第87話 「大海原」
「うっぷ……おぇ、げぇ……」
ルーイ=カルミアは船酔いしていた。
先日齢十七を数えたばかりの自立した大人ではなく、かと言って手のかかる子どもというわけでもない微妙な年頃。
灰色の髪と瞳、それ以外は――かなり女の子よりの顔なことを除けば――特に代わり映えのない少年だ。
少年を乗せているのは中型の旅客船。
潮風を帆へ存分に乗せ、大海原を悠々と駆ける。
海を映す青い空にわたあめのような白い雲と、これ以上ないほど目に優しい光景が広がっている。
そんな、ありふれた言葉しか出ないような大自然を前に件の少年は――。
「おえっ……げぇっ、げ」
ただただ、目の前の錆びたバケツに汚らしい吐瀉物をまき散らしていた。
「……大丈夫ですか?」
と、ルーイの隣で手摺に手をかけ、潮風に当たっていた少女が、心配とも呆れともいえる表情で声を掛ける。
深く熟成された赤ワインを彷彿とさせるボルドーの髪は肩口で切られ、新緑の息吹を思わせる切れ長の大きな翡翠の瞳を持つ端麗な容姿の少女。
彼女の名はクレハ=オリヴィア。
整った顔立ちは絵画に描かれる時の女神を彷彿とさせ、すらりと伸びた長い手足と括れた腰……少しばかり肉付きが足りない部分もあるが(ギロリ!)とても魅力的な肢体を持つ大人の淑女に見える。
ルーイと同じような味気ない外套に身を包んでいるが、その端麗な容姿と隙のない雰囲気は、甲板上にいる者たちの視線を一手に集めている。
「大丈夫……に見え、おぅ、おろろ」
「……」
ルーイがバケツに屈み込む。どうやら本格的に酔ってしまっているようだった。
嘆息しながらも見兼ねたクレハは、傍に歩み寄り背中を優しく擦ってやっていた。
「うぅ……わるぃ……たすかろろ」
「そこまで揺れていない旅客船でここまで船酔いが酷いなんて……アレほどの動き、身のこなしが出来るというのに、貴方の三半規管は一体どうなっているのですか」
「揺れは全然どっぷ……なんだけど水が……」
「………………」
そうだった。
目の前の少年は水が大の苦手で湯船に浸かるどころか、シャワーを浴びるのもおっかなびっくり、と話していたことをクレハは思い出した。
ルーイ本人も明確な理由に心当たりはないようだったが、風呂にすら恐怖を抱くものにとって、無限の大海原など悠久の地獄と代わりないだろう。
だが、そうであればクレハの頭に自然と新たな疑問が浮かんだ。
「では、何故わざわざ甲板に出て来たのですか? 船室で大人しくしていればよかったのに」
「それはそうなんだが……おぅぶ……せっかくぁから、大海原ってもんを、この目で見て……みたくて……あぐ」
「………………」
言わんとすることは分かるが、それにしたってこんな状態になるのであれば、船室から眺めるとか他にもっとやりようはいくらでもあっただろうに。
やはり呆れた表情を浮かべるクレハだったが、背中を擦る手は優しく、ルーイが落ち着くまで手を止めることはなかった。
クレハの姿を横目でチラチラと流し見ながら、声を掛ける隙を伺っていた男たちは、二人のやり取りを見て舌打ちしつつ、揃ってその場から離れていった。




