第一章 さあ行こう、ベルリンの夜へ 第1話 鏡の前の小さな儀式
アパートの窓の外は、夕方の光がゆっくりと青へ沈んでいくところだった。
ベルリンの夜はまだ始まったばかり。
香織はスーツケースを開け、ミロンガへ行くための服を選び始めた。
今夜は踊らないつもり。
でも、見ているだけだからといって、Tシャツとジーンズというわけにはいかない。ミロンガは社交の場でもあるのだから。
鏡の前に立ち、ポニーテールにしていた長い髪をほどく。
肩に落ちる重さが、久しぶりに“自分の女性らしさ”を思い出させた。
その瞬間、ふっと脳内にメロディが流れる。
"I feel pretty… Oh, so pretty…"
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』で、主人公マリアが“恋によって輝きを感じ始める”場面の曲だ。
ただ香織の場合、もちろん恋ではない。
新しい街に立ち、少しだけ気持ちが上向いているだけ。
恋をしているわけでもない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、ベルリンで初めて迎える夜が、いつもより少しだけ特別に思えただけ。
黒のトップスに、赤のフレアスカート。もし万が一ダンスに誘われても、足が広がる余裕がある。
赤いタンゴシューズと同じ色の、たっぷりとした布の揺れ。
ストッキングは肌色、耳元には小さな赤いピアス。
安物だけど、夜の照明の下ならそれなりに光る。
化粧ポーチを開くと、指先が自然に動き始め、頬にほんのり色を添える。
"I feel charming… Oh, so charming…"
あきれるほど素直で明るい歌なのに、いまの自分には妙にしっくりくる。
きっとベルリンという街が、何歳になっても“また始めていいよ”と言ってくれているのだ。
鏡に向かって髪をまとめる。
背中を覆うまで伸びた黒髪は、還暦を迎えた今でも豊かだ。
ところどころ白いものが光るのはご愛嬌だと観念している。
高めの位置できりっと結んだポニーテールが、首筋をすっと出した。
その髪を揺らして歩くたびに、「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせる。
何が大丈夫なのかはわからないけれども。
最後にピアスをつけ、姿見の前にもう一度立つ。
胸の奥で、音楽の最後のフレーズが小さく弾んだ。
“まあ、いいか。ちょっとくらい浮かれていても。”
身支度が整った。
軽く息を整え、香織は部屋を出た。
ベルリンで最初のミロンガへ向かう足どりは、自分でも驚くほど軽かった。
タンゴに出かけるというより、これから“人生の続きを確かめに行く”ような気分だった。




