表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/14

第二章 第7話 触れたら終わり

4回目のレッスンの日。

タンゴスタジオ ”エストゥディオ・デル・ソル” 。

スタジオの扉を開けた瞬間、香織は理由の分からないざわめきに胸を突かれた。


空気が違う。


温度が、呼吸が、スタジオ全体がほんの少しだけ張りつめている。


(……いる?)

誰に聞くわけでもなく、ただ“気配”だけで悟ってしまう。


(気配で悟るって、野生動物か、わたしは?)

と自分で自分にツッコミを入れてみるも、心臓がゆっくりと、しかし確実に速度を上げていくのがわかる。


微かに震える手でダンスシューズに履き替え、フロアに出ると、クララが香織に向き直って告げる。

「今日は久しぶりのスプリンガーが来てくれているわ。——」

香織は息を止めた。

「ゲオルグよ。」


その名前が出た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


ゲオルグは静かに会釈をした。

黒いシャツ。

無駄な装飾のない姿勢。

視線は穏やかで、しかしどこか深い。


香織は目を逸らしそうになって、できなかった。

近づいてくる。

距離が縮まるたびに、呼吸が浅くなる。

「こんにちは。」


低い声。

淡々としているのに、なぜか胸がざわつく。

手を差し出され、香織は触れた瞬間——

思わず息を呑んだ。

(……全然違う。)


マティアスでもない、他の誰とも違う。

ただ手を添えただけなのに、身体のどこか奥が反応してしまう。


音楽が始まる。

一歩目を踏み出す。

もうそれだけで、世界が切り替わる。


背中に添えられた彼の手のひらから伝わるわずかな圧。

呼吸のリズム。

歩幅の予兆。


音楽が流れているはずなのに、ゲオルグと歩くと、“音が先に服従する”ように感じる。


(ああ……これだ。)

カミナータでこんなにも世界が変わるなんて。


軸が通るどころではない。

身体の中心が彼に向かってわずかに傾く。


香織は必死に理性をつなぎ止めようとした。

それでも、頬に汗が一筋落ちた瞬間、すべてが崩れた。


ゲオルグが軽く眉を動かし——

ふっと、手が伸びた。

指の甲で、迷いなく香織の頬に触れる。


汗を、ひと拭い。


まるで当たり前のことのように。

呼吸の乱れを見透かしたかのように。


触れられた瞬間、香織の胸の奥で何かが音を立ててはじけた。

(やだ……こんなの反則……。)


呼吸がうまくできない。

足が地面に触れているのかどうかも分からない。

とにかく、近い。

近すぎる。

音が、身体に直接触れてくる。


クララは遠くから様子を見て、小さく目を細めた。

「……これは危ないわね。」


ディエゴが肩をすくめる。

「うん。あれはレッスンじゃなくて、事件だよ。」


音楽が終わる。

ふたりは静かに離れた。

距離が離れた瞬間の方が息ができなかった。


「はい、じゃあパートナーチェンジ」

クララが皆に呼びかける。


ゲオルグは淡々と、しかしなぜか優しい声で言った。

「ダンケ。 とても良かった。」

その一言だけ残し、隣のフォロワーの方へ歩いていく。


香織はその場に立ち尽くした。

汗が頬に残っているはずなのに、そこだけ温度が全く違う。

ただ、ひとつ分かったことがある。

——触れたら終わり。

そういう種類の人なのだ。

そして、“終わってしまうかもしれない”ほうに、もう心が動き始めている。


★★★

レッスンがすべて終わったスタジオには、さっきまでの熱気とは違う、静かな湿度だけが残っていた。

クララは鏡を拭きながら、ゲオルグと香織が踊った一曲を思い返していた。


あれは偶然ではない。

技術でも経験でもない。

もっと原始的な、“相性の一致”。


すぐに恋に落ちるわけではない。

火花が散って燃え上がる若い恋とも違う。

ただ——

あの二人の間では、もう後戻りができない何かが動き始めてしまった。


ゲオルグは普段、誰に対しても距離を保つ。

レッスン中の触れ方はあくまで中立で、余計な親密さを入れないのが彼の習慣だ。


その彼が香織の汗を指で拭った。

あれは事故でも気まぐれでもない。

身体が先に反応してしまった証拠。


クララは窓を開け、夜風を入れながら小さく笑った。

「……半年あれば十分ね。」


興味があるわけではない。

ただ経験で分かってしまうだけ。

じわじわと育つ火種のほうが、一瞬で燃え上がる恋よりずっと強く、ずっと長く灯り続けるものだということを。


ディエゴが横から「何が?」と声をかけると、クララは肩をすくめて鏡の布をたたんだ。

「まあ……タンゴで起きる“いつものこと”よ。」

それ以上は言わず、スタジオの明かりをひとつずつ落としていく。

二人の旅が、どんな速度で始まるのか——

それだけは、もう読み切れない。

ただひとつ確かなのは、今日、香織とゲオルグの間に小さく落ちた火種は、もう誰にも消せないということ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ