第一章 さあ行こう、ベルリンの夜へ 第3話:寡黙にして饒舌なステップ
会場の奥から、音楽がゆっくりと流れてきた。
まだオープンして間もないのに、フロアにはもう数組のペアが踊っている。
照明は柔らかく、黄色いランプの光が天井の鉄骨に反射している。
床は艶のある木の板で、何十年もの足跡が刻まれているようだった。
香織は壁際の空いている椅子に腰を下ろした。
バッグの中には、さっきまで履いていたブーツ。
目の前を行き交う人々の足元を眺める。
ヒールの高い靴が、ステップごとに小さな音を刻んでいく。
「ハロー。あなた初めて?」
隣から声がした。
一目見て初めてだと分かるほど、よっぽど物慣れない雰囲気を出してるのか、私は?
と、ぼやきともつかない気持ちで振り向くと、鮮やかな緑のドレスを身につけた金髪の女性が立っていた。
初めて会うのになにか懐かしい気持ちにさせる雰囲気を持った人だ。ドイツ人には珍しいタイプ。
「ええ、だから見てるだけにしようと思って」
香織が答えると、女性はにっこり笑った。
「最初はみんなそう言うの。でも、音が始まると足が勝手に動くのよ。気をつけて。」
その軽い言い方に、香織は思わず笑った。
「ここでは年齢も国籍も関係ないわ。ただ、音に任せるだけ。楽しんでね。」
赤い口紅の笑顔を残して、緑のドレスの女性は軽やかに去っていった。
その背中が踊るようにしなやかで、この場所の空気そのものを動かしているようだった。
香織は再びフロアを見つめた。
踊る人々の間から、ふと、見覚えのある後ろ姿が見えた。
(あ、あの人……さっきの。)
さっき入口の扉の前で出会った、レトロな鞄を持った人だ!
そう思った瞬間から視線を離せなくなった。
香織の目を吸い寄せたままのその姿は背が高く、肩幅はあるのに、どこか線が細い。
白いシャツの胸元から、照明の光が反射して淡く揺れていた。
その立ち姿には、力みがなく、静かな張りがあった。
シルエットが、流れる水のようだ。
(私もあんなふうにすっきりした立ち姿だったらいいのに)
ふとそんなことを思って、自分の身体の輪郭を意識する。
彼はもう踊っていた。
パートナーの女性を包み込みながら、静かに、まるで言葉を紡ぐようにステップを刻んでいる。
その途中、彼がターンでこちらを向いた。
ほんの一瞬、視線がほどけることなく重なった。
次の瞬間には、もう彼は別の方向を向いていた。
けれど、そのまなざしだけが、なぜか心に残った。
香織の心の奥で、何かが動いた。
赤い靴の中で、つま先がそっと動いた。
♦︎♦︎
ミロンガの夜は、音楽よりも人の気配の方が濃い。
タンゴロフトの奥のほう、スピーカーの横の観葉植物の影に、ゲオルグはいつものように静かに座っていた。
ダンスをしない時間の彼は、その長身にも関わらず、誰よりも風景の一部になってしまう男だ。
その目はダンサーたちの足元やホールドの隙間を淡々と追うだけで、特定の誰かを探しているようには見えない。
その夜、そんな彼の視線がふと入口の方へ流れた。
秋のコートを脱ぎかけた女性が、周りをそっと見回している。
少し緊張しているような、それでいて街の喧騒に染まっていない、不思議に澄んだ空気をまとった、豊かな黒髪のアジア系の女性。
さっき入口で見かけた女性だった。
ゲオルグは一瞬だけ、呼吸を忘れた。
理由はわからなかった。
“見たことがないタイプ”だというだけでは説明がつかない引っかかり。
(ああいう目をする人、久しぶりに見た)そう思った。
好奇心とは違う。
もっと遠い記憶のどこかをくすぐるような感覚。
けれどゲオルグは、不必要に人に声をかけない男だ。
踊る相手も決まった人間だけでいいタイプだ。
だからその夜は、ただ“見かけただけ”。
何もせずに、そのアジア系の女性の姿を影の奥から静かに拾い続けた。
♦︎♦︎
一方、そのアジア系の女性であるところの香織は、彼の視線に気づいていない。
気づくはずもない距離感だった。
でも、後から思えばそれはもう「人生の交差点」のような瞬間だった。
その日を境に、ゲオルグの中にはその夜見た香織の横顔が淡く残り続けることになる。
彼自身も気づかないままに。
バンドネオンの音が、一瞬だけ空気を切った。
そして、ゆっくりと次の曲が始まる。
重たく、湿り気のある旋律。
まるで、床の木目まで震えているようだった。
香織は椅子の上で背筋を伸ばした。
白いシャツの人と向かい合って踊っている女性は、豹柄のワンピースを着ていた。
日本だと「大阪のおばちゃん」に人気と言われる王道の豹柄を、粋に着こなすその女性は、細身で長い腕と脚をもっていた。
ドレスの裾が、すっと動く。
彼女のスカートの裾が揺れるたび、ベージュと茶色の模様が複雑に光る。
ほっそりとした身体をきっちりと保ち、目線は終始まっすぐ。
姿勢は完璧。首筋までピンと張っていて、その動きはまるで糸を引くように正確だった。
「上手……だけど、なんだか落ち着かない。」
香織はそう感じた。
音に身を委ねているようでいて、どこか全てを“コントロールしている”。
彼女の踊りは正確すぎて、呼吸の余白がなかった。
音楽に乗っているというより、音を“支配”しているような踊り。
笑顔もない。まるで、自分の輪郭を守るために踊っている。
白いシャツの人の表情は読めなかった。
淡々として、感情がどこにも浮かんでいない。
でも、その無表情の奥で、どこか遠い場所にいるような静けさが見えた。
(あの人、楽しそうじゃない。)
そう思った瞬間、香織ははっとした。
“楽しそうじゃない”と感じたのは、自分が楽しみたくてここに来たからだ。
誰かに見せるためじゃなく、自分の中のリズムを取り戻すために。
ふと、足元の赤い靴が目に入る。
ヒールの先が光を拾って、小さく反射した。
香織は足の裏に力を入れた。
音が鳴らない程度に、床を軽く押す。
わずかに揺れたスカートの裾が、自分の中の“まだ眠っていた部分”を呼び覚ます。
音楽が終わると、拍手が湧いた。
豹柄ワンピースの女性が会釈をして、白いシャツの男性と一緒にフロアを離れる。
そのすっきりとした頬骨が目立つ横顔を見た瞬間、香織の胸の奥で小さな痛みが走った。
それは嫉妬というよりも、「自分もあの場所に立ってみたい」という焦がれるような感情。
(もう一度、踊りたい。)
その言葉は声にならなかったけれど、赤い靴の中では、たしかに何かが動いていた。
ベルリンの夜は香織を試そうとしているかのようだ。
その試練が少し楽しみに思えた。




