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序章 第2話 ベルリンのアルトバウの小さな自由

■定刻の到着、そして再会


ベルリン中央駅に着いた列車が静かに止まる。

遅延することで有名なDB(ドイツ鉄道)なのに、珍しく定刻だ。

香織は思わず笑ってしまった。


ホームに立つ娘の姿を見つけた瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。


「ママ!」


リサは軽く手を振りながら近づき、スーツケースを受け取った。


その仕草に、いつの間にかすっかり“ベルリンの人”になった娘のたくましさが滲んでいた。


「どう?まだ住めそうな街でしょ?」


「ええ、空気がちょっと湿ってるけど、悪くないね。」


「ミュンヘンよりはまだ家賃マシだから。こっちのほうが断然生きやすいよ。」




歩き出そうとした瞬間、またスマホが震いた。


今度は妹と弟の家族グループチャットだった。




「あ、リサ、ちょっとだけ待って。返信だけしちゃうから」


〈ベルリン着いた? 写真送ってー〉


〈楽しんでね。仕事しすぎないように〉


二人とも、まだそれぞれの人生を組み立てている最中だ。


頼りにするつもりはない。


けれど、こういう一言があると嬉しいものだ。


“はいはい、母は元気よ”


と軽く返信して、スマホをしまった。





■Altbauの小さな自由


ベルリン中央駅で香織を迎えてくれたリサが意気揚々と案内してくれたのは、ドイツ語でアルトバウ(Altbau)と呼ばれる築百年の古い建物だった。


歴史を感じさせる天井の高い建物が多く、ドイツでは新築物件よりも好まれることも多い。




「ちょうどいいタイミングで、知り合いが引っ越したんだよね。だから速攻で私が契約したんだ」




リサが取り出した鍵が重たい音を立てて回った瞬間、どこか遠い日の静けさが胸の内に落ちてきた。




——離婚の日。


判を押す音だけが、やけに大きく響いた。




その一回きりの音が、長い年月を閉じる扉のようだった。




色のない一日だった。


世界が少しだけ灰色に濁ったように見えた。


荷物をまとめる手先だけが、唯一現実だった。




静かな部屋の中で、


「これでいいのよね」と自分に問いかけても、


返事をする心がどこにも見当たらなかった。




鍵を開けるリサの背中越しに部屋を覗き込んだ香織は、小さく感嘆の息を吐いた。


高い天井ときしむパーケット(無垢材の木の床張り)の床、厚い壁が街の音を柔らかく遮っている。


白い木枠の窓から午後の光が入り、古さではなく、時間の深さを感じさせた。




「いいわね、ここ。落ち着く。」


「ワンルームでちょっと狭いけど、ママ一人なら十分。ミュンヘンの3LDKは、広いのにいつも物でいっぱいだったでしょ?」


「そうね。あの家は彼の趣味で、家具も色もぜんぶ“彼ワールド”だったわ。」


「シュテファン、ほんとにモノ捨てられなかったもんね。」


「リビングの片隅に、私も無理やり本を置いたりしてたけどね。」


ふたりの笑い声が部屋に溶けていく。


笑いながらも、胸の奥にわずかな痛みが残った。




広いはずのに狭い家。


沈黙とモノだけが増えていく日々。




ミュンヘンでは広かったけれど、息が詰まる家。


ベルリンのこの部屋は狭いのに、風が通っていた。




■母と娘、踊りの記憶


リサがすでに部屋に届いていた段ボールを開けると、淡いピンクの布靴が出てきた。




「ママ、これ……懐かしい。バレエの靴だ。」


「そうよ。あなたが子どもクラスに行ってた頃、


 私も夕方の大人バレエに通ってたの。」


「思い出すね。あのバレエ教室、あんまり好きじゃなかったんだよね。」


「え、そうだったの?マジメに通ってたのに。」


「なんか、あそこにいる女の子たち、近所のグループだけで固まってて、私は外モノだったんだよ」




そうだったのか!


数十年を経て知る真実である。




部屋にふと、ミュンヘン時代の光景が浮かぶ。


小さな手を取ってレッスンスタジオへ通った日々。




リサが靴を指でなぞる。


「まだ形、きれい。ママあの頃、よくリビングでストレッチしてたよね。」


「うん。パパには“そんなとこで踊るな”ってよく言われたけど。」


香織は笑いながら答える。


軽い冗談のようで、その奥に少しだけ息苦しさが残っていた。


ほんの数秒、部屋の空気が静かになった。


バレエシューズ越しに触れた木の床の感触、鏡越しに見た自分の姿。




——あの頃、踊っているときだけは、自分を取り戻せた。




香織はリサから受け取ったバレエシューズをそっと段ボールに戻し、代わりにスーツケースの底から一つの箱を取り出した。




中には赤いタンゴシューズ。


その革の色が、光の角度で少し褪せて見える。




触れた瞬間、あの木の床の匂いが蘇る。


三十年前のミュンヘン、まだ独身だった頃。


週末のタンゴ教室。


レッスン後のカフェで、踊り仲間の男性と笑い合った。




——けれど、そのすぐあとに出会ったのは、ロックンロールは好きなのに、リズム感のない人だった。


彼とも一緒に踊れればと思って、一度、2人でタンゴのお試しレッスンに行ってみた。


けれど、ステップを踏むたびに、まるでブルドーザーかゴジラ相手に押し引きしてるみたいだった。


汗だくのそんな姿を見て、「ああ、これは一緒に踊るのはムリだ」と悟った。


そうして、赤い靴は箱ごとクローゼットの奥に封印した。


あのとき封印したのは、踊りではなく、自分の中の“リズム”だったのかもしれない。




香織はそっと指先で革をなでる。


少し色褪せた光沢が、あの頃の自分を静かに呼び戻してくる。




■母と娘、そして赤い靴


「ママ、また踊るつもりでしょ?」




リサの声にはっと顔を上げる。


しばし思い出に浸っていたようだ。




「ええ、今度こそ、人生のステップを間違えないようにするつもり。」


「ママらしいや。じゃあ私はこのあと予定があるから行くね。明日か明後日、一緒に食事する?」


「いいね。じゃあテキストするから」


リサは笑いながら玄関に向かい、コートを羽織る。




ドアが閉まる音がして、部屋に静けさが戻った。


香織はグラスにワインを注ぐ。


「引越し記念に一杯だけ」


赤い液体が、靴の色にゆっくりと重なる。


「あの靴で、もう一度人生を踊るのよ。」


ゆっくりとグラスの液体を飲み干すと、彼女は立ち上がりスマホの画面を開いた。


“TANGOLOFT – Sonntag Milonga ab 20 Uhr.”


「タンゴロフトー日曜日のミロンガ、午後8時から」




時刻はもう、夜の七時を過ぎている。


香織は小さく微笑んだ。


「さあ、行こう。ベルリンの夜へ。」

一週間に一度のペースで投稿していきます。

次回投稿は、2026年1月5日の予定です。

楽しみにお待ちください。

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