第二章 第7話 触れたら終わり
4回目のレッスンの日。
タンゴスタジオ ”エストゥディオ・デル・ソル” 。
スタジオの扉を開けた瞬間、香織は理由の分からないざわめきに胸を突かれた。
空気が違う。
温度が、呼吸が、スタジオ全体がほんの少しだけ張りつめている。
(……いる?)
誰に聞くわけでもなく、ただ“気配”だけで悟ってしまう。
(気配で悟るって、野生動物か、わたしは?)
と自分で自分にツッコミを入れてみるも、心臓がゆっくりと、しかし確実に速度を上げていくのがわかる。
微かに震える手でダンスシューズに履き替え、フロアに出ると、クララが香織に向き直って告げる。
「今日は久しぶりのスプリンガーが来てくれているわ。——」
香織は息を止めた。
「ゲオルグよ。」
その名前が出た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
ゲオルグは静かに会釈をした。
黒いシャツ。
無駄な装飾のない姿勢。
視線は穏やかで、しかしどこか深い。
香織は目を逸らしそうになって、できなかった。
近づいてくる。
距離が縮まるたびに、呼吸が浅くなる。
「こんにちは。」
低い声。
淡々としているのに、なぜか胸がざわつく。
手を差し出され、香織は触れた瞬間——
思わず息を呑んだ。
(……全然違う。)
マティアスでもない、他の誰とも違う。
ただ手を添えただけなのに、身体のどこか奥が反応してしまう。
音楽が始まる。
一歩目を踏み出す。
もうそれだけで、世界が切り替わる。
背中に添えられた彼の手のひらから伝わるわずかな圧。
呼吸のリズム。
歩幅の予兆。
音楽が流れているはずなのに、ゲオルグと歩くと、“音が先に服従する”ように感じる。
(ああ……これだ。)
カミナータでこんなにも世界が変わるなんて。
軸が通るどころではない。
身体の中心が彼に向かってわずかに傾く。
香織は必死に理性をつなぎ止めようとした。
それでも、頬に汗が一筋落ちた瞬間、すべてが崩れた。
ゲオルグが軽く眉を動かし——
ふっと、手が伸びた。
指の甲で、迷いなく香織の頬に触れる。
汗を、ひと拭い。
まるで当たり前のことのように。
呼吸の乱れを見透かしたかのように。
触れられた瞬間、香織の胸の奥で何かが音を立ててはじけた。
(やだ……こんなの反則……。)
呼吸がうまくできない。
足が地面に触れているのかどうかも分からない。
とにかく、近い。
近すぎる。
音が、身体に直接触れてくる。
クララは遠くから様子を見て、小さく目を細めた。
「……これは危ないわね。」
ディエゴが肩をすくめる。
「うん。あれはレッスンじゃなくて、事件だよ。」
音楽が終わる。
ふたりは静かに離れた。
距離が離れた瞬間の方が息ができなかった。
「はい、じゃあパートナーチェンジ」
クララが皆に呼びかける。
ゲオルグは淡々と、しかしなぜか優しい声で言った。
「ダンケ。 とても良かった。」
その一言だけ残し、隣のフォロワーの方へ歩いていく。
香織はその場に立ち尽くした。
汗が頬に残っているはずなのに、そこだけ温度が全く違う。
ただ、ひとつ分かったことがある。
——触れたら終わり。
そういう種類の人なのだ。
そして、“終わってしまうかもしれない”ほうに、もう心が動き始めている。
★★★
レッスンがすべて終わったスタジオには、さっきまでの熱気とは違う、静かな湿度だけが残っていた。
クララは鏡を拭きながら、ゲオルグと香織が踊った一曲を思い返していた。
あれは偶然ではない。
技術でも経験でもない。
もっと原始的な、“相性の一致”。
すぐに恋に落ちるわけではない。
火花が散って燃え上がる若い恋とも違う。
ただ——
あの二人の間では、もう後戻りができない何かが動き始めてしまった。
ゲオルグは普段、誰に対しても距離を保つ。
レッスン中の触れ方はあくまで中立で、余計な親密さを入れないのが彼の習慣だ。
その彼が香織の汗を指で拭った。
あれは事故でも気まぐれでもない。
身体が先に反応してしまった証拠。
クララは窓を開け、夜風を入れながら小さく笑った。
「……半年あれば十分ね。」
興味があるわけではない。
ただ経験で分かってしまうだけ。
じわじわと育つ火種のほうが、一瞬で燃え上がる恋よりずっと強く、ずっと長く灯り続けるものだということを。
ディエゴが横から「何が?」と声をかけると、クララは肩をすくめて鏡の布をたたんだ。
「まあ……タンゴで起きる“いつものこと”よ。」
それ以上は言わず、スタジオの明かりをひとつずつ落としていく。
二人の旅が、どんな速度で始まるのか——
それだけは、もう読み切れない。
ただひとつ確かなのは、今日、香織とゲオルグの間に小さく落ちた火種は、もう誰にも消せないということ。




