第一章 さあ行こう、ベルリンの夜へ 第4話:ベルリンの夜が私を試す
白いシャツの人が別の女性と踊っているのを見た。
その姿を目で追いながら、香織は胸の奥に小さなチクリを感じた。
嫉妬とは違う。
ただ、あのリズムの呼吸に自分も入りたいと思った。
音楽が変わり、テンポが少し緩む。
見知らぬ男性が軽く会釈して手を差し伸べてきた。
四十代くらいだろうか。
少し照れたような笑顔が優しい。
「ヴォレン・ヴィア・タンツェン?Wollen wir Tanzen?」
踊りましょうか?
香織は一瞬ためらったが、うなずいた。
立ち上がると、膝がわずかに震えた。
——三十年ぶりの実戦。
頭の中に、昔習ったステップの断片が浮かぶ。
カミナータ、オーチョ……足がまだ覚えているだろうか。
最初の一歩。
ぎこちなくても、音が導いてくれる。
身体がゆっくりと解けていく。
次第に、重心の移動の感覚が戻ってきた。
リーダーの腕の中で、香織の身体が“踊ることを思い出していく”。
——あ、これだ。
忘れてたのは技じゃなくて、音の中にいる感覚。
なんとか一曲踊り終えた。
2曲目で、動きはもう少しなめらかになった。
3曲踊り終えて、男性はダンケ、と笑顔を残して歩み去った。
ミロンガでは、ひとりの相手と続けて数曲踊るのが暗黙の流れになっている。
三曲ほどの流れがひとつの区切りになり、それは「タンダ」と呼ばれていた。
三曲ほどのまとまりでひとつの世界が完結し、踊り終わると、静かにその時間がほどける。
まるで短い物語を一編、誰かと一緒に紡ぐようなものだった。
初めてそのことを知ったとき、香織は少しだけ胸が高鳴ったものだ。
二タンダ目では、別の男性に誘われた。
今度は少し若い。
ぎゅっと手を握られて、体がすっと引き寄せられる。
最初は驚いたが、意外とリズムに乗れる自分がいた。
オーチョ、カミナータ、そしてクロス。
頭で考えず、音に身を任せる。
そうすると、体が勝手に動く。
三十年という時間が、まるで一晩の夢のように溶けていく。
曲が終わると、自然と笑みがこぼれた。
「まだまだ、捨てたもんじゃない。」
心の中でつぶやきながら、額の汗を指の背で拭った。
そのときふと視線を感じて顔を上げると、白いシャツの人がちょうどこちらを見ていた。
遠くから、淡く、静かに。
視線が一瞬重なって、すぐに離れる。
香織は胸の奥で、小さく息をのんだ。
——え、見てたの?
でも次の瞬間には、彼はもう別の曲へと足を踏み出していた。
香織は軽く笑って、また椅子に戻った。
胸の奥ではまだリズムが鳴っている。
まるでベルリンの夜に「ようこそ」と言われたように。




