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第二章 第2話 言葉にならないタンゴと、弾けるシャンパンの泡

夕方、タンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルの扉がそっと開いた。


「こんにちは……」

控えめながら、凛と通るその声の主は、クララが覚えているあの女性だった。


香織は少し緊張しながらも、深く礼をした。

「お試しレッスンを申し込んだ香織です。

クララさん……ここがあなたのスタジオなんですね。」


「そうよ、Kaori!」

クララはまるで日だまりのように微笑んだ。

「また来てくれて嬉しいわ。ミロンガの会場より明るいでしょう?」


香織は緊張をほぐすように息を吸い込み、室内を見渡した。


クララのスタジオは、広すぎない。

天井も高すぎず、声がほどよく返ってくる。

壁の一面には、大きな鏡がある。


ただし、その鏡は、新品のように澄みきったものではない。


長い年月、無数の人の姿を映してきたせいか、よく見ると、光の当たり方によって、わずかに歪んで見える場所がある。

割れているわけでも、欠けているわけでもない。

けれど、そこに立つと、身体の線がほんの少し違って映る。


生徒たちは、たいてい気にしない。


自分の踊っている姿を見ることで精一杯で、鏡そのものの「癖」まで意識する余裕はないからだ。


ただ、クララだけは知っている。

どの位置に立てば、自分が「よく見えすぎる」か。

どこに立てば、現実より、少し厳しく映るか。


だから彼女は、説明するとき、無意識のような顔で、生徒をその“場所”に立たせる。

「ここで見てごらん」

そう言われて鏡を見ると、自分の癖も、迷いも、甘さも、なぜかいつもより、はっきり映る。

それが鏡のせいだとは、誰も思わない。


その鏡が、奥でストレッチをしている人物を捉えた瞬間、香織の胸の奥が少しだけ跳ねた。


長身、痩躯、眼鏡。


ミロンガの会場タンゴロフトの入り口で軽く会釈した男性。

なんだか古めかしい鞄を手にしていたことを、香織は覚えていた。

好印象だったことも。


知っているとは言えないまでも、一度見かけた人がいることでなんとなく安心した香織だった。

なんとなく弾む心を抑えて、手早くタンゴシューズに履き替える。


「じゃあ、ペアを組んでみましょう。

 ゲオルグ、Kaori をお願い。」

クララがそう言った瞬間、ゲオルグは静かに歩き、香織の前に立った。


「……よろしく。」

低い声。


必要以上に何も言わないが、礼儀はある。


香織は小さく会釈した。

その動きだけで胸が少し熱くなった。


◆ ◆ 最初のホールド

ゲオルグが香織の右手を取る。

その触れ方は驚くほど優しい。


次に、左腕が香織の背に添えられる。

触れたか触れないかの、ほんのわずかな距離。


と、その瞬間――

ぱちん、と胸の奥で小さな金の泡がひとつ弾けた。


(……え、今のなに?)

まだ踊っていない。

まだ一歩も踏み出していない。

ただ“触れただけ”。

なのに身体が反応していた。


香織は混乱していた。


◆ ◆ 一歩、世界が動く

クララの「では、Basic 8から!」の声が響く。


ゲオルグが静かに一歩目をリードし、香織の身体が自然と前へ流れる。

押されてもいないのに、引かれてもいない。

ただ“そこへ行けばいい”という道筋だけが、身体の奥で明るく灯る。


二歩目。

呼吸が合った。


三歩目のステップがぴたりと合った。

香織の胸の奥で、また小さな泡が弾ける。


その直後だった。


ふわ……っと身体の内側が軽く浮く感覚が走った。

今まで点のように弾けていた泡が、急に立体的になり、輪郭を持って身体の周りに広がった。


(あ……?)

驚きよりも先に、心が少しだけ浮遊するような、不思議な軽さが訪れた。


黄金の泡はもう弾けるだけではなく、胸の奥から肩、腕、指先へと細かく細かく広がっていく。

まるで、静かに開けたシャンパンの瓶から溢れた泡が、香織の身体全体をやさしく包み込むように。


温度はないのに、気分だけがほんの少し高くなる。

でも理由は分からない。


(こんな感覚……知らない。)


その瞬間だった。

ふわっと脳内であの旋律が生まれた。


"I could have danced all night…"

ミュージカル『マイフェアレディ』でオードリー・ヘップバーンが歌い踊るナンバー『踊り明かそう』。


(どうして、このタイミングで?)


ステップを正しく踏むのに精一杯で、のんきに曲を思い出すなんて余裕のある状態ではないのに、メロディは脳内で勝手に流れ始めた。


メロディは軽く跳ね、身体の中を駆け抜けていた泡の動きとぴたりと重なった。

泡が身体を包む高揚と、音楽のラインが揺れる高揚がひとつに溶けた。


ゲオルグのリードは静かで、無理がなく、ただそこに流れがあるだけ。

そして、ゲオルグのリードと呼吸に合わせて、香織の中で幾千万もの微細な泡が立ち上がっていく。


(夜通しずっと踊っていられそう……なんて)

自分でも驚くような感覚だった。


いきなりの感覚に半ば混乱している香織自身は、まだその意味を理解していない。

ただ、“何かが始まった”という予感だけが、言葉より先に身体を満たしていった。

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