第二章 クララの鏡 第1話 予感の朝と、静かな常連
秋の午後の光がタンゴスタジオ ”エストゥディオ・デル・ソル Estudio del Sol” の木の床に縞模様をつくっていた。
クララは観葉植物の葉についた細かなほこりを払う。
ふっくらと肉付きのよい指が、少し湿らせたキッチンペーパーをつまみ、まるで布を操るように優雅な動きで葉の表面をなぞっていく。
力を入れすぎることも、急ぐこともない。
葉脈の流れに沿って、撫でるように、磨くように、ひとつひとつの葉に気持ちを通わせる。
その所作には、誰かに見せるためではない、静かな美意識がにじんでいた。
これをしていると、今日のレッスンがどんな空気になるか直感で分かる。
別にスピリチュアルなことに心酔しているわけではない。
占いや前世といった話題に、熱を上げるタイプでもない。
ただ、長く人と向き合う仕事をしていると、言葉になる前の気配のようなものを、身体のどこかで受け取るようになる。
それは「予知」などという大げさなものではなく、空気の湿り気や、部屋に入った瞬間の温度差に気づくのと、ほとんど同じ感覚だった。
葉の表面をなぞる指先が、わずかに引っかかる。
その感触ひとつで、今日は集中が深まる日か、それとも少し散漫な時間になるか、クララの中では、もう答えが決まっていた。
奥から、温かいミルクティーの香りとともにディエゴが現れた。
「クララ、今日のレッスンだけど……
お試しレッスンとして、日本人の女性が一人来るよ。」
クララは目を見開く。
「日本人? 珍しいわね。
もしかしたら、ミロンガに来てたあの静かな女性かな?」
「そう。こないだの タンゴロフトに来ていた、入口で君と話してた人だと思うよ。」
クララの脳裏に、あの夜の光景がふっとよみがえった。
寒さの残る夜に、少しだけ緊張した面持ちのアジア系の女性。
でも目の奥はよく澄んでいた。
「彼女、それほど派手な踊りはしなかったけど……気になる目をしてたわ。」
ディエゴは肩をすくめながら続けた。
「それとさ。あの夜、ゲオルグが珍しくちらっと彼女を見てたよ。」
クララは吹き出しそうになった。
「え、ゲオルグ? あのゲオルグが?
自分のグラス以外に視線を向けるなんて、年に一度あるかどうかよ。」
二人は同時に笑った。
ゲオルグはタンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルの長年の常連だ。
必要以上に話さず、穏やかで礼儀正しい。
ミロンガでは黙々と踊り、黙々と帰る。
だが、その内側に深い感受性を隠しているのを、クララとディエゴだけは知っていた。
「今日スプリンガーとして来るように頼んでおいた。」
ディエゴが言う。
スプリンガーとは、 ダンスレッスンで 一人で参加している生徒の相手役を務める上級者 のことだ。
クララの胸の奥で、小さな泡がひとつ弾けた。
(面白くなってきたわね……)
光の中で、木の床がきゅっと小さく鳴いた。
それは、今日のレッスンが特別になる予兆みたいだった。




