第38話 性的嗜好
まるで水底からあぶくが上がるように、クレハはゆっくりと意識を取り戻した。
――そして、急激に覚醒する。
「っつ……」
まず襲い掛かってきたのは割れんばかりの頭痛。
次に、背中をまるで電気が走っているかのような痺れる痛みが駆け巡る。
左腕は折れ、足も捻挫し、満身創痍といった具合だった。
(私は……)
幸か不幸か、ありとあらゆる痛みが全身を苛み続けることによって、クレハの意識は明瞭としていた。
そして、翡翠の眼が脅威を認識するのに時間は必要なかった。
「グルウゥ」
「!」
クレハの眼前に、デビルゴートの顔が屈み込むようにしてあった。
生臭い鼻息が鼻を突き、汚い涎が真っ白な太ももに垂れる。赤い瞳に慈悲の光は一切なく、ただただ獲物を見定めている。
「くっ!」
クレハは咄嗟に後ろに下がろうとして、岩壁にぶち当たる。
その様子を見て、デビルゴートは口角を上げた。
(笑ってる……!)
デビルゴートは声を発することなく笑っていた。
「どうした? 逃げてみろよ?」
そう言わんばかりの顔は、獲物を追い詰めた捕食者のソレだった。
「〝炎――」
「グルァ!」
「あっ!」
比較的無事だった右手で魔術を放とうとするも、デビルゴートはそれを許さない。
右腕に鋭い爪が刺さっていた。
そのままデビルゴートが立ち上がり、クレハの身体が宙に浮く。
「あああぁぁぁああぁ!!」
爪が刺さる痛みに加え、自重でどんどんと爪が腕に食い込んでいく。
右腕が少しづつ裂けていく痛みに、思わず叫ばずにはいられなかった。
山羊の赤い瞳には確かな愉悦が混じっている。
魔物たちは、殺戮本能で人々を襲う。
殺さなければならない、殺さずにはいられない、殺したい、といった負の欲求。
例えるなら性欲に近い。
魔物たちに性欲は存在しないが、他者を殺戮、蹂躙することで爆発的な快楽を得られるのだ。
そして、一般的な大陸人と同じように、魔物たちも個体によって様々な性的嗜好が存在する。
いま目の前にいるデビルゴートの性的嗜好は、他者をいたぶることに快感を覚えるという、最も愚劣なものだった。
「くっ……!」
右腕が焼けるような痛みを発し続ける中、クレハは気丈にも目の前のデビルゴートを睨みつける。
それこそ、まさにデビルゴートの望むがまま。
己の中の昂りをただ発散する為だけに、デビルゴートは持っていた木の幹をその場に捨て、空いている右手の爪もクレハの左太ももに容赦なく突き立てた。
「あああぁぁっ、あああぁぁぁ!」
「グルアアァアアァアァァアァ!」
雪のように白かった肌は鮮血で赤く塗れ、意志とは無関係に身体が跳ねる。
跳ねれば右腕の爪が更に食い込み、太ももが抉られる。そして、また跳ねる。
地面に赤い雫がポタポタと落ち、やがてそれは赤い水たまりを形作っていく。
クレハの目に涙が浮かぶ。
痛みからではなく、魔物にここまで弄ばれたという悔しさからだった。
「ぐっ……!」
だが、クレハは折れない。
視界の端、自分に付き添ってくれた同伴者の少年の姿が映っている。
(私が……ここで殺されれば……次はルーイ様が……)
クレハの心に広がっているのは、少年を巻き込んでしまった自責と悔恨の念だった。
昨日出会ったばかり、大した説明も出来ない中で自分に同伴してくれたお人好しで、少し意地悪。
だけど、自分が怒るとすぐ謝るような気弱なところもある少年。
プイスという街を、島を護るために一生懸命な優しい少年を、自分が巻き込む形で殺されるわけにはいかなかった。
(せめてルーイ様が逃げる時間は稼がないと……)
しかし、視界の端に頭を抑えたままうずくまるように倒れている少年はピクリとも動く気配がない。
もしや、もう既に――という暗い気持ちを必死に押し殺し、クレハは耐える。
「グルルル」
当然そんな事情など魔物には無関係だ。
目の前の雌が頑丈な玩具であると認識したデビルゴートは、空いている爪四本が所在なげにぶら下がっていることにまた笑い。
遠慮も容赦もなくクレハの肩にも突き刺した。
少女の絶叫、魔獣の歓喜の咆哮が洞窟内に木霊する。




