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第二章 第4話 鏡の中で起きたこと

レッスンが終わり、生徒たちが引けたあとのタンゴスタジオは、ダンスの熱気がまだほんのり残っていた。

床に差し込むライトが反射し、ゆるやかに陰影をつくる。


クララは鏡の前に立ち、先ほどの二人が踊った位置を眺めた。


(……あの“間”。)


タンゴ講師として20年以上生徒を指導してきた中で、初めてのペアが見せる“あの間”を、クララは忘れたことがない。


それは、呼吸と呼吸のあいだに生まれる小さな共鳴のようなもの。

意図して作れるはずもなく、相性がいいときだけ、ほんの数歩で現れる。


クララはグラスを整えながらつぶやいた。

「見たでしょう? さっきの二人。」


奥で音響の片付けをしていたディエゴが顔を上げる。

「もちろん。

 ゲオルグがあの“一歩目で合わせる感覚”を出したの、久しぶりに見た。」


クララは笑いをこらえきれず、肩をすくめた。

「でしょ? あの人、普段は石みたいに変化が少ないのに。」


ディエゴはスイッチを切る手を止め、鏡越しにクララを見た。

「香織の方も悪くなかったよ。

 あの“預け方”、初心者じゃない。」


「ううん、初心者よ。身体の使い方はこれからだけど……」

クララは鏡を撫でるように見つめた。

「心の預け方が自然だったの。」


その鏡は、香織とゲオルグにも、同じように作用する。


香織が初めてその“場所”に立ったとき、自分では気づいていなかった癖が、はっきりと映った。


肩がほんの少しだけ内に入り、視線が床を探すように落ちる瞬間。


「うまく踊りたい」という気持ちよりも、「間違えたくない」という気持ちの方が、前に出ている姿だった。


香織は、その像から目をそらせなかった。

鏡に映っているのは、 タンゴを踊る自分であると同時に、人と向き合うときの、いつもの自分でもあったからだ。


その日から彼女は、ステップより先に、姿勢を意識するようになる。

背筋を伸ばすことは、相手を見る勇気を持つことと、同じ意味を持ちはじめた。


ゲオルグの場合は、逆だった。

彼がその位置に立つと、動きは美しく、線も強く映る。


けれど、よく見ると、相手の存在が、どこか背景のように薄くなっている。

主役はいつも自分で、パートナーは「合わせてくれる人」になってしまっている。


ゲオルグは最初、それを長所だと思った。 「自分は表現力がある」と。


だが、鏡に映る香織の緊張した背中を見たとき、ふと、自分が誰のために踊っているのか、分からなくなった。

美しく映る自分と、誰ともつながっていない自分が、同時にそこに立っていたからだ。


その鏡は、未来を予言するわけではない。

ただ、人が見たくなかった自分を、少しだけ正直に映す。

香織には「向き合う勇気」を、ゲオルグには「向き合っていない自分」を、それぞれ突きつける。

そして二人は、同じ鏡を見ながら、まったく違う問いを抱えることになる。


香織は思う。――私は、誰となら、胸を張って立てるのだろう。


ゲオルグは思う。――自分は、本当に誰かと踊っているのだろうか。


静寂がふたりの間に落ちた。

レッスン中の二人の姿が、鏡の奥にまだ残像のように揺れている。


ゲオルグのほとんど変わらない表情。


香織の少し照れたような姿勢。


その間に生まれた、言葉では説明できない“柔らかさ”。


ディエゴがグラスを手に取りながら言った。

「君、レッスン中に一瞬固まってたよね。

 あれ、気づいた証拠でしょ?」


クララは照れたように笑った。

「だって……あれは来ると思ったのよ。

 あの空気の変わり方、見た?

 床の鳴りも違ったわ。」


床の鳴り。

クララとディエゴだけが聞き分けられる微細な変化。


ふたりはスタジオを長年育ててきた。

床の木目の癖も、生徒たちの呼吸も、ゲオルグの“わずかな間の揺れ”すら理解している。


「ゲオルグ、最後に“よく踊れた”なんて言ってたね。」

ディエゴは笑いながら言った。

「彼、あんなこと言うの初めて聞いたよ。」


クララはグラスを磨きながら、ゆっくりと答えた。

「あの二人、まだ気づいてないわ。

 でも……もう始まってる。」


「始まってる、ね。」


ディエゴは頷き、鏡の中の空っぽのスタジオを見つめた。

「いい組み合わせだよ。

 ああいう“自然な間”は作れない。」


クララは鏡の端を指でなぞりながら言った。

「このスタジオには分かるのよ。

 今日、二人の間で起きたこと全部。」


ディエゴもまた微笑む。

「エネルギーは嘘つかないからね。」


クララは鏡の前で軽くステップを踏んだ。

床が小さく鳴る。

(今日、この鏡は見てしまった。

 二人の世界が、一歩だけ動く瞬間を。)


香織もゲオルグも、自分の変化にまだ気づいていない。


でも鏡は知っている。

床は知っている。

スタジオ全体が、あの静かな“跳ね”を覚えている。


レッスンの余韻が、しずかに、しずかに空気に溶けていった。


「二人とも、これから大変でしょうね。

 タンゴは心を開かないと踊れないから。」

クララはグラスを磨きながら言った。


「でも……いいわ。

 ああいう“始まり”を見るのが、わたしは好き。」


クララとディエゴ、夫婦の間に流れる空気は、まるで長年かけて育てたワインのように熟していた。


その空気の中で、二人は確信していた。

この日のレッスンは、誰かの人生が静かに動き始めた瞬間だと。

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