表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/14

第二章 第5話 熱の行き場

タンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルの扉を押した瞬間、温かな空気と木の匂いがふわりと香織を包んだ。


二度目のレッスン。

なのに、懐かしさの一方で、胸の奥にどこか空白がある。


理由は分かっている——今日、ゲオルグはいない。

出張中なのだそうだ。


クララはスタジオに入ってきた香織の姿を一瞥し、すぐに首を傾げた。

「肩が上がってるわ。呼吸が浅いからね。」

言葉は柔らかいのに、核心だけを射抜く。


クララは香織の背後に立ち、肩甲骨の下にそっと手を添えた。

「吸って……そう。真上に伸びて。吐くときは胸じゃなくて、背中をひらくの。」

手の温度が、閉じたままだった扉をひとつひとつ外していくようだった。


香織は、自分が吸い込んだ空気が、肺の奥に落ちていくのを感じていた。

(こんなに呼吸って入るんだ……。)


長いあいだ使っていなかった身体が、ひらき始める。

けれど心はまだ、初回の“あの瞬間”のまま動けずにいた。


クララは香織の目を見つめ、意味ありげに微笑む。

「呼吸がひらけば、気持ちも動くわ。今日はそこまで行きたいところね。」


その時、クララが手招きしたのは、穏やかな表情の男性だった。

長身ではないが、姿勢が良く、落ち着いた雰囲気がある。


「香織、紹介するわ。マティアス。いつも助けてもらってるスプリンガーよ。」

マティアスは礼儀正しく手を差し出した。

「こんにちは。よろしくお願いします。」


低めの声が優しく響く。

身長は176センチほどだろうか。

ヒールを履いた香織と並んでも、近すぎず、遠すぎず。


二人は音楽に合わせて歩き始めた。


——悪くない。


むしろ、丁寧で安定したリードだ。

最初の一歩から、香織の重心を大切に扱ってくれる。


それでも。

(違う……。)

言葉にならない違和感が、身体のどこかに沈む。


初回のレッスンで、ゲオルグの指先が背中に触れた時に走ったあの電流。

沈黙の中で、呼吸だけが奇妙に重なったあの数秒。


マティアスのリードは優しい。

心地よい。


ただ、心が動かない。


クララは遠くから香織の様子を見て、ディエゴにささやく。

「悪くないわね。でも、まだ心が上の空。」


ディエゴは笑う。

「初回で火花が散ったんだ。そりゃ比べちゃうさ。」


マティアスのリードに従い、ステップを踏んでいる香織の頭の奥では、シャーデー Sadeの “No Ordinary Love” のイントロが広がっていた。

ベースが低く沈み、静かな水面のように揺れる。

——No ordinary love

——No ordinary love…


タンゴとは違う、密やかな湿度を帯びた世界。

胸を締めつけるのではなく、ただ静かに沈ませるメロディ。


(そうね……今日は特別じゃないんだ。)


マティアスの歩みに合わせて身体は動く。

でも、心だけが別の音に引き寄せられていく。


“これは普通のレッスン。

 普通の相手。

 普通の時間。”

シャーデーの声が囁くように告げる。


そこでようやく香織は気づく。

——初回に感じたあの衝撃は、もう“普通”ではなかったのだ、と。


レッスンが終わる頃には、小雨が窓を叩いていた。

スタジオを出ると、冷たい空気が頬に触れる。


マティアスは礼儀正しく「また来週」と声をかけた。

香織は微笑みを返したものの、胸の奥ではまだ、シャーデーの歌が淡く響き続けていた。


香織は傘を開いた。

外気が頬に触れると、今日のレッスンでひらいた呼吸が、その冷たさでまたすこし縮こまる。


(真面目に受けてるのに……どうして熱が入らないんだろう。)


答えは出ない。

ただ、あの日に触れた“何か”が、まだ胸のどこかで居座っているだけだった。


スタジオを離れる香織の背中に、雨音が静かに降り積もる。


No ordinary love…

 こんな気持ち、まだ名前もつけられないのに。


雨の中を歩きながら、香織の夜が静かに深まっていく。

熱の行き場を失ったまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ