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第二章 第3話 音にならない心拍と、重なる呼吸

クララが主催するタンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルの扉が開いたとき、ゲオルグはストレッチをしながら、何気なくそちらへ目を向けた。


(……あ。)

思考より先に心が反応した。


胸の奥で、ほんの小さな筋肉がひとつ動いたような感覚。


(ここに来るとは……)

それは驚きとも喜びとも違う。

もっと奥深くに沈んでいた感覚。


静かな人間が静かに感じる種類の“明るい衝撃”。


クララの主催するミロンガ、タンゴロフトの夜に見かけた女性。

入り口で控えめに会釈し、騒がしい場のなかで静かに佇んでいたアジア系の女性。


彼女はそれほど踊らなかった。

ただ場の空気を観察するように、澄んだ目で周囲を見ていた。


その“静けさ”が、妙に印象に残っていた。


まさかクララのスタジオに来るとは思っていなかった。


「Kaori さんよ!」

クララの明るい声が響く。


カオリ…。

その名を口の中で静かに転がすと、なぜか場の温度が少し変わったように感じた。


ゲオルグは視線を外し、再びストレッチに戻った。


心拍数が高まった気がする。


(落ち着け。)


理由のない高ぶりなど、自分には無縁だ。

そう思い込みながら。


レッスンが始まり、クララがペアを指示した。

「ゲオルグ、Kaori をお願い。」


断る理由はない。

ただ、歩み寄る足がいつもよりわずかに重かった。


向かい合った香織は、どこか緊張と静けさを同時にまとっていた。

「……よろしく。」

そう言った自分の声が、いつもより低く、柔らかく響いたように聞こえた。


(なぜだ?)

考えるより先に、香織の右手がそっとゲオルグの左手に添えられた。


◆ ◆ 最初のホールド


一瞬で分かった。

軽い。


これまで何百人と組んできたが、手を取った瞬間に“重さ”を感じることはあっても、“軽さ”に意識が向くことはなかった。

それが妙に気になった。


(こんなふうに感じたことは……)

言葉にならなかった。


次に、右腕を香織の背へ添える。

わずかな緊張が、手のひら越しに伝わってくる。


でも嫌な強ばりではなく、こちらの温度にすぐ馴染む柔らかさだった。


彼女の呼吸がひとつ落ちたのが分かった。

その呼吸が、自分の胸へと静かに届いた。


(……珍しい。)

相手の呼吸に同調するなど、滅多にないことだ。


レッスンの開始を意図するクララの声が流れ、音楽が始まる。

ベーシック8。


◆ ◆ 一歩、世界が動く


ゲオルグは最初の一歩をゆっくりと示し、香織の身体に“間”を伝える。


その瞬間――


右手のひらの感覚が変わった。


(合わせてきた!?)


初心者レベルの人間が、最初の一歩で合わせることはほぼない。

だが香織は、音を追うのではなく、自分の出した“間”に乗ってきた。


だから、驚いた。

けれど顔には出さない。


二歩目。

軸が合う。


三歩目。

胸の前の空気が、すっと軽くなる。


その軽さに、ゲオルグの心拍がほんのわずか跳ねた。


音にならない、微細な跳ね。

本人でさえ、気づこうとしなければ通り過ぎてしまうほどの変化。

しかし身体は誤魔化せない。

長年の経験が、そのわずかな狂いをはっきり覚えていた。


(……どうしてだ?)


初心者のはずだ。


初めて会った女性だ。

たった数歩しか踊っていない。

それなのに、胸の奥に温度が残る。


特別な意味はない――

そう言い聞かせても、言葉が胸の奥へ沈んでいく途中で、何かに引っかかるような感覚があった。


香織の右手が、自分の手にすっと馴染んだとき。


預けられた身体が、わずかに重心を委ねたとき。

心拍が、ひとつだけ音を外した。


(……どうかしている。)

理由は思いつかない。


思いつけるはずもない。


ただ、その“音にならない心拍”だけが、今日のレッスンを忘れ難いものにしていた。


レッスン後、礼を言うとき、ゲオルグは普段なら絶対に言わない言葉を口にしてしまった。

「……よく踊れた。」


香織が軽く会釈し、背を向けたあとで、ゲオルグは自分の口に手を当てた。


(なぜこんなことを?)

答えは出ない。

出ないまま、胸の奥に微かな熱だけが残っていた。


音にも言葉にもならない心拍が、彼の中で静かに続いていた。

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