向けると、少し疲れた表情をしているようだ。
「少し仮眠を取ってから帰ろうか。寝不足もあるし、このまま運転するの危ないからね」
「うん、それがいいね。私も昨日はあまり眠れなかったから…」
どうやら彼女も、期待と不安が入り混じる中で、しっかりとした睡眠は取れなかったらしい。
シートを倒すと、すぐに重たい瞼が落ちてきた。
車内は静かで、時折、風に揺れる木々のざわめきと小鳥達の鳴き声がする。
隣では美亜ちゃんが手を合わせて小さく何か口ずさんでいる。
自分達の生きている時代に行ける様に、祈っているのだろう。
僕も一緒に祈っていると、知らぬ間に眠りに落ちていった。




