第一章 さあ行こう、ベルリンの夜へ 第5話 筋肉痛は、再生のサイン
ベルリン、アルトバウの二部屋のアパートメント。
ベッドの中で目が覚めたの香織は、軽く伸びをしようとした瞬間、
「……あ、痛ったあ。」
思わず顔をしかめた。
全身が小さく悲鳴を上げている。
ふくらはぎ、太ももの後ろ側、背中。
どこもかしこも、昨日の夜の名残。
——あんなに踊ったの、いつ以来だろう。
全身の痛みを、何か楽しいもののように受け止めている自分が可笑しい。
カーテンの隙間から差し込む光が、淡い灰色の壁に反射する。
ベルリンの朝。
冷たいけれど、どこか澄んでいて、昨日の夜が夢だったようにも思える。
香織はベッドサイドのスマホを手に取った。
午前8時53分。
それからさらに、ミロンガで撮った写真を検索していたときに偶然見つけた「クララ・タンゴスタジオ」のサイトを開く。
“毎週水曜 19:00〜 中級オープンクラス”
“初回体験歓迎。パートナー不要”
その一文に、なぜか心がときめいた。
(昨日はなんとか基本のステップで踊れたものの、もっといろいろフィガーができれば、もっと楽しいだろうな。
なら、もう少しちゃんと習ってみてもいいかもしれない。)
指が自然に動く。
“Guten Tag, ich interessiere mich für Ihre Tango-Klasse…”
ー「こんにちは。タンゴのクラスに興味があります…」
メールの文面を打ちながら、軽く苦笑した。
——30年前は、手書きの申込書だったのにね。
時代も変わったものだ。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で小さなスイッチが入ったような感覚があった。
窓の外では、トラムがゆっくりと通り過ぎていく。
まるで新しいリズムを刻むように。
香織はカーテンを少し開け、まだ冷たい光の中で深呼吸をした。
「よし。筋肉痛くらい、どうってことない。」
心の中で、もう一度つぶやいた。
昨夜のミロンガで、香織は5タンダほど踊っただろうか。
1タンダとはミロンガで使われる単位で3曲からなる。
一曲は2、3分だから、1タンダは10分弱。
5タンダで4〜50分ほど踊った計算になる。
1時間半ほどの滞在時間で、それだけ踊れて、満足して家路についた。
帰り際にクララが言った一言が不思議と心に残った。
「あなた、また来るといいわ。
あなたは踊りで“変わる人”の目をしてるから。」
香織はその意味がわからないまま、冬の夜道を歩いた。
ただ一つ、確かなことがあった。
——ベルリンの夜が、私を試した。
そして、私はまだ踊れる。




