第30話 「動くな、騒ぐな、じっとしてろ」
「待て」
岩壁を登ってから少し経った頃。
ルーイが左手を上げてクレハを静止した。
「ルーイ様?」
「しっ」
右手の人差し指を立て唇に当て、辺りを伺うように視線だけを左右に振った。
「ゆっくりこっちに」
クレハの右手を取り、ゆっくりと静かに誘導する。
二人は少し離れたところの巨木を背に、息を潜めた。
――次の瞬間。
先ほど二人がいた場所を巨大な影が横切った。
ハッキリとは目視出来ず、朧気な影でしかなかったが、クレハは直感で気付いた。
デビルゴートだ。
朧気な影では昨日と同一個体かまでは分からなかったが、捻れた角と手に持つ幹の形が酷似しているような気がする。
デビルゴートの赤い瞳が濃い霧の中であっても、怪しく輝いている。
最悪と言えるような視界の中でも、首を左右に振りながら獲物を物色しているようだった。
「グルゥ」
デビルゴートが鼻先をこちらに向けた。
一歩進むごとに地面が揺れ、泥がビチャビチャと跳ねる。
数歩進んでは鼻先をひくつかせ、その度に異臭に混じって生臭い鼻息がこちらに吹き付ける。
もはや拷問ともいえるほどだったが、今はそれどころではなかった。
(こっちに気付いてる……一体どうして……?)
デビルゴートはふらふらと彷徨いながらも、確実に二人の元へと近付いていた。
距離にして残り数米。
鈍重な歩みだが、その巨体ゆえにデビルゴートの足ならあと二、三歩といったところ。
(やるしかない……!)
クレハが左手に魔術方陣を展開し、先手を打とうとした――瞬間。
ルーイがバッと外套を広げ、クレハに抱き着いた。
「!?!!?」
咄嗟のことに思わず叫び声を上げそうになったクレハの口を、ルーイの右手が塞いだ。
集中を邪魔されて魔術方陣が掻き消える。
そして耳元で囁かれる。
「動くな、騒ぐな、じっとしてろ」
「!?!?」
耳に当たる吐息がくすぐったい。
その感触に顔を真赤にし、涙目でルーイを睨み付ける。
だが、ルーイはクレハの方を一切見ることなく、デビルゴートへと目を向けていた。
真剣な眼差し、額に流れる汗。触れ合っている胸から高鳴る心音が、振動として伝わってくる。
「グル……」
途端、デビルゴートはまるで獲物を見失ったかのように首を左右に振り、鼻をひくつかせる。
「……ゆっくり幹伝いに移動するぞ」
「んっ……」
またも耳元で囁かれ、自分でも聞いたことのない声が出てしまった。
だが、今は恥ずかしがってる場合でも、困惑している場面でもない。
ルーイが覆いかぶさるような形のまま、二人は巨木を幹伝いにゆっくりと、デビルゴートの視界から完全に外れる位置まで移動する。
もしも今、デビルゴートが持っている幹を振り回していれば、それだけで二人は簡単に見付かっていただろう。
圧倒的な膂力で振り回される幹の威力は推して知るべし。
二人が背にしている巨木がいくら頑丈であっても、それはビスケットのように簡単に砕け散り、二人は完全に視界に捉えられていただろう。
だが、そうはならなかった。
「グルルルル……」
腑に落ちないものを感じつつも、デビルゴートは最後に一度、まるで深呼吸でもするかのように鼻から大きく息を吐き出し、元来た方へと足を向けた。
「………………」
「………………」
まだ二人は動かない。
視界に一度でも映ってしまえば間違いなく追ってくるだろう。
この霧の中で撒くのは簡単だが、またはぐれでもしたら目も当てられない。
やがて地面の揺れが遠くに感じる頃、ようやくルーイは一息ついた。
「……あっぶねー……冷々したわ」
「………………」
「あいつは〝魔女の庭〟の主だ。鼻が異常に進化してやがって、匂いで獲物を追ってるんだ」
「………………」
「どっかに岩壁を繋ぐ道でもあるんだろうな。岩壁の下にも上にも現れやがって、毎度オレも撒くのに苦労するんだ」
「………………」
「昨日あいつと一悶着あったんだろ? そん時に匂いを覚えられたんだろうな。だから、オレの旅装で一時的にクレハの匂いを消したんだ」
「………………」
「……あの、クレハ?」
「……ルーイ様、その……」
「……あ」
ようやくルーイは、自分がクレハを半ば抱きしめるような状態になっていることに気付いた。
当のクレハはルーイの腕の中で小さくなっていた。堂々とした立ち居振る舞いと丁寧な言葉遣いで忘れがちだが、目の前の少女は、そもそも自分とさして歳が変わらないはずなのだ。
オリーブに似た仄かな甘い香りが、異臭の中でもルーイの鼻をくすぐった。
どうしてそんな格好で来たんだ、と言わんばかりの、ニーハイ丈のブーツとショートパンツの間の領域に目が向いてしまう。
抱き締めている肢体は華奢で、こんな細腕ではとても大鎌を振り回せるようには思えなかった。
それらを無意識に意識した途端、ルーイは顔を真っ赤にしながら飛び跳ねんばかりの勢いで、クレハから離れた。
「わ、わりぃ! 咄嗟のことでつい!」
「いえ……」
クレハは俯いたままでその表情は伺えない。
だが、深紅の髪と見紛うほどに紅潮した耳を見れば、察するのは容易であった。
辺りを包む静寂とは別の沈黙が二人を包む。
「……そ、そろそろいいだろ……行こうか……」
「……はい……」
隣合って歩く二人の距離は、先ほどより半歩ほど空いていた。




