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第一章 さあ行こう、ベルリンの夜へ 第2話:寒い夜の扉の向こうで

ベルリンの夜は、思った以上に冷たかった。

十月の風が、街角を曲がるたびに頬を刺す。


通り沿いのカフェでは、テラス席の椅子がすでに片づけられ、

窓の向こうで数人の客がコートを着たままワインを飲んでいた。

その光景が、どこか温かく見えた。


香織はマフラーをきゅっと巻き直しながら、地図アプリを見た。


Tangoloftタンゴロフト――古い工場を改装したタンゴスタジオ。

レンガ造りの壁に囲まれた裏通りにある。


地図の点が示す建物を前に、しばらく立ち尽くす。


(ここで間違いない。でも……本当に入る?)

一瞬、心が日和る。


入り口の鉄の扉は重そうだった。

中からは微かに音楽が漏れている。

バンドネオンの低い音が、まるで呼吸のように響く。


ミロンガの会場の扉の前で、香織は一度足を止めた。

知らない世界へ入る瞬間の、あの独特の緊張。


帰ってしまおうか――そんな弱気が胸をかすめる。

急いで勇気をかき集め、香織は一歩踏み出した。


そのとき、後ろから低い声がした。

「エントシュルディグングEntschuldigung…(すみません)」


振り向くと、眼鏡をかけた背の高い痩せ型の男性が立っていた。


濃い色のウールコートをきちんと羽織り、片手には使い込まれた革の鞄。

革の角はわずかにすり減っていて、それが妙に様になっていた。

コートの前がほんの少し開き、内側に白いシャツの襟元がのぞいている。


無造作なのに、不思議と隙がない。

どこか懐かしい時代をまとったような風貌。

目が合った瞬間、なぜか視線を逸らすのが惜しいと感じた。


思わず一歩後ろに下がった香織のそばを軽く会釈しながらすり抜けた彼は、先に扉を開けて香織を通してくれた。


「ダンケDankeありがとう」と小さく礼を言うと、彼は微笑んで何も言わずに奥へ消えていった。

その背中が、妙に印象に残った。


(レトロなカバン……なんだか、旅の途中の人みたい。)

彼が小脇に抱えていた鞄は、金具の細工が古風で、どこかアンティークの趣がある。

ベルリンの夜景に妙に馴染んで、思わず目が吸い寄せられた。


その瞬間、頭のどこかで

"♪ Raindrops on roses and whiskers on kittens…"

『My Favorite Things 私の好きなもの』の冒頭がふっと流れた。


サウンド・オブ・ミュージックで、不安なときに“好きな物”を思い浮かべて心を落ち着ける歌。


“なんで今この曲?わたしいま、不安を感じてるっていうこと?”

香織は自分でも気づいていなかった心の状態に苦笑した。


でも——

確かに、あのカバンはちょっと素敵だった。


見知らぬ人の持ち物に心がほどけるだなんて、こんな夜もあるのかもしれない。


香織は息を吸い、軽く自分のバッグを持ち直した。

“不安を和らげるものを思い浮かべる”…

その歌詞の意味が、少しだけわかった気がした。


落ちついて辺りをいまいちど、見渡すゆとりができた。


あたたかい光と音が胸の奥に広がる。

室内の照明は低く、ランプの灯りがゆらゆらと艶めいている。

木の床に視線を落とすと、無数の足跡が物語のように刻まれているみたいだ。


受付にいた赤毛の女性が、ぱっと笑顔を向けた。

その笑顔は、暖炉の火みたいに温度があった。


「Hallo! ハロー!初めて? 心配しなくて大丈夫よ。

 ここでは、誰でも最初の1曲目は怖いのよ。」


香織は思わず苦笑した。

怖さを見透かされたというより、自分の状態をやさしく包まれた気がした。


女性は手首を軽く振りながら続けた。


「私はクララ。ここ Tangoloft タンゴロフトのミロンガを運営しているの。

 踊らなくてもいいし、観るだけでもいい。

 まずは雰囲気に身体を慣らしてね。」


その声は、室内のバンドネオンより先に、香織の胸の奥に入り込んだ。

クララと名乗った女性からチケットを購入する。


右手には「ガルデローベGarderobe(コート掛け)」の札が掛かった小部屋。

香織はコートを脱いでハンガーに掛け、バッグから赤い靴の箱を取り出した。


指先でリボンを解く。

長い時を経て、あの靴がまた空気に触れる。


椅子に腰を下ろし、ストッキングのつま先を確かめながら、赤いダンスシューズを履き、そっと足首のベルトを留めた。


「さあ、ここからは別の私。」

木の床に足を置くと、ヒールが軽く音を立てた。

その響きに、自分の心臓が答えるようだった。


ベルリンでの最初の夜が、静かに開こうとしていた。






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