序章 第1話: 赤い靴と、新しい列車のリズム
ミュンヘン中央駅を出た列車が、静かに北へ走り出した。
窓の外に流れるのは、雨上がりの灰色の空と、濡れた線路のきらめき。
香織は座席のテーブルに置かれた紙コップのカプチーノをひと口すする。
「さよなら、ミュンヘン」
思わず口から漏れたその言葉に、自分でも少し驚いた。
三十年以上暮らした街。
恋も、結婚も、涙も、全部あの街に置いてきた。
これから向かうのはベルリン。
赤いタンゴシューズの箱だけが、唯一の旅の相棒だ。
列車がゆっくり動き出したところで、胸の奥にふっと音楽が流れた。
『Buenos Aires』。
ミュージカル『エビータ』の中で、主人公エバが“新しい人生をつかむ”ために都会へ向かうときに歌う曲だ。
タンゴの国・アルゼンチンを舞台にした物語で、野心、解放、昂揚が混ざり合った強いエネルギーのナンバー。
香織は別にエバのように上昇志向が強いわけではないし、劇的な人生を望んでいるわけでもない。
それなのに、この旅立ちのタイミングでこの曲が浮かんだ。
「なんで今これ?」
そう首をかしげつつ、窓の外へ視線を戻す。
ただ一つだけ確かなのは、ミュンヘンとは少し違う自分になりたい――そんな静かな願いが胸のどこかにあったこと。
曲はすぐに消えた。
けれど、今日から何かが動き出す予感だけが、じんわりと残った。
胸の奥で“Buenos Aires”の高揚が一瞬だけ揺れた。
列車が軽く揺れた。
その瞬間、胸の奥でほこりをかぶっていた記憶がふっと開いた。
——あの頃、夕暮れのバレエ教室。
木の床に細く差し込むオレンジ色の光。
軽快なピアノに合わせて、エシャッペ、パッセ。
つま先が床を離れるたび、世界からひとつ自由がもらえる気がした。
誰より上手かったわけじゃない。
だけど、跳ね返ってくる音と呼吸だけは、いつも味方だった。
「体が動くって、こんなに嬉しいことだったんだ」
初めてそう思った日の、ほのかな震えだけが今も残っている。
車内放送が流れた。
「次の停車駅は、ベルリン中央駅」
窓の外の空が少しずつ青みを帯びていく。
電車が減速し、ほんの少しだけ沈むように揺れた。
窓のガラスに映る自分の顔が、ふと別の記憶を連れてくる。
——静かなリビング。
子どもたちが幼かったころ、私はソファで本を読もうとしていた。
けれど前夫はいつも言った。
「家族なんだから、ボードゲームでもしないと。」
テーブルの上を片付けて、子供向けのボードゲームを広げる。
誰も本当には楽しんでいなかった気がする。
それでも、彼はこだわり続けた。
“こうあるべき家族像”を、必死に取り戻そうとしているように見えた。
自分が叶えられなかった夢を、私たちに重ねていたのかもしれない。
リビングには笑い声ではなく、“無理に作られた団欒の音”だけが響いていた。
ベルリン中央駅の案内が車内に流れたころ、スマホが小さく震えた。
リサからだった。
「ママ、ちゃんと電車動いてる? DBだから心配」
「珍しく定刻よ。ベルリンが私を歓迎してるのかも」
「ふふ、ポジティブね。」
思わず口元がほころぶ。
相変わらず母より大人びた口調だ。
三人きょうだいの中で一番しっかりしていて、
香織が一番頼りにしている相手でもある。
ほんの短いやり取りなのに、胸の奥のこわばりが少しだけほどけた。
既読マークがついて、数秒後にスタンプが返ってきた。
笑う猫の顔。
それだけで十分だった。
母娘のあいだに漂う軽い風のような距離感が、心地いい。
ベルリン中央駅のアナウンスが響いた。
列車が滑るようにホームへ入る。




